鏡合わせのアル、あるいは透き通った陸八魔【ブルーアーカイブ×ジャンケットバンク】 作:ていん?が〜
夜の帳が下りた東京の街を、御手洗暉は力なく歩いていた。
街灯の光がアスファルトに長い影を落とし、行き交う人々の話し声が遠くのノイズのように鼓膜を滑り落ちていく。
御手洗の脳裏に焼き付いて離れないのは、カラス銀行の応接室に残してきた、あの銀髪の少女の姿だった。
「(大丈夫かな……空崎さん)」
思わず漏れ出た独り言は、湿った夜風に霧散した。
彼は分かっていた。自分が彼女に対して抱いている心配が、いかに無力で、いかに無責任なものであるかを。
カラス銀行という巨大な装置が一度動き出せば、一銀行員である自分にできることなど何一つない。
あの場所は、善意や同情といった温かな感情が通用する世界ではないのだ。
あれも救いたい、これも救いたい。そんな甘い理想は、カラス銀行の冷徹な天秤の上では塵に等しい。
誰かの命を救うということは、別の誰かの絶望を確定させることと同義なのだ。
御手洗は立ち止まり、重い溜息を吐いた。夜空を見上げても、都会の光に遮られて星は見えない。
「……ごめんよ」
誰に宛てるでもない謝罪の言葉をボソッと呟き、彼は逃げるように闇の中へ足を進めた。それが、彼にできる唯一の「銀行員らしい」諦観だった。
地下カジノ、5スロットの特設テーブル。
熱狂と絶望が煮凝ったような空間で、第3ラウンドが始まろうとしていた。盤面から次々と数字のスリットが物理的に消滅し、残されたマスはわずかに「9つ」――「3、7、12、18、21、24、29、32、35」のみとなった。
対戦相手の佐藤は、追い詰められた獣そのものだった。血走った目は瞳孔が開ききり、ガチガチと激しく歯を鳴らしながら金の駒を握りしめている。
「ひ、ひぃ、ひぃ……! 殺してやる、殺してやるぞぉ! 俺が助かるためなら、お前なんて、お前なんて死ねばいいんだぁぁ!!」
口角からは汚く涎が飛び散り、脂汗でテカりきった額がシャンデリアの光を不気味に反射する。その姿には、もはや人間としての尊厳など微塵も残っていなかった。
カチ、カチカチッ!
静寂の中で、佐藤が震える指先で金の駒をセットする硬質な音が響く。ルーレットが回転し、銀のボールが乾いた音を立てて跳ねる。運命を決定づける数字が確定した瞬間、ヒナの身体を激しい異変が襲った。
「(ひゅ、……っ、は、あ……っ……!)」
目の前の銀の駒が、視界の中でぐにゃりと歪む。頭が割れるように痛み、激しい動悸が胸を突き上げる。胃の奥から込み上げる吐き気に、喉が物理的にせり上がるのを感じた。
冷房の効いた室内であるはずなのに、全身からは不快な汗が吹き出し、指先は氷のように冷たくなっている。
ルーレットの球が「24」の溝に吸い込まれ、完全に停止しても、ヒナは銀の駒を握ったまま微動だにできなかった。肩を激しく上下に振るわせ、浅く速い呼吸を繰り返す。
「(は、あ……っ、く……無理だ……。これ以上は、無理……)」
指一本動かすことさえ、今の彼女には不可能に思えた。重圧と吐き気の中で、意識が白濁していく。
「空崎様。これ以上の猶予は、円滑な業務への『遅延』とみなされます。速やかな選択を」
宇佐美の静かな声が、審判の宣告のように響く。ヒナはチラリと、一つのマスに目を向けた。そこは、直感的に佐藤が駒をセットしたと感じた場所。
「(無理だ……自分には、殺せない。私が勝つということは、この男の人生がここで終わるということ。私が情報の対価として支払うのは、誰かの破滅そのもの……。そんなもの、私に背負えるはずがない)」
正義の名の下に、数多の悪を裁いてきた風紀委員長。だが、目の前にあるのは「悪」ではなく、ただ生にしがみつく無様な「人間」だった。
ヒナは震える手で、その「24」のマスに銀の駒を置いた。直後、佐藤が椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がり、狂喜乱舞した。
「当たったぁぁ!! 当たったぞ! 10倍だ! これで俺は、俺は助かるんだ!!」
ヒナは蒼白な顔で、膝の上に置いた自分の手をじっと見つめていた。
【第4ラウンド:空崎ヒナ『猟犬(ハンター)』 ー 佐藤康二『獲物(プレイ)』】
盤面はさらに削り取られ、生存可能な数字はわずか「6つ」――「3、7、12、18、29、35」のみとなった。
今度はヒナが金を隠す番だった。彼女は震える手で、最も端にある「3」のパネルの下に金の駒をセットした。
指先に伝わる冷たい金属の感触が、自分が行おうとしている「狩り」の感触を強調する。
「(アルへの手がかりは遠のくかもしれない。でも……それは、あの子が死ぬと決まったわけじゃない。一度退いて、準備を整えればいいだけ。時間さえあれば、私は必ず、別の道を見つけて彼女の元へ辿り着ける)」
佐藤がルーレットを回し、銀のボールが「18」に止まる。佐藤の選択肢は「そのままの18」か、隣接する「12」か「29」だ。
佐藤は一瞬だけ逡巡した後、狂ったような笑みを浮かべて銀の駒を「29」へ叩きつけた。
回避成功。
「よっしゃあああ!! 見たか、俺の運を! 俺はまだ神に見捨てられてねえ!!」
狂ったように飛び跳ね、汚い声を張り上げる佐藤。それを見つめながら、ヒナはこれでいいのだと、無理やり自分を納得させようとした。
だが、その瞬間。
尾てい骨のあたりから、ゾワゾワとした生理的な不快感が這い上がってきた。心臓を冷たい指で撫でられたような、悍ましい予感。
「(……。待って。何、この寒気……)」
彼女の脳裏に、極めて冷酷な、それでいて論理的な思考が過り、愕然とする。
「(………違う。これでいいわけがない。この銀行が、ただ『はいそうですか』と負債を帳消しにするはずがない)」
カラス銀行の論理が孕む、決定的な歪み。たとえこのゲームで佐藤が完済扱いになったとしても、彼が真に助かる道など最初から用意されていないのだと、肌が、細胞が理解してしまった。
「(たとえ数字の上で完済されたとしても、失われた莫大な資本の『補填』はどこから来るの? 銀行が慈善事業でない以上……そのツケは、完済という名目の裏側で、結局は佐藤自身の『別の何か』を担保として回収される。……そう、最初からこの男は、勝とうが負けようが、清算のサイクルから逃げられないように仕組まれているんだわ)」
ヒナは震える目で宇佐美を見た。そこには、すべてを折り込み済みの氷の微笑で佇む男がいた。
「(……あの時、この男は何て言った?)」
――『返済が滞れば、債務者は当行が主催するオークションへと回されます。そこでは、人間が単なる商品として取引されるのです』
絶望的な事実がヒナの脳内を侵食しようとした、その時だった。
カチリ。
不意に、ヒナの頭の中で音が鳴った。
「あっ……」
小さな声が、彼女の唇から漏れ出した。それは絶望でもなく、佐藤が助からない事実への落胆でもない。
それは、今この瞬間まで自分が見落としていた、あまりに奇妙な「符号」に対する驚嘆だった。
ヒナの脳裏に、この5スロットのフロアで目撃した3つの断片的なシーンが高速でフラッシュバックする。
1ーー債務整理のために連行される参加者たちの姿。彼らは一様に恐怖していたが、その扱いは「処刑」というよりは、規格を厳格に管理された「物流」のそれに近かった。意思を剥奪され、無機質なパーツのように梱包されていく人間たちの不気味な整然さ。
2ーー宇佐美が提示した「特別融資」という歪なシステム。返済能力のない人間に、なぜ銀行は際限なくチップを積み上げるのか。それは資本の融通ではなく、あえて「完済不可能な領域」へ追い込むための、緻密な誘導プロセスのようだった。
3ーーそして宇佐美が言及した「オークション」。人間を商品として売るというのであれば、一体誰が、何のために、その莫大な額を支払って「商品」を買い取るのか。
「(……そう。そういうことだったのね)」
これら3つのシーンが、ヒナの中で一つの冷徹な推測へと集約されていく。それはカラス銀行そのものが秘めた、ある本質的な事実に触れるものだった。
ヒナの瞳から、先ほどまでの迷いと怯えが完全に消え去った。宇佐美は、ヒナの表情の変化を鋭く捉えた。だが、そこに現れたのは「拒絶」でも「発狂」でもない。
彼は、ヒナが銀行の構築したシステムの「裏側」に、その指先で確かに触れたことに気づいた。
宇佐美は怯えるどころか、より一層深く、宝物を見つけ出したかのような陶酔を湛えて目を細めた。
【最終ラウンド:佐藤康二『猟犬(ハンター)』 ー 空崎ヒナ『獲物(プレイ)』】
物理的に存在するマスは、ついに「7、12、29」の3つだけとなった。
佐藤はもはや正気を失った笑みを浮かべ、祈るように金の駒を握りしめている。そして、「12」のパネルをめくり、その下に金を隠した。
「ひひっ、最後だ、最後だ。これで全部、全部チャラだ……!」
宇佐美がルーレットに手をかけようとしたその時、ヒナが静かに制止した。
「待ちなさい」
「……おや、空崎様。何か?」
「宇佐美主任。ゲームを終わらせる前に、二つだけ聞きたいことがあるわ」
ヒナは椅子から立ち上がり、宇佐美の傍らへと歩み寄った。そして、周囲の喧騒に紛れるような小声で、彼の耳元で短く囁いた。
宇佐美の表情が、一瞬だけ呆気に取られたように硬直した。仏の仮面が剥がれ、一人の「銀行員」としての素顔が覗く。
だが、彼はすぐにいつもの優雅な笑顔を取り戻すと、深く、恭しく頭を下げた。
「……。1つ目は、可能でございますよ。当行の規約に照らし合わせても、それは正当な『権利の行使』となります」
宇佐美の声には、隠しきれない悦楽が混じっていた。
「そして2つ目は――仰る通りでございます。それこそが当行を支えていますから」
「そう、ならいいわ」
ヒナは席に戻り、腰を下ろした。その瞬間に放たれた覇気は、先ほどまでの「迷える少女」のものではなかった。
ゲヘナ学園の頂点に君臨し、数多の混沌を力でねじ伏せてきた、風紀委員長としての絶対的な威厳。
対面に座る佐藤は、その冷徹な眼差しを浴びただけで、心臓を鷲掴みにされたかのように身体を震わせた。
「な、なんだよ……その目は。俺は、俺は勝つんだぞ……!」
「回しなさい」
ヒナの短い命令に、宇佐美が応じる。ルーレットが回り、銀のボールが「12」へと落ちた。
「……左」
ヒナは、迷いなく指を伸ばし、銀の駒を「7」へと置いた。
「判定終了。……回避、成功です」
一瞬の静寂。
「……あ……?」
佐藤が、間の抜けた声を上げた。彼がセットした金の駒は、「12」の下にあった。
「私の勝ちよ。……ミスター佐藤」
ヒナは氷のように冷たい声音で言い放った。
「あ、あああ……あ、あああああああ!!!」
佐藤の絶叫が、きらびやかなカジノホールの天井を突き破らんばかりに響き渡る。
ヒナは、崩れ落ちる佐藤を一瞥もせず、ただ真っ直ぐに宇佐美を見つめていた。
その瞳に宿るのは、折れることのない鉄の意志。秤の上に載せられた「正義」は、今、彼女自身の手で重く傾けられた。
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