SOLテクノロジーの本社ビルから離れた場所に、その研究施設は置かれていた。
今でも脳に焼き付いているのは、窓のない実験室。そして目に刺さるような蛍光灯の白さと、冷却ファンが吐き出す駆動音。それは、色彩を失ったモノクロの悪夢だった。
「正気なのか、鴻上!」
父の震える声が響いた。これまでに聞いたこともないような怒号だった。
その視線の先にいるのは、かつて父が『親友』と呼び、私も『おじさま』と慕った鴻上博士。だが、そこにいたのは、かつての穏やかな知己ではなかった。神の領域に手をかけ、狂気という名の深淵に魅入られた背中。そしてその背中を、かつては父も私も、誇らしく見つめていた。
「……もう一度言う。私は社を代表して、そして、君をこの道へ引き入れた
父の言葉に、苦い後悔が混じるのを聞き逃さなかった。
かつて二人は、ネットワークの海に新たな命の火を灯すという理想に、同じ熱量で共鳴していたはずだった。父もまた、博士の描く『人類の進化』という壮大な夢に、自らの想いと魂を差し出した一人だったのだ。
父が今、これほどまでに激しく叫んでいるのは、博士への怒りだけではない。一線を越えるまで、彼を止めることができなかった――その自責の念が、肩を重く沈ませている。
「これは未来のためだ。君個人の倫理など、種の存続という大義の前には塵に等しい」
博士の答えは冷酷だった。傍らに控える三人の助手たちは、実験の凄惨さに耐えかねるように視線を伏せている。だが、誰一人として博士の歩みを止めようとはしない。
沈黙という名の加担。それが、この部屋を包む空気の正体だった。
モニターに映し出されているのは、泣き叫ぶ子どもたちの映像とバイタルデータ。その一人が、激しい痙攣と共に、事切れたような数値を叩き出す。
「まだ分からんか、周防。彼らの命まで奪うつもりはない。だが、多少の痛みは
「黙れ……! ならば私は、この子たちの人生を『誤差』と呼ぶ男を、もはや友とは思わん」
父の指が、震えながらも装置の緊急停止レバーへと伸びた。
システムの強制シャットダウン。それは、進行中の実験プロセスを物理的に遮断させる禁忌の操作。実行すれば、この子どもたちは救われる。そしてプロジェクトは瓦解し、父たちのキャリアも、友情も、すべてが無に還る。
「止めるぞ、鴻上。これ以上、私を……そして君を『怪物』にしたまま、このプロジェクトを完遂させるわけにはいかない」
その瞳に宿っていたのは、憎しみではなかった。自らの手で友を葬るという、祈りにも似た悲痛な決意。
父がレバーに手をかけた、その時だった。モニターが赤く点滅し、警告音が室内に突き刺さった。部屋の扉が乱暴に開き、男たちがなだれ込んでくる。
現れたのは白衣の助手たちではない。SOLテクノロジーのロゴを胸に刻んだ、無機質なフルフェイスの警備員たちだ。彼らは一切の躊躇なく、父の腕を背後にねじ上げた。
「……っ、放せ! 私はリスクマネジメント責任者だ、この権限は正当な――」
「その権限は、先ほど凍結された」
博士は、振り返りさえしなかった。ただ、赤い光を放つモニターを見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。
「社は、君を『危険因子』と判断した。……すまないな、友よ」
SOLテクノロジーという社会の巨大な歯車にとって、プロジェクトの倫理を問う良心などは、排除すべき異物でしかなかったのだ。
父の体は、抵抗も虚しく屈強な男たちに組み伏せられた。床に叩きつけられ、眼鏡が虚しく転がる。
「いや……っ! お父様!」
視界が激しく揺れる。
必死に父の元へ駆け寄ろうとした私を、一人の少年が遮った。了見だ。彼は青ざめた顔で私の肩を強く抱き、その耳を塞ぐように覆った。
――見なくていい。聞かなくていい。
彼の絶望に満ちた瞳がそう語っていた。
連行される父の視線が、一瞬だけ、影に隠れていた私を捉えた。
「逃げろ、弥! ……そして忘れるな、この子たちの声を!」
それが、父と交わした最後の言葉だった。
父の姿が扉の向こうへと消えた瞬間、私の世界から音が消えた。
了見の震える手が、私の視界を塞いだまま動かない。その指の隙間から漏れ出すモニターの赤が、眼に焼き付いて離れなかった。
「……あまね」
了見の声は、まるで泣いているようだった。
だが、その時の私には、彼の痛みを受け止める余裕さえ残されていなかった。脳が、心が、身体が『理解』を拒絶し始めていたからだ。
私の意識は、そこで一度、深い水底へと沈んだ。
***
それから半年後。後に『ロスト事件』と呼ばれたその出来事が、匿名の通報によって終息を迎えたと知った際も、私の心は抜け殻のままだった。
世間には公表されない、国家機密級の事件。救出された子どもたちの消息は伏せられ、それに呼応するように、父に関する記録も社内から次々と消去されていった。
昨日まで、そこにあったはずの父のデスク、名札、そして自宅に届くはずの給与明細。それらが一つずつ消えていくたび、私の心に白い霧がかかっていった。
(――お父様は、どうして帰ってこないの?)
鏡の中の自分に問いかけても、答えは返ってこない。
父は誰かを救おうとして、裏切られた。その事実は、鋭い刃となって私の喉元に突き立てられていた。だから、私は無意識にその刃を隠した。父は『仕事で遠くへ行った』のだと、自分自身に嘘を吐き続けた。
忘却ではない。直視すれば心が砕けてしまうほどの絶望から身を守るための、防衛本能だった。
だが、父は私をただ守られるだけの存在にはしなかった。
事件から三年が経とうとしている、ある日の夜。静まり返った父の書斎で、私は古いノートパソコンのキーを叩いていた。
父が最後に遺した言葉。『忘れるな』というあの叫びが、蓋をしたはずの記憶の奥底から、脈動のように響いてくる。
ふと、画面の隅で見慣れないアイコンが点滅した。
かつて父が私に買い与えた、プログラミング学習用のゲームアプリ。その最下層に、父が隠した『パズル』が眠っていた。
『弥。もしこれをお前が開いているのなら、私はこの家にいないのだろう』
突然、画面に現れたテキストに息が止まる。
それは父が拘束される前、自らの権限が凍結される隙を突いて、バックドアを通じて私のアカウントへ流し込んだ、暗号化データの断片だった。
『このパズルは、お前にしか解けない。そして、解いてはいけないものだ。……だが、もしお前が、この世の闇に立ち向かう強さを望むのなら、この鍵を手にしなさい』
父は知っていたのだ。自分を『危険因子』として排除する
私は震える指で、コードを打ち込んだ。
ひとつひとつ、パズルを解くたびに、霧の向こう側から父の『声』が届く。
かつて、父とデュエルモンスターズで遊んだ時に組んだ、デッキのデータ。SOLテクノロジーが隠蔽した資金の流れ。鴻上博士が構築しようとしていた『
そして――。
「……これ、は……」
画面に映し出されたのは、SOLテクノロジーに眠る正体不明のプロジェクト名。
『ハノイ・プロジェクト』
その文字は、青白い光を放ちながら、私の網膜を、そして凍りついていた記憶の奥底を容赦なく抉り取っていった。
指先が、目に見えて震えている。
父は、仕事で遠くへ行ったのだ。そう自分に言い聞かせ、心に閉じ込めていた嘘が、音を立てて崩壊していく。
父が最後に残した言葉が、今になって熱を帯びて蘇る。
『……そして忘れるな、この子たちの声を!』
あの日、父はレバーに手をかけようとした。自分の人生を投げ打ってでも、名も知らぬ子どもたちの『今』を守ろうとする、あまりに不器用で、高潔な叛逆。
「……お父様」
私は、父が遺した最後のパズル――SOLのデータバンクを密かに監視するバックドアにアクセスした。
そこには、一人の男の『処刑の記録』が刻まれていた。
――
元リスクマネジメント部・部長。懲戒処分に伴う隔離措置および全ての職務権限・社内IDの抹消――。
組織の歯車に異を唱えた『良心』へ、SOLテクノロジーという名の神が下した裁き。そこに潜む巨大な怪物の胃袋の中で、噛み潰され、消化され、その存在さえも
私は、声も出さずに笑った。
目から溢れ落ちたのは、悲しみの涙ではない。この理不尽な世界に終焉を宣告せんと欲する、どす黒い衝動だった。
父が守ろうとした倫理が、この世のゴミとして処理されたのなら。私はそのゴミの中から、父の意志を拾い上げ、世界を塗り替えるための毒へと変えてみせる――。
それからは、私にとっての武装期間だった。
昼は、父の不名誉な失踪を嘆く『哀れな娘』を演じ、夜は、父の遺したコードを研ぎ澄ませ、電脳世界へとダイブする。
やがて、私は辿り着いた。
社会を震撼させ、あらゆるネットワークを恐怖で支配する新興のハッカー集団――『ハノイの騎士』。
父を消し去り、そして私からすべてを奪った、あの忌まわしきプロジェクトの名を冠するその組織。その首領が、あの日、私の耳を塞いだ少年の成れの果てであることを知った時。運命という名の皮肉に、私は震える指でデッキを握りしめた。