【VRAINS】ミッシングリンク   作:Relics

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オリ主過去編①


#5 楽園の少年少女

 秘書室で職務に没頭するたび、ふとした瞬間に、とある『香り』が蘇ることがある。それは、復讐とも贖罪とも無縁だった、遠い日の記憶。今の私を縛る重いスーツも、偽りの眼鏡も存在しなかった頃。その記憶の底に沈んだ場所は、いつも柔らかな光に満ちている。

 

 『ハノイ・プロジェクト』――その巨大なうねりが、まだ幼い私たちの生活を飲み込む前のことだ。

 父の運転する車に揺られて訪れる鴻上邸は、私にとって特別な場所だった。

 父と鴻上博士。かつて同じ学び舎で理想を語り合い、そしてSOLテクノロジー社の同期として、研究開発とリスクマネジメントという表裏一体の責務を担う二人。彼らが書斎で互いの『仕事』について、時に熱く、時に静かに議論を交わしている間。私には、大人たちの難解な言葉を置き去りにできる唯一の聖域があった。

 

「弥、了見くんと一緒に遊んでおいで。大人たちの話は、少し退屈だろうからね」

 

 父の穏やかな声に促され、私は等身大の友人――博士の息子である、了見の元へ歩み寄る。彼と連れ立って、邸宅の裏手に広がる丘へと駆け出した。

 整備が行き届いた街なかの公園とは違う、野生の生命力が溢れるその場所。そこを吹き抜ける風は、いつも微かに潮の香りと、名も知らぬ花の甘い匂いを運んできた。

 

「弥、こっちだ。今日は丘の向こうまで行ってみよう」

 

 私を呼ぶ、少し高い了見の声。彼は少しだけ自慢げに、けれど私の歩調に合わせるようにゆっくりと歩く。やがて辿り着いた丘の向こうには、季節を忘れたかのように青色の花たちが咲き乱れている。

 

「弥、そこに座ったら服が汚れちゃうよ」

「いいの。今日は、お父様たちのお話が長くなりそうだから」

 

 丁寧に整えられたワンピースの裾を気にすることなく、花畑の上へ腰を下ろした。

 厳格な家庭教育。将来、SOLを支える人材として、あるいは一人の淑女(レディ)として『正しく』あることを求められる日常。その窮屈な枠組みを、この場所だけは忘れさせてくれた。

 

「ねえ、了見もおいで。空があんなに近く見える」

 

 いたずらっぽく笑って手招きすると、了見は困ったように眉を下げながらも、隣に並んだ。やがて、どちらからともなく、吸い込まれそうな青空に向かって背中を預ける。

 『行儀が悪い』と叱る大人はここにはいない。ただ、頬を撫でる風と、隣にある体温だけがすべてだった。

 

「……本当だ。広いな」

 

 並んで見上げる空には、白い雲がゆっくりと尾を引いている。

 

 科学の進歩がもたらす可能性を狂信的なまでに信じる博士と、技術が踏み越えてはならない倫理の境界線を死守しようとする私の父。そんな正反対の二人が、互いを唯一無二の理解者として認め合っている姿を、私は子どもながらに誇らしく思っていた。

 

「ねえ、了見。おじさまが言っていた『意思を持ったAI』が完成したら、世界はどうなると思う?」

 

 ふと、風に舞う花びらへと指を伸ばす。

 博士が唱える、人類の肉体的な限界を超えた先にある『後継種』の存在。それは子どもの私にとってはあまりに巨大な概念で、どこか不気味な予感を孕んでいた。

 私の問いに、了見はしばらく黙って空を見つめていた。

 

「……父さんは言ってた。人間は、肉体という『器』に縛られているから、争い、傷つき、いつか滅びてしまうって」

 

 彼の声は、どこか遠い場所から響いているようだった。

 

「でも、心だけの存在……その『AI』が僕たちの代わりになってくれたら、もう誰も病気で苦しんだり、悲しい思いをしたりしなくて済む。重い体から解き放たれて、みんながこの空みたいに自由になれる世界。きっとそれが、父さんの目指す理想なんだ」

 

 幼い私には、博士の言う『肉体の呪縛』という言葉の真意までは分からなかった。ただ、多忙を極め、時折ひどく疲れた顔をする父や博士の姿を思い出し、無邪気に頷いた。

 

「……それってお父様たちが、楽になれるってこと? もしかすると、お仕事がもっと早く終わるようになる?」

「うん、きっとそうだ。みんなが笑って暮らせる、明るい未来になるよ。……その時は、父さんたちも、あんなに難しい顔で話をしなくて済むかもしれないね」

 

 私たちは、疑いもなくその未来を信じていた。

 ネットワークの光が世界を繋ぎ、優しさが回路を伝わって、すべての人に幸福を届ける。そんな『間隙(ミッシングリンク)』の完成を。

 

「ふふっ、そうね。すごく楽しみ」

 

 その時、不意に風が強く吹き、私たちの髪を乱した。舞い上がった花びらが了見の頬に触れる。彼はそれを払おうとして、偶然にも私の手に触れた。

 びくり、と小さな電流が走ったような感覚。重なった手のひらの熱が、お互いが『データ』ではなく、今ここに生きている生身の人間であることを強く主張している。

 

「あ……ごめん」

「……ううん、大丈夫」

 

 赤らんだ顔を隠すように、二人して再び空を仰ぐ。心臓の鼓動が、草むらの虫の声よりも大きく響いている気がした。

 直後、了見がふいに向き直り、私を見た。近すぎる距離に、再び心臓が跳ねる。彼の瞳に映る私は、きっと見たこともないほど乱れた髪をして、けれど、それ以上に嬉しそうに笑っていたのだろう。

 彼は少し照れくさそうに笑うと、近くに咲いていた青い花を一輪摘み取り、私の耳元に添えた。

 

「僕たちが大人になる頃には、世界はもっと良くなっているはずだ。……だから、三つ」

「三つ?」

 

 その声はまだ幼い響きを残していたが、どこか後年の彼を彷彿とさせる強さがあった。そして、何かに決着をつけるような真剣な眼差しで、彼は私を見つめた。

 

「一つ。いつかネットワークの中に、この花畑みたいにどこまでも穏やかで、綺麗な場所を作ること」

「二つ。もし僕たちが道に迷いそうになったら、この空の広さを思い出すこと」

「そして三つ。……何があっても僕たちは隣同士で、父さんたちが作る『理想』を、同じ未来を、最後まで見届けること」

 

 その時、彼の瞳に宿った光を、私は生涯忘れることはないだろう。

 

「……うん、約束よ。了見」

 

 再び見上げた空に、一羽の鳥が横切って行った。

 青かった空は、いつの間にか淡い群青へと溶け始めている。その静寂を破るように、了見が『あ』と小さく声を漏らした。

 

「弥、見て。一番星だ」

 

 彼が指差す先、まだ明るさの残る空の片隅に、鋭い光を放つ星がひとつ。それはどこか孤独で、そして何よりも気高く輝いていた。

 

「……本当。ひとつだけ、すごく強く光ってる」

「あれは、迷子の道標になる星なんだって。父さんが言ってた」

 

 落日の残照が、了見の横顔を赤く染めていく。彼の眼差しは、すでに目の前の花畑ではなく、もっと遠く、まだ誰も到達したことのない地平を見据えているようだった。

 

 やがて、遠くに見える書斎の窓から漏れる明かりが強くなり、大人たちの議論が終わりを告げたことを知らせる。

 私は、まだ星を見上げている了見の手をそっと取った。差し出された私の手に、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにその指を絡め、気恥ずかしさを隠すように強く握り返してくれた。

 

「帰ろう、了見。お父様たちが待ってる」

「……うん。行こう」

 

 繋いだ手のひらから伝わる熱は確かだった。

 私たちは丘を駆け下りる。背後には、先ほどまで私たちがいた青い花畑と、冷たい一番星が取り残されていく。

 ――このまま時が止まればいいのに。この純粋な理想と、隣にいる人の温もりだけが世界のすべてであればいいのに。そんな言葉にできないほど甘酸っぱく、切ない願いが、胸の奥で小さな熱を帯びていた。

 

 この時の約束が、後にどれほど残酷な呪いへと変わるのかも知らず、私たちはただ、目の前に広がる輝かしい未来を信じていた。この繋いだ手が離れる瞬間が来ることなど、少しも想像せずに。

 

 『三つ』のうち、果たされたものは何一つとしてない。ネットワークは戦場と化し、父たちの理想は人類への脅威へと変貌した。そして私は、彼の笑顔を守るどころか、共に血塗られた修羅の道を歩むことを選んだのだ。

 

 ここから『贖罪』という重い鎖を首に巻くことになるまで、あと、ほんの数年。

 この花畑の記憶は、失われるすべてのものの代償として、私の魂にあまりにも深く刻み込まれることになる。




明日はついに一挙配信で96~98話が……!
ということでなんとか間に合わせた次第です。
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