鏡合わせのアル、あるいは透き通った陸八魔【ブルーアーカイブ×ジャンケットバンク】 作:ていん?が〜
カラス銀行、地下4階『第12観測室』。
銀色の円卓を挟んで対峙する二人の姿は、数十分前とは完全に攻守が逆転していた。かつてこの部屋で「神」として君臨していた真神怜は、今や椅子にしがみつき、己の肺から漏れ出る酸素の音にさえ怯えるほどに摩耗している。
対する陸八魔アルは、穏やかな微笑を浮かべたまま、まるでお茶会でも楽しむかのような優雅さでコンソールに手を置いていた。
「さあ、親の番ね。……少し、趣向を変えてみましょうか。ミスター」
【第6ラウンド:親・陸八魔アル】
アルが山札から引き抜いたのは、本ゲームにおける文字通りの「死に札」――『全神経系への擬似焼灼(フルボディ・バーン)』。
「カードの内容は、全身が溶岩に浸かっていると脳に誤認させる激痛。……今まで、私は『悲鳴』を見せてあげたけれど、それじゃあ少し、単調すぎるものね」
アルは迷うことなく、コンソールの出力を最大値に設定した。
「……出力完了。さあ、ボタンを押すわよ?」
彼女が決定キーを叩いた瞬間。
「…………」
静寂。
凄まじい絶叫が響くことを予想していた真神と御手洗は、言葉を失った。
アルの体には、一片の震えもなかった。
額に汗一粒浮かべず、呼吸は一定のままで、頬の朱が引くことさえない。彼女はただ、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべ、真神をじっと見つめている。
「(な、なんだ……何が起きている!? 全身が焼かれる痛みだぞ!? どんな訓練を受けた兵士でも、脳が直接焼かれれば、筋肉は強縮し、失禁し、眼球が裏返るはずだ!!)」
真神は、血走った眼でアルの背後のバイタルモニターを凝視した。
心拍数、72。血圧、120/80。脳波の波形は、そよ風に揺れる水面のように穏やかだ。異常を示すアラートは一つとして点灯していない。
「ど、どっちだ……。ブラフか? 信号を流さず、平然としているだけなのか!? だが、彼女は今、あえて無反応を貫いている。……逆だ。あえて『平然とする』ことで、私にフェイクだと思わせようとしているのか!?」
真神の知性が、恐怖という名の劇薬によって空転を始める。
「(……いや、待て。彼女は先ほど、バイタルごと偽装してみせた。ならば、この『正常なバイタル』こそが偽装で、実際には今、裏側で死ぬほどの痛みに耐えているのではないか!?)」
考えれば考えるほど、アルの笑顔が巨大な、底の見えない穴のように見えてくる。
「……く、狂っている。ありえない。心拍一つ乱さず、脳波にノイズ一つ乗せないだと? 私の、私の積み上げてきた観測理論が……ただの小娘一人に否定されるというのか!?」
真神は、震える指を回答ボタンの上で彷徨わせ、脂汗を垂らしながら吠えた。
「ミスター、そんなに悩まなくていいのよ? あなたの『理論』に従えばいいだけじゃない」
アルが、ささやくように促す。
「……フェイクだ!!」
真神は、半ば絶叫するように回答ボタンを叩いた。
「これほどのダメージを受けて、バイタルまで正常に保つなど、生物学的に不可能だ! 君は信号を流していない! だから汗一つ書いていないんだ!!」
――ピコン。
【裁定:不正解(リアル)】
親(アル)がリアルを選択し、子(真神)が「フェイク」と誤答。
ペナルティ:子は200Pを失い、親が受けている苦痛と同等の負荷を脳に流される。
真神:300P → 100P
「あ、が……あ、あああああああああああああああ!!!」
真神の肉体が、爆ぜるように跳ね上がった。
脳を灼く、文字通りの地獄。
「同等の負荷」――すなわち、今まさにアルが脳に受け続けているはずの「全身焼灼」の熱痛が、真神の神経系を蹂躙した。
「あ、つ、い!! 痛い、痛い痛い痛い!! 死ぬ、目が溶ける!! 脳が蒸発する!!」
床を転げ回り、己の喉をかきむしる真神。彼はその激痛の渦中で、理解してしまった。
「(ありえない……こんな痛みを……こんな、気が狂うような、魂を削るような痛みを……彼女は、あの表情(かお)で、あのバイタルで受け止めているというのか!? 偽装じゃない……嘘じゃない! 彼女は今、実際に焼かれながら、微笑んでいるんだ……ッ!!)」
「あら、ミスター。そんなに無様に転がって……。せっかく私が、あなたに『真実』を分けてあげたのに」
アルは、一切の苦痛を感じさせない軽やかな足取りで、真神の元へ歩み寄った。彼女は依然として「焼灼信号」を全身に浴び続けているはずだ。
にもかかわらず、彼女の肌は陶器のように滑らかで、汗の一滴すら流れていない。
「……ふふ。ミスター、あなたのその反応、とっても素敵。やっぱり、観察される側になるのって、特別な気分でしょう?」
【第7ラウンド:親・真神怜】
「……あ、あ……う……」
真神は、もはや自力で椅子に戻ることもできなかった。ディーラーの羽佐間が合図を送り、黒服たちが真神を無理やり椅子に固定する。
真神の持ち点は、残りわずか100P。
次の一手で、すべてが決まる。
「……さあ、ミスター。あなたの最後のターンよ。……必死に、隠してみて」
アルは、まるでお気に入りのおもちゃを慈しむ子供のような目で、真神を見つめていた。
真神は、震える手で最後のカードを引いた。
『心停止の擬似体験』。
彼は、自らの生存本能のすべてを動員した。
バイタル制御、自己催眠、神経ブロック。彼は己の存在を、限りなく「無」に近づけようと足掻いた。
アルに読み取られないよう、己の魂を脳の奥底へ隠し、心臓の鼓動さえも、機械の目を欺くためのノイズへと変換しようとする。
「(隠すんだ……隠し通すんだ。彼女が怪物だとしても、この『死』の静寂だけは、暴かせない……!)」
真神のモニターは、一直線の水平線を描く。静寂が室内の酸素を奪っていくかのように重苦しい。
しかし、アルはそんな彼の絶望的な努力を、楽しそうに眺めていた。
「……ねえ、ミスター。そんなに一生懸命にならなくても、いいのよ?」
アルは静かに立ち上がると、拘束された真神の顔を包み込むように、両手を添えた。
「あなたは、自分のすべてを隠しているつもりかもしれないけれど。……私には、全部見えているわ。あなたの生まれた日、初めて解剖バサミを握った日、人を壊して快感を知った日、そして今、死ぬほど私に怯えている今日――」
「ひ……っ」
「いいのよ。怖がらなくて。……あなたの人生、あなたの記憶、あなたの『知性』。……全部、私が食べてあげたから」
その瞬間、室内の照明が歪んだかのように錯覚し、真神の耳元で「キチッ」という神経が繋ぎ変えられるような不気味な音が響いた。
アルの瞳の奥で、無数の情報の断片が奔流となって渦巻き、彼女の存在そのものが、真神という人間の「設計図」を完全に書き換えていく。
「だから、もう安心してーー」
そこからアルの声は、完全に変質した。
「――眠るがいい。君という個体は、ここで私の糧として完成したのだから」
それは、真神怜自身の声であり、口調だった。尊大な、すべてを見下すようなあの響きが、アルの喉から完璧に再生される。
「『観測は終了だ、検体。……君の深淵は、私の胃袋の中で完成する』」
その時、真神の視界の中で、アルの顔が変貌した。
彼女の顔の皮膚が、無数の小さなタイルのように分割され、その一枚一枚に、異なる「真神怜」の顔が浮かび上がっていた。
産声を上げる真神。
冷徹に数式を解く少年の真神。
狂気に満ちた眼で患者を見下ろす真神。
そして、今まさに絶望している真神。
数千、数万の真神怜の表情が、緻密に構成されたモザイクアートのようにアルの顔面を埋め尽くし、嘲笑っている。
「ア、アアア……アアアアア!!!」
真神は、もはや言葉にならない悲鳴を上げた。
目の前にいるのは、一人の少女ではない。
自分という存在をまるごと飲み込み、消化し、再構成した「情報の怪物」だ。
「回答は……『フェイク』。……さようなら、ミスター」
――ピコン。
【裁定:正解(フェイク)】
親(真神)がフェイクを選択し、子(アル)が「フェイク」と正解。
ペナルティ:親は300Pを失う。
真神:100P → -200P
アルは静かにボタンから手を離すと、乱れた髪を一撫でして整えた。その動作は、完璧に計算し尽くされた舞台の幕引きのように、冷徹で、そしてあまりにも優雅だった。
「……決着しました。陸八魔アル様の勝利です」
羽佐間の声が響くのと同時に、第12観測室の照明が赤く染まった。
真神を固定する椅子が床へと沈み込み、壁から精密レーザーのアームが這い出てくる。
「これより、4リンク規約に基づき、債務の清算を開始します。……対象の脳機能の一部を、物理的に解体――」
「あ、あ、あああ……」
真神は、もはや抵抗することさえ忘れていた。
彼の瞳からは、かつての鋭敏な知性が完全に消え失せている。
「……すごぉい……きれぇ……。パパ、ママ……みて……。おねえちゃんの、おかお……。たくさんの、ぼくが……わらってるよ……。きらきら……きらきら、してる……。あはは、あはははは!」
赤子のように無邪気な、しかし壊れきった笑い声を上げる真神。焦点の合わない瞳でアルの顔を見つめ、口端からは絶え間なくヨダレが垂れ落ちる。
アルという怪物に「内側」からすべてを食い尽くされた結果、彼の精神は幼児のレベルまで退行し、崩壊していた。
「…………」
アルは、その様子をしばらくの間、無表情に眺めていた。
「……ディーラーさん。もういいわ。彼、すっかり『空っぽ』になっちゃったみたいだし」
彼女は、まるで使い古された筆記用具を捨てるかのような、淡々とした口調で言った。
「あとの処理は、カラス銀行にお任せするわね。……ふぅ、なんだか疲れちゃった」
アルは、そのまま振り返ることなく、観測室の出口へと歩き始めた。
「あ、陸八魔さん……! お待ちください!」
茫然自失となっていた御手洗が、慌てて彼女を追う。
観測室の重厚な扉が開くと、そこにはカラス銀行地下フロアの、いつもの無機質な廊下が広がっていた。
「……ひ、ひぇぇ……。終わったぁ……。御手洗君、見て! 私の勝ちよ! 1億円、1億円ゲットよ!!」
エレベーターの前で、アルは突然いつもの調子でぴょんぴょんと跳ね回った。
「……えっ? あ、はい……。そう、ですね……。おめでとう、ございます?」
御手洗は、目の前の変化に脳が追いつかない。
先ほどまで、数千の顔を持ち、精神生理学の権威を廃人にまで追い込んだあの「深淵」は、どこへ消えたのか。
「もう、御手洗君、そんなに暗い顔して! これで便利屋68も安泰だわ! さあ、ハルカたちが待ってる事務所に帰って、パーティーをしなきゃ!」
アルは鼻歌を歌いながら、コートの裾を翻してエレベーターに乗り込む。
「……ねえ、御手洗君。今日の私、かっこよかったかしら? ちゃんと、ハードボイルドな社長に見えた?」
彼女が振り返って見せた笑顔は、いつもの、少し抜けていて、自信満々な、陸八魔アルそのものだった。
「……ええ。……ええ、そうですね。……最高に、恐ろしいほどハードボイルドでしたよ、社長」
御手洗は、震える声でそう答えるのが精一杯だった。
エレベーターの扉が閉まる。
その鏡のような表面に映ったアルの瞳が、一瞬だけ、カラス銀行の闇よりも深い色を湛えたような気がしたが――。
次に彼女が口を開いた時、そこからは「今夜の夕食は何にしようかしら」という、ありふれた悩みが零れ落ちていた。