鏡合わせのアル、あるいは透き通った陸八魔【ブルーアーカイブ×ジャンケットバンク】 作:ていん?が〜
密閉された室内には、重苦しい静寂と、電子機器が発する微かな駆動音だけが充満していた。
かつてこの部屋で数多の「検体」を屠り、その精神が崩壊する様を冷徹に、そして愉悦を込めて観察してきた真神怜は、今、人生で初めて「理解不能」という名の底なし沼に足を取られていた。
「あ、が……っ、は、あ……あ……っ!!」
真神は床に這いつくばり、自身の頭部を両手で激しくかき抱いていた。彼が受けたペナルティ『全感覚剥奪(トータル・ロス)』。
視覚も、聴覚も、触覚も、あらゆる外部からの入力が断たれ、意識だけが無限の虚無へと放り出される感覚。それは、自己という存在の境界線が霧散していく、精神的死に等しい拷問であった。
数分前まで「精神生理学の権威」としてアルの浅薄さを嘲笑っていた男の白衣は、自身の冷や汗と床の埃で無様に汚れ、端正だった顔立ちは苦悶によって見る影もなく歪んでいる。
「あらら、真神さん! 大丈夫!? そんなに震えちゃって……。さっきまで言ってた『好奇心』とか『知性』とか、どこに行っちゃったのかしら?」
陸八魔アルは、いつもの調子で慌てたように真神の傍らに歩み寄った。彼女はスカートの裾をパタパタと払いながら、床で悶える真神の顔を心配そうに覗き込む。
その表情は、先ほどまで激痛に涙していた「頼りない便利屋の社長」そのものであり、どこからどう見ても、たまたま運良く正解を引いた幸運な少女にしか見えなかった。
「……き、君、は……っ。……う、ぐ……。あ、ありえない……。こんなことが、あって、たまるか……っ!」
真神は、焦点を結ばない瞳を必死に動かし、アルを見上げた。彼の脳内では、いまだに感覚の再統合が追いつかず、目の前の少女の姿が、千々に裂けた残像のように揺らめいている。
「御手洗君、見て! 真神さん、やっと私のこと『君』って呼んでくれたわ! さっきまでは『検体』だなんて、あんなに失礼な呼び方してたのにね。もう、照れ隠しなんだから!」
アルは背後に立つ御手洗に振り返り、天真爛漫に笑った。御手洗はその無邪気な反応に「それどころじゃないでしょう!」と突っ込む元気もなく、ただただ震える手でタブレットを握りしめていた。
アルの背後に映し出されているバイタルモニターには、依然としてパニック気味の、それでいてどこか「教科書通り」の波形が並んでいた。
「……ふざ、けるな……。私のバイタル制御は完璧だった。脳波も、脈拍も、すべて『無』へと収束させていたはずだ。それを、君のような……君のような、感情に振り回されるだけのガキが、どうやって……っ!」
真神は、震える手でアルの肩を掴もうと身を乗り出した。その執念、そのプライド。彼が積み上げてきた「科学」という名の城壁を、この「無知」が破壊したことを、彼はどうしても認めることができなかった。
その瞬間だった。
「…………」
室内の空気が、物理的な圧力を伴って一変した。
アルの顔から「感情」という色彩が、瞬時にして剥落した。彼女の瞳は、光を反射しないガラス玉のような無機質さに塗り潰され、一方で口元だけは、穏やかでお淑やかな「笑顔」の形を維持している。
「あら、どうかしたの? ミスター」
アルの口から漏れたのは、先ほどまで彼女が真神を呼んでいた「真神さん」という響きとは、根本から異なる音だった。
これまでの「真神さん」には、怯えや困惑、そしてどこか親しみやすさすら感じさせる、人間らしい「温度」があった。
しかし今、彼女が放った「ミスター」という呼称には、対象を人間としてすら認識していないような、冷徹なまでの突き放しがある。
それは学者が顕微鏡の先にある微生物を、あるいは解剖医が台の上の死体を呼ぶ際の、記号的なラベル貼りに等しかった。
真神は、息を呑んだ。目の前の少女が突然、深淵そのものに変貌したかのような錯覚。その瞳の奥には、無限に広がる暗黒と、すべてを見透かす冷徹な理知が潜んでいた。
「ミスター。あなたは私の中に『弱者』を見たいと願い、私はその期待に応えてあげた。あなたが私に『激痛』を与えたいと望めば、私はバイタルデータごと、世界で一番美しい悲鳴を捏造してあげた。……でもね、あなたが鏡の奥に手を伸ばして、私の『本性』を掴もうとした瞬間――」
アルは身を乗り出し、真神の鼻先まで顔を近づけた。先ほどまでの「社長」の声音ではない。それは、他者の神経を直接なぞるような、温度のない音節。
「――その手は、鏡の破片でズタズタになるのよ。……私が、私自身のバイタルを完璧に掌握できているという可能性を、あなたの傲慢な知性は最初から排除していた。それが、あなたの敗因」
その瞬間、真神の顔面が劇的に変貌した。左右の眼球は別々の方向を向き、口角は耳元まで裂け、鼻筋はあり得ない角度で折れ曲がったかのように見える。それは人体の構造を無視し、内面の本質的な混乱が皮膚の表面まで染み出してきたかのような、奇怪な崩壊であった。
「…………っ、あ、ありえない! ありえない、ありえない、ありえない!!!」
真神は一瞬で元の顔に戻ると、激昂した猛獣のように顔を真っ赤にして叫んだ。
「私は真神怜だぞ!? カラス銀行でも指折りの『解体屋』だ! 人間の生理反応は物理法則と同じだ! 偽装など、誤差の範囲でしか行えないはずだ! 君のような小娘が、機械の目を欺き、私の観測を完全に弄ぶなど……物理的に不可能なんだ!!」
アルは、その醜いまでの激昂を、どこか微笑ましく、慈しむような目で見つめていた。まるで壊れた玩具の最期を見守るような、残酷なまでの余裕。
「真神怜。19××年、医師の家系の三男として生を受ける。幼少期より共感能力の欠如を指摘されるも、類まれなる記憶力で周囲を欺き、名門医大へ進学……」
アルの口から漏れ出したのは、真神本人の声であった。音程、呼吸の深さ、声帯の微細な震えに至るまで、本人ですら区別がつかないほど完璧に再現された、真神怜の声。
「『人間とは、苦痛という入力を与えた時にのみ、その真実という出力を吐き出す機械に過ぎない』。……これ、あなたが去年の学会の後のパーティーで語っていたセリフよね? 『私の前では、聖者も犯罪者も平等に、ただの肉の塊へと回帰する。その過程を観察することこそが、知性の極致だ』。……ふふ、あはは! 『私は嘘が嫌いだ。だが、肉体が上げる悲鳴だけは、決して嘘を吐かない』」
アルは、楽しそうに、そして完璧に真神の口調と仕草を真似ながら、彼が過去に吐いた傲慢な言葉の数々を羅列した。真神は、自分の過去を「自分」に読み上げられるという異常事態に、喉を詰まらせて震える。
「……私、真似っこって得意なの」
アルは倒れ伏している真神の目線に合わせるように、しなやかな動作でその場にしゃがみ込んだ。
そして、至近距離から真神の声色と口調を完璧にトレースし、最後の一突きの如く言葉を紡ぐ。
「『極限の恐怖に直面した時、知性は沈黙し、生存本能という名の獣が目を覚ます。……さあ、私に君の獣を見せてくれたまえ』。……どうかしら、ミスター? 鏡に映った自分の声の感想は」
真神の視界が歪む。目の前にいるのは、自分が「検体」として定義していたはずの少女ではない。
自分のすべてを見透かし、模倣し、自分以上に自分を理解した上で、その中身を丁寧に引きずり出そうとしている、人型の「虚無」だ。
「……過去のあなたをずっと観察していたけれど、完璧なあなたからはどうしても『苦悶』というサンプルが取れなかったの。……あなたのこと、これでもっと深く知れたと思うわ」
アルは微笑んでいるが、その目は依然としてガラス玉のように冷たく、ただ無機質に真神の崩壊を反射している。
「……ば、化け物……」
真神は、震える唇からポツリと、その言葉を漏らした。
「……? 変ね? 同じホモサピエンスなのに。いや、私はキヴォトス人だから、あなたの世界の定義とは少し違うのかしら」
彼女はお淑やかな、気品さえ感じさせる笑顔を浮かべた。だが、その瞳の奥には、これからさらに絶望へと堕ちていく真神の反応を、一欠片も残さず貪り尽くしたいという、底なしの好奇心が揺らめいている。
「ディーラーさん。さあ、次のラウンドに進んで頂戴。彼がここからどんな素敵な反応を見せてくれるのか……私、もう待ちきれないわ」
羽佐間は、無言でアルを一瞥した。その瞳には、初めて行員としての職務を超えた、深い敬意と、そして隠しきれない戦慄が宿っていた。
「了解しました。……第6ラウンド、開始します」
室内の温度が数度下がったかのような錯覚の中、無機質な機械の起動音だけが、次なる解体の始まりを告げた。