鏡合わせのアル、あるいは透き通った陸八魔【ブルーアーカイブ×ジャンケットバンク】 作:ていん?が〜
そしてお待たせして申し訳ありません。
ヒナの5スロット戦開幕です。
――雨が降っていた。
視界が白く霞むほどの激しい雨の中、幼い少女の泣き声だけが、冷たいアスファルトに虚しく響いていた。
「やだ! やだぁ!! パパと離れるのなんて絶対に嫌っ!! ママなんて大っ嫌い!!」
5歳のヒナは、母親の細い手首を、小さな両手で必死に振り払おうとしていた。
地面に突っ伏し、泥だらけになりながら、枯れた声で泣き叫ぶ。
両親の離婚。幼いヒナにはその法的な意味など分からなかったが、大好きな父親がいなくなるという事実だけは、鋭利な刃物のように心を切り裂いていた。
母親は困ったように顔を伏せていたが、その時、後ろで静かに見守っていた父親がゆっくりと歩み寄ってきた。
父親は、細身で、少し猫背で、いかにも頼りなさそうな背中。けれど、その瞳には、どんな時でもヒナを包み込むような、陽だまりのような優しさがあった。
父親はゆっくりと歩み寄り、ヒナの前にしゃがみ込んだ。泥に汚れるのも厭わず、膝をついて、ヒナと全く同じ目線に合わせる。そして、大きな手がヒナの頭をやさしく撫でる。
「……ヒナ、大丈夫だよ。パパはね、どこにいても、ずっとヒナのことを見守っているからね。お星様になっても、風になっても、ヒナが頑張っている姿をずっと応援しているんだ」
ヒナはしゃくり上げながら、真っ赤な目で父親を見つめ返した。
「パパ……また、会える? 約束してくれる?」
父親は一瞬、言葉に詰まったように間を置いた。その沈黙の意味を、今のヒナなら理解できる。それは二度と会えないことを悟った、悲しい沈黙だったのだ。
だが、彼は最高の笑顔を作って言った。
「もちろんだよ。約束だ」
ヒナは小さな小指を出し、父親の指と絡ませる。
ゆびきりげーんまん 嘘つーいたら 針千本飲ーます――――
「(……。なぜ、今になって父さんのことを思い出したの?)」
カラス銀行地下。黄金の光に満ちたカジノの片隅で、ヒナは不意に去来した過去の残像を振り払うように頭を振った。
目の前のテーブルには、脂ぎった顔を歪め、脂汗を滴らせながら、狂ったように金の駒を握りしめる男――佐藤が座っている。
「(あれから12年。父さんも……生きていれば、この人と同じくらいの年齢だろうか。……いいえ、今はそんなことを考えている場合じゃない)」
ヒナは鋭い眼差しを盤面へと戻した。
感傷に浸っている暇はない。自分の目的はただ一つ。一刻も早く15億円を稼ぎ出し、アルが飲み込まれようとしているこの闇の正体を暴くこと。そのためには、目の前の男を打ち倒し、次の階層へ進むしかない。
「(立ち止まってはいられない。……アル。今、行くから)」
【第1ラウンド:佐藤康二『猟犬(ハンター)』 ー 空崎ヒナ『獲物(プレイ)』】
宇佐美が静かにルーレットの盤面を差し出した。
まずは佐藤が、37個の数字の中から一つ選び、ヒナから見えないようにパネルの下へ「金の駒」をセットする。
「ヒッ、ヒヒ……! ここだ、ここなら絶対に見つからない……! 死ね、死ねぇ、ガキめ……!」
男は呪文のように呪詛を吐きながら、不自然なほど素早い手つきで駒を置いた。極限の恐怖が、彼に異常な執念を植え付けている。
続いて、ヒナがルーレットの球を放った。
カラン、カラン……。
乾いた音を立てて転がる白い球。ヒナはその軌道を、一瞬たりとも逃さずに見つめていた。
否、彼女が見ているのは球だけではない。
対面に座る佐藤。その眼球の僅かな動き、激しく上下する喉仏、パネルを隠す際に微震した指先の筋肉、そして駒を置いた瞬間に一瞬だけ深く吐き出された安堵の呼気。
キヴォトス最強の風紀委員長として、幾多の戦場を潜り抜けてきたヒナの超常的な身体能力と洞察力は、人間が意識的に制御できない「肉体の真実」を、高解像度のスローモーション映像のように捉えていた。
「(……左奥、18番。駒を置いた後、彼の視線がそこに一瞬だけ固定され、すぐに逸らされた。典型的な隠蔽心理)」
ルーレットの球が、カチリと音を立てて「17番」に落ちた。
ルールでは、止まった数字、またはその左右の隣接する数字のいずれか一つを選択し、銀の駒を置かなければならない。17番の両隣は16番と18番。
「さあ、空崎様。選択を」
宇佐美の声に、ヒナは迷わず「銀の駒」を掴んだ。
佐藤は顔を真っ赤にし、ヒナが「18番」を選ぶことを期待して身を乗り出している。
彼の脳内では、的中した際の10倍の配当、つまり数千万円の利益による逆転劇が、美化された幻想として再生されているのだろう。
「私は……そのまま、『17番』に置くわ」
ヒナが17番に駒を置いた瞬間、佐藤の顔から血の気が引いた。
「な……!? なぜ、隣の18番じゃないんだ! そこが一番怪しいだろ、普通……!」
「……。あなたがそこを見ていたからよ」
ヒナが淡々と告げ、宇佐美がパネルをめくる。
18番の下には、ギラギラと輝く「金の駒」が鎮座していた。だが、銀の駒が置かれたのは17番。
回避成功。第1ラウンドはヒナの勝利に終わった。
【第2ラウンド:空崎ヒナ『猟犬(ハンター)』 ー 佐藤康二『獲物(プレイ)』】
第2ラウンド。テーブルの仕様が物理的に変形する。
ガコン、という重厚な機械音と共に、37個あったパネルの半分、18個が裏返って消滅し、穴を塞ぐようにして金属板が競り上がってきた。
ルーレットの盤面までもが交換され、生き残った数字だけが刻まれた特殊な仕様へと変わる。
「……宇佐美主任。一つ聞いていいかしら。もし、ルーレットが止まったマスの『隣接するマス』が、消滅したエリアだった場合はどうなるの?」
ヒナの問いに、宇佐美は「おやおや、鋭いですね」と目を細めて微笑んだ。
「その場合は、消滅したマスを飛び越え、次に存在する有効な数字を『隣接』と見なします。つまり、物理的に逃げ場が狭まるよう、ルールが貴女方を追い詰めていくのです」
「……そう。分かったわ」
ヒナは静かに思考の海に潜る。
第1ラウンドで自分が回した時の球の回転速度、摩擦係数、空気抵抗。そして宇佐美がルーレットをセットした際の、装置の僅かな傾き。
彼女の脳内コンピュータは、次の一投で球が止まるであろうエリアを、誤差数センチメートルの範囲で逆算していた。
そして、佐藤のこれまでの挙動。追い詰められた人間は、視覚的に「安全」だと錯覚しやすい特定のパターンに依存する。
第1ラウンドで端を選んだ彼は、次は中央付近の、数字の並びが不規則な場所を選ぶ傾向にある。
「(……。ここね)」
ヒナは音もなく、特定のパネルの下に「金の駒」をセットした。
続いて、佐藤が祈るようにルーレットを回す。
球が止まったのは、中央の「5番」。隣接する有効な数字は「3番」と「8番」だった。
「……3番! 3番に置くぞ! 俺は助かるんだ、絶対に助かるんだぁ!!」
佐藤が半狂乱で銀の駒を叩きつける。
だが、ヒナは無表情にパネルを指差した。
宇佐美がその下のパネルをめくる。
「……的中ですね。お見事です、空崎様」
3番の下には、牙を剥いた「金の駒」が完璧なタイミングで待ち構えていた。
「ヒッ……ガッ……アァ……!!」
佐藤は椅子の背もたれから転げ落ち、床に這いつくばって絶叫した。白目を剥き、よだれを垂らしながら、自分の髪を掻き毟る。
【第3ラウンド:佐藤康二『猟犬(ハンター)』 ー 空崎ヒナ『獲物(プレイ)』】
「(……。悪いけれど、これは勝負。勝負には必ず、泣く者が出てくる)」
ヒナは胸の痛みを押し殺し、自分に言い聞かせるように心の声を響かせた。
「(たとえここで負けて大きな負債を抱えたとしても……カラス銀行という場所が、一応は銀行を名乗っている以上、いつか時間をかければ返せるはず。命まで取られるわけじゃない。……そうよね?)」
自分を納得させようとするヒナ。だが、床で泣き喚く男の言葉が、その甘い目論見を粉砕した。
「嫌だ……嫌だぁぁ!! オークションで売られるのは嫌だ! 臓器を抜かれるのも、人形で遊ばれるのも嫌だぁぁぁ!!」
……えっ?
ヒナの手が、止まった。心臓が嫌な跳ね方をする。
「……オークション? オークションって……何のこと?」
掠れた声でヒナが問うと、宇佐美が「おやおや」と楽しそうに首を傾げた。
「ああ、説明していませんでしたね。佐藤様が自ら仰られたのであれば、隠す必要もないでしょう」
宇佐美は懐から、一通の書類を取り出した。
「当行の『特別融資』。これは24時間以内の返済を絶対条件としております。そして、担保となるのは動産でも不動産でもない。……『基本的人権』です」
ヒナの瞳が大きく見開かれた。
「返済が滞れば、債務者は当行が主催する『闇オークション』へと回されます。そこでは、人間が単なる『商品』として取引されるのです」
「オークションに買われたら……その人は、どうなるの?」
ヒナの震える問いに、宇佐美は「人それぞれですが」と前置きし、まるで明日の天気を話すような気軽さで、地獄の光景を口にした。
「以前の例ですと、非常に審美眼の鋭いお客様に落札された方がいましてね。その方は頭蓋を丁寧に開かれ、脳髄そのものを土壌として、生花を植えられたとか。……『思考する植木鉢』。実に見事な芸術作品だったそうですよ」
「……っ!!」
ヒナは激しい吐き気に襲われ、口を抑えてその場に蹲った。胃の腑が裏返るような感覚。視界が点滅し、嘔吐物が喉元までせり上がってくる。
カラス銀行。
この場所が、自分が想像していたよりも遥かに深く、救いようのない「悪意」で塗り固められていることを、彼女は今、魂の芯で理解した。
「……あ、なお。オークションで値がつかず、売れ残り続けた不人気な商品は、心臓、肝臓、眼球、皮膚……各パーツへと細かく『バラ売り』され、最終的に当行の損失はゼロとなります。ご安心ください、非常に効率的なシステムです」
宇佐美は、蹲るヒナを冷徹な目で見下ろしながら、残酷な事実を突きつけた。
「空崎様。貴女がこのゲームで勝つということは。……この佐藤様という『人間』を、今私が申し上げた地獄へと、貴女自身の手で突き落とすということに他なりません」
ヒナは震える顔を上げた。
目の前には、ただ生きることに固執し、醜く泣き喚く、自分の父親と同じくらいの年齢の男。
自分が勝てば、アルに近づける。
だが、自分が勝てば、この男は「思考する植木鉢」か、あるいは「肉の塊」に成り果てる。
黄金の光が降り注ぐカジノの底で、ヒナは自分が握りしめている「銀の駒」が、あまりにも、あまりにも重く、呪わしいものに感じられてならなかった。
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次話も明日の18時5分に投稿します。
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