鏡合わせのアル、あるいは透き通った陸八魔【ブルーアーカイブ×ジャンケットバンク】 作:ていん?が〜
猪瀬 悠介(イノセ ユウスケ)は、生まれながらにして人の形をした災害だった。
その歪んだ本性は、言葉を覚えるよりも早く芽吹いていた。幼少期の彼は、放課後の路地裏で野良犬を石で叩き殺すことに無上の喜びを見出す子供だった。
硬い石が柔らかな肉を打つ感触、言葉を持たぬ弱者が暴力によって生命の輝きを失う瞬間。その末期の痙攣こそが、彼の魂に刻まれた原体験となった。
思春期に入れば、その対象はより高次な絶望を産む「人間」へと変わった。自分より身体の小さなクラスメイトを暴力で支配し、給食費やなけなしの小銭を奪い、その尊厳を学校の便所の泥水ですすがせる。彼にとって他者の涙は最高級の酒より甘美だった。
高校を中退した後、彼は街の闇金や半グレ組織の末端へと流れ着いた。法を嘲笑い、力こそが正義であると信じて疑わない彼は、債務者の家庭を文字通り「物理的かつ精神的に破壊」することで頭角を現した。泣き叫ぶ母親の前で父親の指を折り、子供の通学路で待ち伏せをする。その悪辣な手口は組織内でも異彩を放っていた。
転機は、彼がたまたま手にした宝くじ、そして法外な利息の闇仕事で得た「あぶく銭」だった。
一夜にして成金となった猪瀬は、自らを「世界に選ばれし強者」と激しく錯覚した。黄金の時計を巻き、イタリア製の高級車を乗り回し、かつて自分をゴミのように扱った世間に向けて札束を投げつけた。だが、真の強者が集う世界に耐えられる器など、彼には最初から備わっていない。
彼がカラス銀行の門を叩いたのは、その膨大な資産を低レートの「5円スロット」や安手のギャンブルで溶かし続け、ついに「人生そのもの」を質に入れざるを得なくなったからだ。
暴力でしか他者と繋がれず、暴力でしか自らを証明できない、空虚な強欲の権化。それが猪瀬悠介という男の正体だった。
「カハッ、ヒャーハッハッハ!!」
猛毒が渦巻くケージの中で、陸八魔アルは狂ったように笑い転げていた。
先ほどまで涙を流して「助けて」と縋っていた、あの気弱で無力な少女の面影はどこにもない。歪んだ口角からは粘着質な唾液が垂れ、大きく見開かれた眼球は、獲物を前にした獣のような獰猛な光を宿している。
「ヒャーハッハッハ! 驚いたかよ姉ちゃん!! 自分の書いた台本がゴミクズになっちまった気分はどうだぁ!? ええ!?」
歪んだ口角から漏れるのは、粘着質で下劣な、聞き手を芯から不快にさせる濁った笑い声だ。
「カハッ、ヒヒッ!! どうした演出家様よぉ!? 震えてんのか、それとも次のセリフを忘れちまったのかぁ!?」
アル――その肉体を借りた「猪瀬」は、ケージのコンソールに土足で乗り、美夜子を指差した。
御手洗は、防音ガラスに張り付き、眼球が飛び出さんばかりに開いてその光景を見つめていた。
「(……真神の時は、あの男の理屈をコピーし、声真似まで完璧に行っていた。だからこそ、あの自信家を内側から食い破れたんだ。……だけど、今回は違う。なぜ、よりによってあんな『クズ』を模倣しているんだ!?)」
御手洗の混乱は頂点に達していた。
だが、それ以上に不可解なことがあった。
毒だ。
ケージ内には、致死量を遥かに超えた猛毒が充満している。倍量フィードバックのペナルティも重なり、通常であれば人間一人が何十回死んでもおかしくない環境だ。それなのに、アルの肌には爛れ一つなく、呼吸は驚くほど深い。
美夜子は、タブレットを持つ手を白くなるまで握りしめ、嘔吐感を堪えるように唇を噛んだ。
「……朝比奈美夜子は、自問しました。なぜ。……なぜ、あなたは死んでいない。……なぜ、そんな下俗な男の真似などしている。……陸八魔アル、その醜悪な態度は、あなたの価値を貶めるだけだと、なぜ気づかないのです」
アルは、首をカクンと傾け、不思議そうに瞬きをした。
「おぉ? なんで死んでねーか不思議か? 肺がドロドロに溶けて、死体袋の中でグチャグチャになってるはずだって思ってんのかぁ?」
次の瞬間、アルは顔をクシャクシャに歪ませ、これ以上ないほど下品に舌を突き出した。
「だが、教えてやんねーーよ!! バーカ!! お得意の頭脳で考えてみろよ、脳みそコネコネして答え探してみろや演出家様、ギャハハハハハ!!」
アルは右手の親指を立てると、自らの首を横になぞる「処刑」のサインを送り、美夜子を嘲弄した。
「せいぜい必死に脚本書いてろよ! 次のページをめくる頃にゃ、お前の喉笛は俺の歯型だらけだぜぇ!!」
「……ッ!!」
美夜子の胸中に、冷徹な計算を焼き尽くすほどの嫌悪感が燃え上がった。
彼女が信奉する「洗練された美」の対極。論理が通じず、知性を排した純粋な暴力。その化身が目の前に立っている。
生理的な嫌悪が、美夜子の判断を狂わせ始めていた。
「朝比奈美夜子は、深い嫌悪を抱きました。……もういい。これ以上の対話(ダイアログ)は不要です。その野蛮な咆哮ごと、あなたの肺を焼き払い、永久に沈黙させてあげましょう。即興劇のバッドエンドを迎えなさい」
第4ラウンド。
アルは「猪瀬」としての振る舞いそのままに、コンソールのボタンを力任せに、そしてランダムに連打した。
「演出内容:劇毒(リアル)」
「演出内容:偽薬(フェイク)」
「演出内容:劇毒(リアル)」
「演出内容:偽薬(フェイク)」
一切の駆け引きがない。ただひたすらに、暴力的な一打。
それは完全な運否天賦、あるいは自暴自棄にすら見えた。
「(読めない……! あんな直感型のバカの思考なんて、データ化の価値すらない。……だが、殺さなければならない。一刻も早く、この汚らわしい存在を視界から消さなければ!)」
美夜子は震える指で「劇毒」を正解として選択する。だが、その瞳にはかつての落ち着きはなく、憎しみが黒く淀んでいた。
――ピコン。
【裁定:不正解】
【ペナルティ:キャストBに倍量フィードバック】
「なっ……が、はぁぁあああ!!!」
美夜子のケージに、毒ガスが逆流する。
彼女は身に纏っていた薄手の寝巻きと深く被ったフードをかき毟り、床に膝をついた。肺が、気管が、熱せられたハンダを流し込まれたかのように熱く灼ける。
「ギャハハハ! 外れだ! 演出家様、演出不足じゃねぇのかぁ!? あぁん!?」
アルはケージのガラス越しに美夜子の顔を覗き込み、粘つく視線で彼女をなめ回した。
「いい顔だ、思い出すなぁ……昔、風俗に沈めたガキも、最後はそんな目で俺を睨んでたっけ。……なあ、お前もこのゲームが終わったら、いい店紹介してやろうか? お前みたいな高飛車なアマが泣きながら股開く姿、客が喜ぶぜぇ、ヒヒッ!!」
「……下衆が……ッ!!」
美夜子は激しく咳き込みながら、地面に這いつくばった。
しかし。
その激痛と屈辱の極致で、美夜子の脳裏に一つの「違和感」が浮かび上がった。
「(……待ちなさい。冷静になりなさい、朝比奈美夜子。……何かが、おかしい)」
その時、美夜子は見た。
アルの左手が、コンソールの脇にある給気ダクトの小さなレバーに、極めて不自然に、しかし精密に触れているのを。
彼女の指先は、まるでモールス信号を送るように、一定のリズムでダクトの防振ゴムを「指の腹で強く圧迫し、瞬時に離す」という動作を繰り返していた。その際、彼女の肩は微かに波打ち、喉の奥で特殊な呼吸音(ハミング)を響かせている。
「(注視しなければ見逃すほどの、微細なストローク。……あそこは、緊急用の換気バルブのバイパス。……そして、あの指のリズムとハミングは……!)」
1年前の怯える少女のような挙動をしていた時。
そして今、猪瀬という狂犬を模倣している時。
その二つの状態において、アルが共通して行っていた動作であった。
「(物理的な共振……! 指先の振動と喉のハミングを特定の周波数で同期させ、給気ダクト内の猛毒成分を、ケージの隅にわずかに生じる「気流の結節点(エア・ポケット)」へと押し込んでいるのだわ。彼女の周りだけ、毒の濃度が極端に薄い空間が形成されている……!)」
美夜子はその「種明かし」に納得し、同時に激しい悦びを感じた。理論で説明がつくのなら、それは自分の「脚本」に取り込めるということだ。
「(……そう。そうだったのですね。脚本は……私の知らないところで、とっくに書き換えられていた。……フフ、面白い。これこそが私の求めていた『予測不能な反逆』……!)」
「……朝比奈美夜子は、勝利を確信しました。……陸八魔アル。あなたの『仕掛け』、看破しましたよ。……さあ、次の演出を始めなさい。私はもう、あなたの罠を自ら踏み抜く準備ができています」
美夜子は愉悦をその身から滲ませながらも、次のラウンドでの反撃を誓った。
「(次の演出で、私が同じ動作をすればいい。あの指の動き、あのハミング。それさえコピーすれば、私も毒を無効化できる。そうして、この醜悪な男を脚本通りに抹殺する!)」
第5ラウンド。
美夜子は猛毒を浴びながら、アルが先ほど見せた動作を完璧にトレースした。指の腹でゴムを圧迫し、喉で特定の周波数を鳴らす。
「(これで、私の周りにもエア・ポケットができるはず……!)」
彼女は深く、深く、ケージ内の空気を吸い込んだ。
……しかし。
「ゴ、フッ……!?」
美夜子の口から、ドロリとした重い鮮血が溢れ出した。
肺が灼けるのではない。内側から「何かが破裂した」ような絶望的な衝撃。
「あ、ぁぁ……ア、あぁ……」
美夜子の顔が、激痛と絶望によって劇的に崩壊していく。
その表情は、もはや人間のそれではない。右目は苦悶に歪んで下方へ垂れ下がり、左目は驚愕で上空を睨む。口元は引き裂かれたように横へと広がり、頬のラインは幾何学的な絶望を描いて断裂する。
まさにピカソが描いた「泣く女」そのもの。色彩を失ったモノクロームの狂気が、彼女の顔面というキャンバスをズタズタに引き裂いていた。
「な、ぜ……。私は、あなたの通りに……動作を……」
美夜子は崩れ落ち、防音ガラスに真っ赤な血の手形を残しながら、アルを見上げた。
そこには。
先ほどまでの下劣な笑みを消し去り、いつもの、しかしどこまでも深淵を感じさせる「陸八魔アル」が立っていた。
彼女は、お淑やかに、慈愛すら感じさせる微笑みを美夜子に向けた。
「……ご苦労さま、レディー。自分の脚本に殺される気分はどう?」
アルは透き通るような、しかし底冷えのする声で囁いた。
「今あなたが真似したそれ、『外傷性気胸(がいしょうせいききょう)』を誘発するスイッチよ。毒を防ぐための動作じゃない。特定の共振で肺そのものを物理的にパンクさせて、強制的に『呼吸を不可能にする』……地獄への特急券(片道切符)よ」
美夜子の瞳から、ドロリとした涙と血が混ざり合って流れ落ちる。
「あなたなら、きっと私の動作を真似てくれると思ってた。だって、あなたは私のことが『読めなくて』怖くてたまらなかったんだもの。……藁にもすがる思いで私の『正解』を盗もうとした。それがあなたの敗因よ」
獅子王は、あまりの芸術的転換に椅子から立ち上がり、恍惚とした表情で拍手を送った。
一方、御手洗は、アルの背後に広がる真っ黒な影に、言いようのない恐怖を感じていた。
アルは、自らの髪をそっとかき上げた。
「さあ。ここからが、この舞台の本当の山場よ」
舞台の主役は、完全に、陸八魔アルへと明け渡された。