鏡合わせのアル、あるいは透き通った陸八魔【ブルーアーカイブ×ジャンケットバンク】 作:ていん?が〜
カラス銀行、第4応接室。
吸音材が仕込まれた壁に囲まれたその部屋は、外部の喧騒を一切遮断し、沈黙さえも重圧となって皮膚に張り付くような独特の静寂に包まれていた。
御手洗暉は、喉の奥がカラカラに乾くのを感じながら、目の前の少女――空崎ヒナを凝視していた。
「(……信じられない。ゲヘナ学園、風紀委員会。キヴォトス全域にその名を轟かせる、最大にして最凶の武力集団……。彼女はその頂点に立つ風紀委員長だ。一学園の部活動という枠組みを遥かに超え、実質的には巨大都市国家の治安維持を一手に担う『軍隊』の総帥に近い)」
御手洗は、事前に目を通したキヴォトス関連の公的資料を必死に脳内で反芻した。
空崎ヒナ。数多の不良生徒やヘルメット団が彼女の名を聞いただけで逃げ出し、たった一人で戦況を覆す圧倒的な戦術的価値を持つ「生ける伝説」。
そんなキヴォトスの「巨星」が、なぜ日本の、それもカラス銀行の掃き溜めのような特別審査課のデスクに座っている一銀行員に会いに来たのか。
「(どう考えても釣り合わない。僕なんかが彼女の視界に入る理由がないはずだ。……なぜ、彼女のような大物が僕なんかに?)」
御手洗が震える唇を割り、何とか言葉を紡ごうとした、その時だった。
「……単刀直入に聞くわ」
ヒナが遮るように口を開いた。その声を聞いた瞬間、御手洗は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「御手洗暉。……あなた、陸八魔アルに何をしたの?」
耳を疑った。
資料にあった「冷徹な執行者」としての威厳に満ちた声ではない。それは、大切な何かを傷つけられ、あるいは奪われることを極端に恐れている、迷子のような、怯えた少女の震える問いかけだった。
「え……? 陸八魔さんに、何を……?」
「答えて。彼女が、あんな……あんな『得体の知れないもの』を纏って帰ってきた理由。あなたが彼女をどこへ連れて行き、どんな地獄を見せたのか。……全部、吐きなさい」
ヒナの瞳には、鋭い殺意の裏側に、壊れそうなほどの焦燥が滲んでいる。御手洗は動揺した。あまりに人間臭い、あまりに剥き出しの感情。公的な情報から推測される「鉄の女」とは似ても似つかない彼女の姿に、なんと答えればいいのか判断がつかない。
「それは……僕はただ、彼女のガイドとして……」
「ガイド? 嘘を吐かないで。今のあの子の雰囲気、あまりにも異様だわ。無理をしてハードボイルドを装っているけれど、あんなに不器用で、優しくて、お人好しの彼女が……あんな、魔物そのもののような姿になるはずがない…!」
一触即発の空気が部屋を満たし、ヒナの背後から物理的な圧力が膨れ上がろうとした瞬間――。
「おやおや。そこまでにしましょうか」
宇佐美銭丸が、涼やかな風を通すように割って入った。彼は絶やすことのない柔和な笑みを浮かべたまま、御手洗の肩に優しく手を置いた。
「ここからは私が引き継ぎましょう。御手洗くん、君はもう十分によくやってくれました」
宇佐美は絶やすことのない柔和な笑みを浮かべたまま、御手洗の肩に優しく手を置いた。その手の温かさとは裏腹に、拒絶の意志が明確に伝わってくる。
「少し顔色が悪い。今日はもう仕事に戻らなくていいですよ。真っ直ぐ家に帰り、温かい紅茶でも飲んで休みなさい。これは主任としての業務命令です」
「宇佐美主任……でも、僕はまだ説明を……」
「いいんですよ。秩序を守るためには、適材適所というものがあります。……さあ、行きなさい」
有無を言わせぬ穏やかな圧力。御手洗は、ヒナの射抜くような視線を背中に感じながら、逃げるように応接室を後にした。
ドアが閉まり、応接室には宇佐美銭丸と空崎ヒナの二人だけが残された。
宇佐美は優雅な所作で対面のソファに腰を下ろすと、改めてヒナに向き直った。その仕草一つ一つに、一切の無駄がなく、洗練された「冷徹な礼節」が宿っている。
「改めて、ご紹介が遅れました。カラス銀行特別業務部4課、特別審査課主任の宇佐美銭丸と申します。以後、お見知りおきを、空崎様」
宇佐美はニコニコと、仏のような笑顔を見せる。
対するヒナは、その笑顔を凝視しながら、背筋に走る言いようのない悪寒を必死に抑えていた。
「(……。この笑顔。シャーレの先生と同じはずなのに……まるで違う。先生の笑顔は、凍えた身体を包んでくれる日だまりのような暖かさがある)」
ヒナは思わず、自分を慈しんでくれる唯一無二の存在を思い出す。だが、眼前の男から放たれる気配は、その記憶を侵食するほどに禍々しい。
「(でも、この男の笑顔は違う。氷のように冷たく、心の隙間に滑り込んで心臓を素手で掴み取るような……そんな、底知れない恐怖を感じる)」
宇佐美は微動だにせず、ヒナの観察を楽しんでいるかのようだった。
「(この人も、怖い。陸八魔アルを飲み込もうとしているこの組織そのものが、私の理解を超えている)」
ヒナは極力、顔に戦慄を出さないように努め、沈黙で応じた。
「空崎様。……あなた、先ほど仰いましたね。当行の御手洗が、陸八魔様に何をしたのか……と」
宇佐美が、獲物の喉元を確認するような声音で切り出した。ヒナは無言で、しかし力強く頷いた。
「彼女が何者になり、何を得たのか。……あなたがその情報を知って、その後どう動くのか。それ自体は当行にとって関心事ではありません」
宇佐美は机の上の湯呑みに手を伸ばし、一口含んでから言葉を継いだ。
その一連の動作には、対等な交渉相手というより、無力な小動物を見守るような余裕が漂っている。
「しかし、空崎様。あなたは『情報』というものが、ただで手に入るものだと思っておいでですか?」
宇佐美の細められた目が、冷光を放つ。
「過去にゲヘナ学園情報部に身を置いていたあなたなら、嫌というほど理解されているはずだ。情報は、扱うタイミング、そしてその質によっては、金以上の……命の輝きに勝る価値を持つ。……違いますかな?」
ヒナは唇を噛んだ。自分の経歴まで掌握されている。
この男にとって、自分は既に剥製のように分類された存在でしかない。
「……何を、要求するつもり? お金ならゲヘナの予算から出すわ。それとも、政治的な便宜? 治安権限の譲渡?」
「いえいえ。せっかくキヴォトスから遠路遥々、当行まで足を運んでいただいたのです。そのような味気ない取引は、当行の流儀に反する」
宇佐美は懐から一枚の契約書を取り出し、テーブルの上で滑らせた。
「ゲヘナの情報力をもってしても、当行の『裏の顔』までは辿り着けなかった。だからこそ、あなたはこうして直接赴くしかなかった」
宇佐美の指摘に、ヒナの眉が僅かに動く。
風紀委員会の調査官たちが、どれほど心血を注いでも「カラス銀行」という輪郭を掴めなかった理由。
それが今、目の前の男の余裕となって表れている。
「賢明な判断です。この契約書にサインをいただければ、当行の正体……ひいては、陸八魔様の足がかりとなる情報をお教えしましょう」
ヒナは契約書に目を落とした。そこには大きな文字でこう記されていた。
『本施設内で見聞した一切の事象について、他言無用であることを誓約する。違反した場合は、相応の清算をもって償うものとする』
「(……他言無用。つまり、私がここで何を知っても、先生や他の委員には伝えられないということ)」
ペンを持つ手が、迷いに震える。もしここでサインをすれば、自分は一人でこの巨大な闇と対峙することになる。
ゲヘナの風紀委員長としての盾を捨て、ただの空崎ヒナとして。
「(でも、背に腹は代えられない。アルがあのまま壊れていくのを黙って見ているなんて、私にはできない…。…あの子を、元の……少し頼りないけど誇り高い陸八魔アルに戻すためなら……!)」
ヒナは震える手でペンを取り、迷うことなく自らの名を署名した。
「……サインしたわ。約束は守ってもらう」
「ええ、もちろんです。……では、参りましょうか。流儀といっても、決して小難しいものではありません。……そう、あなたがかつて豪華客船の上で嗜んだ『ゲーム』の延長ですよ」
宇佐美のその言葉に、ヒナの心臓が激しく脈打った。
「(……。船での一件を知っている? ゲヘナの、それも極秘扱いの作戦記録を、この男はどこまで……!?どこから見られているの……?)」
宇佐美は驚愕するヒナを促し、重厚な廊下を歩き出す。いくつものセキュリティゲートを抜け、エレベーターは地下の深淵へと沈んでいく。
最後に辿り着いたのは、一番奥にある、巨大な真鍮製の扉の前だった。
「当行では、知りたい情報の重さに応じた『対価』を、テーブルの上で証明していただくことになっております。……さあ、開けましょう。あなたの運命の扉を」
宇佐美が扉を押し開くと、そこには眩いばかりのシャンデリアの光と、狂乱の熱気が渦巻く巨大なカジノホールが広がっていた。
人々の叫喚、チップが重なり合う音、そして金銭によって魂が磨り潰される独特の異臭。
「ルールは一つ。当行の賭場で『15億円』を稼いでください。その金額こそが、あなたが求める陸八魔様の情報の『購入代金』となります」
宇佐美は、ヒナの顔に浮かぶ絶望的な困惑を楽しみながら、最後にもう一度、深く、深く微笑んだ。
「ようこそ、カラス銀行へ。空崎ヒナ様」
【NEXT GAME:猛犬と愛猫の円舞曲(マッドドッグ・アンド・キャット・ワルツ)】