鏡合わせのアル、あるいは透き通った陸八魔【ブルーアーカイブ×ジャンケットバンク】   作:ていん?が〜

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第2話:不渡りのレクイエム(デッドライン・リクィディティ)

 カラス銀行の地下ロビー。第3セットを前にしたその空間は、もはや静寂を通り越し、音そのものが死に絶えたような圧迫感に包まれていた。

 

 猪瀬は、先ほどから自分を襲う正体不明の寒気を振り払うように、乱暴に鼻を鳴らした。彼の指は、最大値である「1000(1000万円)」のメモリを指し示すダイヤルの上で、勝利を確信して止まっている。

 

「(ガキが。泣こうが喚こうが、次の1000万で終わりだ。俺が1000万全額ぶち込めば、このゲームの性質上、相手がいくら出そうが負けはねえ。引き分けでも、2セット目の差額で俺が圧倒的優位だ……!)」

 

 猪瀬は、すでに自分の勝利報酬でどのような贅沢を謳歌するか、そして目の前で震える少女がどのような買い手に落札されるかを想像し、下品な口角を吊り上げた。

 対照的に、アルは震える手でダイヤルを回し続けていた。その動作はあまりにも頼りなく、見ているこちらが不安になるほどだ。

 

「どうしましょう、御手洗君! 私、もう後がないわ! 1000万なんて端金……じゃなかった、大金、出しちゃっていいの!? ねぇ、もし負けたら私、変なオークションで売られちゃうのよね!? 誰か、誰か助けて……! こんなの聞いてないわよぉ!」

 

「陸八魔さん、落ち着いてください! 深呼吸して! 銀行は一度始まったゲームに介入できません……!」

 

 御手洗の制止も虚しく、アルは「あわわわ」と情けない声を上げながら、自暴自棄になったかのようにダイヤルをデタラメに、高速で何度も何度も回し始めた。その様子は、壊れた機械が最後の火花を散らしているようでもあった。

 

「ああっ、もう、どうにでもなれーっ! 適当に止まれ! えいっ!!」

 

 アルが、投げやりな動作で決定ボタンを叩く。

 その瞬間、卓上の中央にあるモニターに、両者の数値が冷酷に映し出された。

 

【第3セット:開示】

 

猪瀬の提示額:1000万円

 

アルの提示額:1万円

 

「ギャハハハハ! バカが! 1万だと!? さよならだお嬢ちゃん、オークション会場で精々いい値がつくことを祈ってやるよ!」

 

 猪瀬が席を立ち、天井を仰いで勝ち誇った声を上げる。

 

「おい、銀行員! さっさとこのアマを連れて行け! 人権の剥奪だ、オークションの準備をしろ! 商品を傷つけないように優しくな!」

 

 数値上は、猪瀬の完全勝利。

しかし、中央に鎮座する巨大な天秤装置が、不気味な低音を立てて激しく振動し始めた。

 

「……え?」

 

 御手洗が目を見開いた。

 本来、1000万を出した猪瀬側に大きく傾くはずの天秤が、わずか1万しか出していないアルの方へと、重力に逆らうように急激に沈み込んだのだ。

 

 

 

「……ふふ。……あら。そんなに驚くことかしら?」

 

 

 ロビーの空気が一瞬で凍りついた。

 

 猪瀬が顔を上げると、そこには先ほどまで泣きじゃくっていた少女はいなかった。

 椅子に深く腰掛け、優雅に足を組み、慈愛すら感じさせるほど穏やかな微笑を浮かべた、しかし瞳の奥に一切の体温を宿さない「何か」がそこに座っていた。

 

 その目は、もはや人間のそれではない。ガラス玉のように透き通った、無機質で平坦な無表情。光を反射するだけで、その奥には何も映っていない。

 

「な、なんだ……その目は……!? 装置の故障だ! 1000万出した俺が、1万のガキに負けるわけがねえ!」

 

「故障? 失礼ね。これは、あなたが選んだ『適正価格』よ、ミスター」

 

 アルは穏やかに、まるでお茶会で天気を語るような口調で言い放った。その声は澄んでいるが、響きには一切の情動がない。

 

「銀行員さん。あなたはこの装置の『心臓』を見たことがあるかしら?」

 

「あ……ええと、心臓……ですか?」

 

「このダイヤル式入力機。表面はアナログを装っているけれど、その中身は古い基板の寄せ集め。……カラス銀行ともあろう組織が、なぜこんな旧式のシステムを使い続けていると思う? それはね、この装置が『16ビットの符号付き整数』で数値を処理しているからよ」

 

 アルは、ダイヤルの隙間に残った微かな傷跡を、細長い指先でなぞった。

 

「私が第1セットでわざとらしくダイヤルをぶつけたの。その時の反発係数と、内部のギアが噛み合う音のピッチから逆算したわ。この装置、0から左に……つまり『逆回転』させた場合、内部のレジスタは最大値からマイナスへとループする仕様になっている」

 

「何を……出鱈目を言いやがる!」

 

「出鱈目じゃないわ、ミスター。私が第2セットで『0』を出した時、実はダイヤルを逆回転させ続け、内部数値を『-1000(負の1000万)』の状態に固定していた。そして第3セット、私は1万を提示した。……猪瀬さん。『-1000万』と『1万』、どちらの数値が大きいかしら?」

 

 猪瀬の顔から血の気が引いていく。

 

「このゲームのルールには『より大きい金額を提示した側が勝利』とある。でも、どこにも『正の数でなければならない』とは書いていない。私が負の数値を入力することで、この天秤は『支払うべき金』ではなく『受け取るべき負債』として重さを計算した。あなたの1000万は天秤の上では『負の最大値』へと反転したのよ」

 

 アルはガラス玉のような瞳で、ただじっと猪瀬を見つめた。その視線には怒りも蔑みもない。ただ、そこにある事象を確認するだけの、冷徹な観測。

 

「銀行員さん。裁定をお願いできるかしら?」

 

 御手洗は震える手で、システム管理室からの最終ログを確認した。

 

「……確認しました。陸八魔アル氏が第2セットから仕込んでいた負数入力により、第3セットにおける猪瀬氏の提示額1000万円は、システム上『-1000万円の提示』と判定。よって、より大きな数値(1万円)を提示した陸八魔アル氏の勝利。猪瀬氏へのペナルティ額は……提示額の反転による差額と、規約に基づく倍率計算により……計、5億円です」

 

「な………………ッ!!!」

 

 猪瀬の顔が、一瞬で崩壊した。

 

右目が額までせり上がり、左目が顎の下へ潜り込み、鼻が耳の後ろへと突き抜けるような、名状しがたい「ピカソの肖像画」のような異形が、そこに出現した。

 

「イカサマだぁぁぁ! 銀行! こいつはイカサマをしてるんだ!! 俺の金だ! 俺の人生だ!!」

 

一瞬で元の顔に戻った猪瀬が、泡を吹いてアルに飛びかかろうとする。

しかし、アルは眉一つ動かさず、ただガラス玉の目を向けて静かに微笑んだ。

 

「見苦しいわね。……経営において、無知は最大の罪。そして不渡りを出した部品は、速やかにスクラップにされるのが世の常でしょう?」

 

「陸八魔さんの行為に不正はありません」

 

 御手洗が、アルの放つ圧倒的な威圧感に気圧されながらも、義務として猪瀬を制止する。

 

「全てはルールに基づいた『経営判断』の結果です、猪瀬さん。あなたの負けです。これより、あなたの人権を即時差し押さえ、人身売買オークションへの出品手続きを開始します」

 

「あ……が……あぁぁぁ!!」

 

 銀行の警備員によって両脇を抱えられ、引きずられていく猪瀬。

 アルは椅子に座ったまま、連れ去られていくその姿を、ジッと無表情で見つめていた。その瞳は何も映さず、ただ虚無を湛えている。

 

 猪瀬が必死の形相で振り返り、アルと目が合った瞬間――。

 

 アルは、ニコッと花が綻ぶような、完璧に美しい微笑みを彼に贈った。

それは死神が死者に送る、最後の「祝福」のようでもあった。

 

 猪瀬の叫びが遠のき、完全に消えるまで、アルはその表情を崩さなかった。

 

 静まり返る会場。

 

 アルは優雅に椅子から立ち上がると、コートの埃を払い、髪を整えた。

その瞬間、彼女の纏っていた「冷徹な怪物」のオーラが、まるで幻だったかのように霧散する。

 

「……はぁぁぁ、終わったぁぁ! 怖かったぁぁぁ!」

 

 アルは突然、子供のようにはしゃぎながら御手洗に詰め寄った。先ほどまでのガラス玉の目はどこへやら、顔を紅潮させ、瞳をキラキラと輝かせている。

 

「ねぇねぇ御手洗君! 見た!? 今の私の機転! 完璧だったんじゃない!? これで事務所の家賃も、爆破の弁償も全部払えちゃうわよね!?」

 

「あ……は、はい。ええ、十分に……」

 

 御手洗は、目の前の少女の変貌ぶりに付いていけず、引きつった笑いを浮かべる。

 目の前にいるのは、紛れもなく「いつもの」少し抜けた少女だ。しかし、御手洗の脳裏には、先ほど猪瀬が連れ去られる際に向けられた、あの空虚なガラス玉の瞳が焼き付いて離れない。

 

「それでそれで! 5億円よ、5億円! これっていつ入るの!? 今日!? 今すぐ!? 銀行の出口で現金でもらえるのかしら!? 札束の風呂に入れる!? ねえねえ!」

 

 アルは御手洗の肩を揺らしながら、興奮を隠せない様子でまくしたてる。

 

「い、いや、手続きがありますから……後日、指定の口座に振り込まれます。そんなすぐには……」

 

「えぇーっ、そんなぁ! すぐにパァーッと使いたかったのに! 仕方ないわね、じゃあ今日は一番高いステーキを食べに行きましょう! ムツキたちも呼んで、盛大にお祝いよ!」

 

 アルは満面の笑みでロビーを駆け出していく。

御手洗は、去っていく彼女の背中を見つめながら、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 

 冷酷な怪物と、純然な少女。

 

 その二つの顔が、矛盾なく一つの体に同居しているという現実。

 御手洗は、自分が何を「担当」してしまったのか、その真の恐怖に震えることしかできなかった。

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