鏡合わせのアル、あるいは透き通った陸八魔【ブルーアーカイブ×ジャンケットバンク】 作:ていん?が〜
東京、渋谷の喧騒から数ブロック離れた地下深く。
分厚いコンクリートを透過して漏れ出す重低音が、夜の湿った空気を物理的に震わせていた。そこは、知る人ぞ知るDJクラブ『アンダー・ゲート』。
今夜、そのフロアは臨界点を超えるほどの異様な熱気に包まれていた。天井の低い地下室を埋め尽くす人々の熱気が、結露となって壁を伝い落ちる。誰もが興奮を隠せず、ステージを見つめて咆哮を上げていた。
「おい、見たかよ今のバース! あのネーちゃん、マジで何者なんだ!?」
「知らねえ、けどヤバすぎるだろ! さっきからあの巨漢の『鋼鉄(アイアン)・マイク』をディスり倒して、一歩も引いてねえぞ!」
「声は女なのに、フロウが……なんていうか、伝説のMC・ジャックが乗り移ったみたいだ。耳の奥まで痺れるぜ!」
「まさか……いや、ありえねえ。あいつは死んだはずだ。だが、あのリズムの取り方は本物だぞ! 魂が共鳴してやがる!」
観客たちの興奮した声が、タバコの煙と熱気の中に溶け込んでいく。ステージの上では、火花を散らすようなフリースタイルラップバトルが繰り広げられていた。
対戦相手は、首筋まで猛々しいタトゥーが入り、丸太のような腕を持つ強面の巨漢ラッパー…アイアン・マイクだ。彼は顔を真っ赤にしながら、アルに向けて言葉の弾丸を放つ。
「――Yo、お高そうなコートに赤髪のレディ。ここは遊び場じゃねえ、泥沼の戦場だ。社長ごっこならオフィスでやってな。俺のリリックはお前のプライドを粉砕する重戦車だ! 覚悟はいいか、お嬢ちゃん!」
対する陸八魔アルは、オーバーサイズのパーカーを羽織り、キャップを深く被ったラッパー風の出で立ち。彼女は不敵に口角を上げると、右手に握った銀色のマイクを口元に寄せた。その瞬間、彼女の纏う空気が一変する。
「……Yo。重戦車? 鈍重な鉄屑の間違いじゃない。あなたの言葉は空っぽの弾倉、私の脚本(シナリオ)に一行も刻めない。私はアウトローの頂、便利屋の首領。あなたの敗北は既に決定事項、チェックメイトよ、ミスター・アイアン!」
声はアルのものだが、その韻の踏み方、リズムの精度、そして言葉の裏に宿る冷徹な覇気は、あの日散った蛇喰弘毅そのものだった。
「私の前で『社長ごっこ』なんて言葉、二度と吐かせないわ。……地獄への片道切符、このビートに乗せて今すぐ発券してあげる!」
圧倒的な精度。アイアン・マイクが繰り出したディスを完璧なカウンターで粉砕し、相手の言葉の端々を拾い上げ、より鋭利な言葉の刃として叩き返す。フロアは絶叫に近い歓声に包まれた。
「ウォォォォォ!! MC・ジャックが……ジャックが帰ってきたのか!?」
「いや、違う! 新たな伝説、MC・ハードボイルド・プレジデントの誕生だ!!」
「最高だぜ! 名前は知らねえが、今夜の主役は間違いなくあの女だ!!」
「イェーイ! ありがとー! みんな、最高よー!!」
先ほどまでの冷徹なオーラはどこへやら、アルは満面の笑みで両手を掲げ、降り注ぐ歓声を全身で浴びていた。いつもの「おだてに弱い社長」としての顔が戻り、全力で勝利の余韻に浸っている。
フロアの端、喧騒から少し離れたVIP席に近い位置で、便利屋68の面々がその光景を眺めていた。
「あははっ! アルちゃん、ノリノリだね~! ほら見て、あのラッパーの人、完全に魂が抜けちゃってるよ。クスクス……面白いね~♪」
ムツキが楽しそうにポップコーンを口に運びながら、目を細める。
「……はぁ。今度はラップ、ね。前の演劇の時よりはお金はかかってないみたいだけど、さすがに趣味の幅が広すぎない? アル、明日の仕事の準備、まだ終わってないはずなんだけど。このままだと徹夜だよ」
カヨコは耳を塞ぎたくなるような爆音の中、呆れたようにため息をつく。だが、彼女の視線はアルが握りしめている「銀色のマイク」の異様さを、鋭く見抜いていた。
「ア、アル様……! かっこいいです……! あの大きな人を言葉だけで屈服させるなんて……さすがアル様です!! 悪のカリスマの片鱗が……うぅ、感動しました……! 一生ついていきます、アル様ぁぁ!!」
ハルカは涙を浮かべながら、壊れんばかりの勢いで拍手を送っている。
「カヨコちゃん、見てよあのハルカちゃん。もうすぐ爆発しそうだよ。アルちゃんの勝利に感極まって、そのまま建物ごと爆破しちゃいそう」
「……触れないでおこう。それより、アルを連れ戻すタイミングを考えないと。あのもみくちゃの状態から引き剥がすのは骨が折れるわよ。ほら、サイン攻めにあってる」
「あはは、アルちゃん困りながらも嬉しそう! 鼻の下伸びてるよ~」
「……もう。夜明けまでには事務所に帰るからね。ハルカ、行くよ」
「はい! アル様の栄光の跡を、この目に焼き付けてから参ります!!」
イベントが終わり、心地よい疲労感と共に深夜の街を歩く四人。アルはまだ興奮が冷めない様子で、軽やかな足取りで先頭を歩いていた。
「ふふん、やっぱり歓声っていうのはいいものね。自分の言葉で世界が動く感覚……これこそがアウトローの醍醐味よ! 私のハードボイルドな魅力、みんなに伝わったかしら?」
「はいはい。アルちゃんが観客に3時間も、もみくちゃにされてるの見るの、すっごく楽しかったよ? 途中で帽子、脱げかけてたし、顔が真っ赤だったよ~?」
ムツキがからかうように言うと、アルは顔を赤くして「そ、それは演出よ! 熱狂を煽るためのテクニックなんだから!」と言い張った。
「……。アル、それ。ラップバトルからもみくちゃにされて今に至るまで、ずっと大切そうに持ってるね。右手のそのマイク。さっきから一回も手放してないじゃない」
カヨコが不意に尋ねる。アルの右手には、依然としてあの銀色のマイクが握りしめられていた。
アルはマイクを見つめ、ニカッといつもの調子で笑った。
「これ? ふふん、友達からもらったのよ。……大切な、私の『ライバル』からね!」
「へぇ~、友達ねぇ。アルちゃんにそんな友達がいたなんて、ムツキちゃん聞いてないな~。いつの間にそんな深い関係の人ができたの?」
「アル様に友達! 素晴らしいです! その方の名前を教えていただければ、私が毎日感謝の供物を……いや、いっそその方の銅像を事務所の前に!!」
「ハルカ、落ち着いて。事務所の前には何も置かないで。……。まあ、アルが良いならいいけど。そのマイク、あまり変な因縁が付いてないといいわね」
アルは便利屋たちの騒がしいやり取りを聞きながら、マイクを強く握りしめた。
「さあ、夜はまだこれからよ! 今夜はまだまだDJクラブ巡りで寝かさないわよー! チェケラ!!」
アルがマイクを夜空へと高く掲げる。星明かりを受けたマイクが、きらりと鋭く光り輝いた。
アル達がクラブ巡りをしている一方、静寂が支配するカラス銀行の特別業務部4課――『特別審査課』のオフィス。
午前3時。フロアの明かりは落とされ、御手洗暉のデスクだけがPCの青白い光で浮かび上がっている。御手洗はキーボードを叩くふりをしていたが、その瞳は虚空を向いていた。
「(……。あの日から、頭から離れない)」
御手洗の脳裏に、対局終了直後の情景が蘇る。ゲームが終わり、後片付けが始まる無機質な時間。
床には、かつて蛇喰弘毅だった赤黒い液体が広がっていた。清掃業者が事務的にそれを処理するのを、長谷川次長はただ静かに見つめていた。
御手洗は、何と声をかけていいか分からず、ただ石のように固まっていた。
「……次長、あの……」
「おや、まだいたのかい。それじゃあ私はこの辺で失礼するよ、御手洗くん」
長谷川は、いつもと変わらぬ、慈愛に満ちた穏やかな笑顔で言った。
御手洗は堪えきれず、問いかけた。
「……次長は、悲しくないんですか? あなたの担当していたギャンブラーが、あんな……液体になってしまったのに。ずっと一緒に戦ってきた相手じゃないですか。心が痛まないんですか?」
長谷川は一瞬、不思議そうな顔をして、それから教え諭すように微笑んだ。
「悲しい? まさか。……御手洗くん。担当企業が不渡りを出した時と同じだよ。利益が出なくなれば、次に切り替える。感情で数字は動かない。それが銀行員の基本だろう?」
その言葉が、今の御手洗の胸を重く締め付けている。
「(僕みたいに、担当に感情移入するのは、やっぱり銀行員としておかしいのだろうか……。担当がモノのように扱われるこの場所に、僕は馴染めるんだろうか……。陸八魔さんに対しても、僕はいつかあんな風に冷徹になれるんだろうか)」
「おやおや、御手洗くん。こんな時間まで熱心ですね。だが、秩序を乱すような物思いはほどほどに。明日の業務に支障が出ますよ」
ポン、と肩に手が置かれた。振り返ると、そこには特別審査課主任・宇佐美銭丸が立っていた。
笑顔を絶やさず、物腰の柔らかい壮年男性。常に穏やかな口調を崩さないが、その背後には銀行の冷徹な秩序が透けて見える男だ。
「宇佐美主任……。申し訳ありません、少しぼんやりしていました」
「構いませんよ。真面目なのは君の美徳だ。……ですが、ちょうどよかった。君宛てのお客様がいらっしゃっています。第4応接室まで来なさい」
「僕にお客……? こんな時間にですか? 一体どなたでしょう」
「(陸八魔さん……か? いや、彼女ならこんな手続きを踏まずに暴れて入ってくるはずだ。……一体誰が。長谷川次長の関係者だろうか)」
不安と疑問を抱えたまま、御手洗は宇佐美の後ろについて廊下を歩く。靴音が無機質な空間に響くたびに、心拍が速まる。
第4応接室の前。御手洗は一度深く呼吸をし、重いドアをノックした。
「失礼します……」
ドアが開いた。そこに座っていたのは、彼がよく知る赤髪の社長ではなかった。小柄な体躯に、驚くほど長い銀髪。
そして、全てを見透かすような鋭利な眼差しと、隠しきれない慢性的な疲労感を漂わせた少女。彼女はソファに深く腰掛け、静かに御手洗を見据えた。
「空崎……ヒナ……さん?」
「……。あなたが、御手洗暉……?」
その声には、僅かながらの疑惑と、それ以上の切実さが混じっていた。ヒナはソファから立ち上がることもなく、ただ無表情のまま、一枚の名刺を握りしめていた。それは陸八魔アルから手渡された、御手洗暉の銀行員としての名刺だった。
御手洗はその異様な気圧に押され、彼女の手元まで意識を割く余裕はなかった。だが、後ろに控えていた宇佐美の目は、その詳細を捉えていた。
無機質な部屋の光の下で、名刺を握るヒナの小さな指先は、ほんの僅かに……しかし、壊れそうなほどに震えていた。