鏡合わせのアル、あるいは透き通った陸八魔【ブルーアーカイブ×ジャンケットバンク】 作:ていん?が〜
ザーザーと、容赦のない雨がゲヘナ自治区の地表を叩きつけていた。
天から降り注ぐ水滴は、建物の屋根を伝い、泥や硝煙の入り混じった濁流となって汚れた路地裏を浸食していく。
パシャパシャと、その水溜まりを足元で跳ね上げながら、奇妙な足取りで進む『生物』がいた。
「(……足の底から伝わるこの感覚…。これが知識にある『冷たい』という状態か。絶え間なく上から衝突してくる、この透明な液体。これが『雨』という現象か)」
その生物は服を一切身にまとっていない、生まれたままの姿のままであった。
しかし、その黄金の瞳には羞恥の色など微塵もなく、ただ圧倒的な好奇心だけが爛々と輝いている。
長い髪が雨に濡れて頬に張り付くのも構わず、絶え間なく変化する周囲の情景を貪るように見つめていた。
「(素晴らしい。何もかもが、脳内のデータと合致していく新発見だ。鼻腔の奥を刺激する、この鉄と塵の混ざった大気の感覚。これが『匂い』というものか。……そうか、これが『世界』という場所なのか)」
パチャパチャと、未だ不安定な重心を揺らしながら歩く生物の視線が、偶然、路地の突き当たりに佇む巨大な建造物を捉えた。
その建物ーー廃倉庫の外壁は赤錆びて剥がれ落ち、窓ガラスは1枚も残っていない。
「(なんだ、あれは…? 建物、という物体か。ビル……いや、構造が違う。家、というものか。だが、私の脳内のアーカイブにある『家』とは随分と形状が異なる。何という種類の建造物なのだ?)」
疑問を解決するため、生物の足は自然とその廃倉庫へと向かっていった。
錆びついた鉄扉の隙間をすり抜け、内部へと侵入する。途端に外の雨音は遠のき、代わりに長年蓄積された埃っぽい空気が鼻を突いた。
「ケホッ……ケホッ……」
「(……? 何だ、これは…? 喉の奥が痙攣し、強制的に空気が吐き出される、この感覚。これは……そうか、これが『咳き込む』という生理現象か。面白い。素晴らしいな。……あれが『段ボール』。あそこに転がっているのが『ドラム缶』。あの上にあるのが『鉄骨』。知識の答え合わせが止まらない)」
ペタペタと、汚れたコンクリートの床を素足で踏み締めながら、生物は廃倉庫のさらに奥、暗がりの広がる中央部へと進んでいく。
そして天井を見上げた瞬間、その動きを止めた。
ギィ……ギィ………
静寂の中で、規則的な摩擦音だけが響いている。天井を走る太い鉄骨から吊り下げられた1本の頑丈なロープ。
その先端に結ばれた輪に首を通され、重力に従って僅かに振り子のように揺れている『物体』を、生物の瞳が静かにロックした。
「(ほう……これが『人間』というやつか。情報によれば、人間とは高度な言語を用いてコミュニケーションを図る生物のはず。実際に言葉を発する人間を、この目で見てみたい)」
生物は、生まれて初めて自身の喉の構造を意識し、声帯を震わせるために肺の空気をせり上げた。
「あが……ぇ……げ……っ……」
脳内には完璧な文法と語彙が存在している。しかし、肉体を使って『発声』するという行為自体が完全な未体験であったため、その口から漏れ出たのは、獣の死に際のような醜悪な呻き声に過ぎなかった。
「(なるほど。理論を理解していても、肉体の制御には相応の反復練習が必要ということか。……だが、おかしいな。なぜ目の前の人間は何も話さない? 人間とは、他者との邂逅において何らかの反応を示す生物のはずだが)」
その生物はまだ分かっていない。天井から吊り下げられ、完全に弛緩した四肢を持つ人間が、すでに生命活動を停止した『死体』と呼ばれる状態であることを。
不可解に思いながらも、生物はさらにその足元へと近づいた。すると、吊るされた人間の真下……失禁と脱糞による汚物で黒ずんだ床の上に、一つの小さなプラスチックの板が落ちているのが見えた。
「(……なんだ、これは?)」
生物は躊躇うことなく、ヌチャリと嫌な音を立てる汚物にまみれたプラスチックの板――『学生証』を拾い上げた。
そこには、目の前で吊り下げられた人間の顔写真と、いくつかの文字が印刷されている。
「(なるほど。これが『文字』という視覚情報か。これが『写真』で、これが個体を識別するための『名前』という概念。……なるほど、この名前の文字は『漢字』と『カタカナ』で構成されているのか。この人間の名は――)」
生物は、再び喉の奥を細かく振動させ始めた。
「ぃ……ぶ……あ、ぎ…ら……」
不快な破裂音が廃倉庫に響く。
「い……づ…は…に…ま……」
筋肉の動かし方、空気の吐き出し方、その最適解を瞬時に学習していく。
「り……ぐ、は…ぢ……ま……」
学生証の写真に写っていたのは、世界中のすべてを恐れるように怯えた表情をした、眼鏡をかけた1人の少女の顔であった。
2026年7月2日。
人里離れた薄暗い山道を、1台の高級黒塗りセダンが滑るように疾走していた。
遮音性の高い後部座席の右側には、御手洗暉が座っている。その表情は硬く、膝の上で握りしめた両手は微かに汗ばんでいた。
そしてその隣には、頭部を覆うほどの特大のヘッドフォンを装着し、そこから漏れ出る大音量の音楽に合わせて楽しげに体を揺らしている陸八魔アルの姿があった。
「(……今回の戦いは、ついに『ワンヘッド昇格戦』だ。カラス銀行側も、1/2ライフの獣たちの中から蛇喰をも凌駕するような凶悪なギャンブラーを選定してぶつけてきているはず……)」
御手洗の胸中を占めるのは、底知れぬ緊迫感だった。だが、彼はすぐに隣の少女の横顔を見つめ、心の内でその不安を叩き潰した。
「(だけど……僕は信じてる。アルさんは、どんな絶望的な状況だろうと、どんな怪物が相手だろうと、絶対に負けない。彼女は僕の……)」
ポン、と、御手洗の思考を遮るように、彼の肩に柔らかな手が置かれた。
御手洗が視線を巡らせると、ジャカジャカと激しいドラムの音を漏らすヘッドフォンを片耳だけ外したアルが満面の笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいた。
「ねえねえ、御手洗くん! 御手洗くんもこれ聴いてみてよ!」
「え……? あ、はい」
「なんとね、私……便利屋のテーマソングを作っちゃったの! この前の試合が終わってから、アウトローたるもの専用のBGMが必要だと思って、作詞と作曲の勉強をしたのよ! 先日完成したばかりでね、私にムツキ、カヨコ、ハルカの4人でスタジオを借りて歌を収録した、最高の自信作なんだから!」
アルは子供のように無邪気に笑いながら、グイグイとヘッドフォンを御手洗の頭へと押し付けてくる。
御手洗が苦笑しながらそれを受け取り、両耳に装着した瞬間、鼓膜を破らんばかりのロックな重低音と、少女たちの瑞々しい歌声が脳内に流れ込んできた。
『――進め便利屋! 限界を超えて! ターゲットを、地獄の底まで追い詰めろー!!』
「(……ああ…この歌は『光』だ)」
御手洗は目を閉じ、溢れんばかりの音楽に身を委ねた。便利屋68という少女たちの絆。その青春の輝き。そして目の前で鼻を高くしている陸八魔アルという存在。
それらは間違いなく、この薄汚れたカラス銀行の世界において、眩しいほどの純粋な光だった。
だが、御手洗は同時に理解していた。その眩い光が、もう間もなく透明な虚無によって反転するということを。
「(アルさんの内に眠る闇が、これから現れる対戦相手を、まさにこの歌の歌詞の通り……地獄の底まで、一切の情け容赦なく追い詰めるんだ)」
御手洗は、湧き上がる感情を抑えるように手を口元に当てた。その隠された口元には、狂気に歪んだ悦楽の笑みが浮かんでいた。
「最高にハードボイルドな歌ですね、アルさん。胸が熱くなります」
「でしょ!? ふふん、やはり私の才能が恐ろしいわ!」
褒められたアルは、完全に調子に乗ってふんぞり返り、車内は一時、穏やかな空気に包まれていた。
それから数十分後、車は目的地の山奥へと到着した。車外へ出た2人の前に現れたのは、周囲の木々に溶け込むように佇む、広大な廃倉庫だった。
「へぇー、デッカい倉庫ねぇ〜。中はどうなってるのかしら?」
アルが呑気な声を上げ、御手洗が先導する形で倉庫の重い鉄扉を開け、内部へと足を踏み入れる。
そこには夜空が広がっていた。
それは特殊なプロジェクションと照明によって演出された、果てしない宇宙の広がり。
そして空間の床から、遙か高くにある見上げるような天井に向かって、複雑なあみだくじのように幾重にも分岐し交差する鉄路が網の目のように伸びていた。
その構造は上空で集約され、最終的に遥か高くの天井へ向かってまっすぐに並び立つ3本の巨大な線路を形成している。
その壮大な軌道の根本、ちょうど真ん中の線路の起点となる地上部分に、両極の対戦席として黒光りする巨大なSL列車を模した対戦席が不気味に鎮座していた。
さらに客席側を見渡せば、座席の一つ一つが豪華な寝台列車のコンパートメントを模しており、最高級のディナーに舌鼓を打ちながら、顔を仮面で隠したVIPたちが優雅に談笑していた。
御手洗がその光景の圧倒的な資本力に言葉を奪われていると、空間の奥から、快活な声が響いた。
「おーい! 待ってたぜー!」
見れば、こちらに向かって笑顔で手を振りながら元気に駆け寄ってくる若い男性と、その後ろを、気だるげにのそのそとした足取りでついてくる大柄な行員の姿があった。
「君が今日の対戦相手のアルで、そっちが担当行員の暉だな! 俺は亜星翔馬! よろしくな!」
大型犬のように無邪気に笑う亜星。その顔は非の打ち所がないほど爽やかなイケメンだった。
「話は色々と聞いてるぜ! あの弘毅を倒した、めちゃくちゃ強い強者なんだってな! 弘毅とは最近しばらく会ってなかったからさ、また『久しぶりに会える』のを楽しみにしてるんだぜ!!」
屈託のない笑顔で語りかける亜星を前に、御手洗は呆気に取られていた。
カラス銀行の1/2ライフを勝ち上がるほどの男だ。どんな悪鬼羅刹かと思えば、目の前にいるのはあまりにも毒気のない好青年だった。
「わー! カッコいい! あなた、まるでテレビに出ているアイドルみたいにイケメンなのね!」
アルが目を輝かせて歓声を上げる。すると、亜星は嬉しそうに胸を張った。
「アイドルみたいじゃなくて、本物の現役地下アイドルなんだぜ! そうだ! もしよかったら、俺が最近出した新曲のCD、聴いてみるか?」
「えーっ! 聴く聴く〜! アイドルの曲なんて興味あるわ!」
これから互いの命と人生を賭けて戦う地獄のゲームが始まるとは思えないほど、2人は和気藹々と盛り上がり、あっという間に距離を縮めていく。
その様子を冷や汗を流しながら見つめていた御手洗だったが、突如、グイっと背後からスーツの袖を強い力で引っ張られた。
「……っ?」
振り返ると、そこには脂ぎった顔に醜悪な笑みを浮かべた行員――松島昌平が立っていた。
松島は御手洗の返事を待たず、乱暴な力で彼の腕を掴むと、華やかな中央の舞台から死角となる会場の薄暗い隅へと連行した。
御手洗は、この男の顔と名前を明確に記憶していた。蒲郡班の松島昌平。かつて御手洗が銀行の一般窓口に勤務していた頃から、その悪名を耳にしていた。
勤務態度は極めて最悪、ハラスメントの総合商社のような男であり、同僚からのクレームや顧客との金銭トラブルを絶やさない最悪の行員。
すでに地方へ左遷されたと風の噂で聞いていたが、まさかこの『特4』に異動し、ワンヘッド候補の担当にまで上り詰めていようとは。
御手洗の嫌悪を孕んだ視線など、どこ吹く風で、松島はニチャニチャと、ねっとりとした水音を立てながら喋り始めた。その口からは、耐え難いほどの悪臭が放たれている。
「お、お前さぁ……か、顔が整ってて、ほ、本当にムカつくなぁ……。おまけに、あ、あの担当の女も、す、すげぇ美女じゃん。美男美女とかさぁ、ま、マジで爆発しろよ……」
「松島さん、何の用ですか。ゲームのルール説明なら、あちらで――」
「だ、黙れよぉ。あ、
松島は不快な笑みを浮かべ、自身のブヨブヨとした指先でスマートフォンを操作した。
「お、俺様は賢いんだわ……。す、スマートに、こ、事を運ぶのがプロの行員なんだよぉ」
そう言って、松島はスマートフォンの液晶画面を、御手洗の目の前に突きつけた。
「……ッ!?」
画面を見た瞬間、御手洗の全身の血の気が引いた。そこには、薄暗い部屋の床に無惨に転がされ、頑丈なロープで全身を縛り上げられて気を失っているムツキ、カヨコ、ハルカの3人の姿が、鮮明なリアルタイムの映像として映し出されていた。
戦慄のあまり、喉が張り付いて言葉が出ない御手洗に対し、松島は顔を近づけ、ねっとりとした唾液を口端で光らせながら、囁くように言った。
「こ、この試合さぁ、お、お前の意思で降参しろよぉ……。そ、そうしないと、こ、このガキどもがどうなるか……わ、分かるよなぁ…?」
ここまで見ていただきありがとうございます!
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