露が消えれば月は落ちる 作:羽瀬乃
扉を開けると見慣れた人影があった。
「部長、何してるんですか」
部長が椅子を二つ繋げた上に仰向になり、長い髪を垂らしながら文庫本を眺めていた。
「今日から高三は修学旅行ですよね?なんでここにいるんですか」
扉を開けたままの立ちっぱなしで問いかけた。
部長は視線をこちらに向けて体を起こし、
「休んだ」
と一言だけ普段と変わらない調子で言った。
すかさず
「なんで休んだんですか?というかそんな簡単に休んでいいものじゃないですよね」
「行き先の北海道昔に家族で行ったし、絶対つまらないでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、あぁ部長らしいなと思わずにはいられなかった。というのも彼女は日頃から気分で授業を抜け出しては部室として使っている放置された空き教室で本を読んで時間を潰していたり、放課後唐突に川で魚を獲ることに誘ってきたりする奔放さだからどんな理由でも納得してしまう。
「へえ、部長らしいですね」
そう言って部室に足を踏み入れた。
部室は半分物置きのようになっていて、椅子や机などが散乱している。窓から見える空は曇っていて、梅雨の時期らしくエアコンの付いていない部屋はじめじめと湿気ていた。
部室の隅を見ると部長が勝手に持ち込んだ種類のよくわからない観葉植物が、水を遣っていないのか少し萎れているのが目についた。
椅子の上に寝転んでいる部長と向かいの椅子に座ると、起き上がった部長は机に向かって座り直し、足を組んで再度ブックカバーのついた本を読み始めた。ページを手に吸い付かせてめくる姿を見るに、湿気で紙が湿っているらしかった。
「それ何読んでるんですか」
「昨日刀伊君が勧めてくれたやつ。あんまり海外文学ってやつは読まないから。」
部長がカバーをずらして、『風車小屋だより』の背表紙を見せてきた。
「部長も僕の言うこと聞いてくれることあるんですね」
「そりゃあね、部長たるもの後輩の意見も聞き入れてこそでしょ」
文芸部の部員は部長と僕、そして2年生の内海先輩の三人だけだった。内海先輩は一応文芸部に所属しているものの、サッカー部と兼部していることもあって一週間に一度だけ顔を見せる。
部内では、部長が唯一の三年生ということもあって権力は絶対的、ということもなく普通の文化部らしいゆるい繋がりだった。
「その本読み終わったら、バルザックとかどうですか。修学旅行休んでまで本読んでる活字中毒にはちょうどいい暇つぶしになるんじゃないですか」
「気が向いたらね」
「その返し絶対読まないやつですよね」
こんな他愛もないやりとりも日常のもので、退屈な放課後を取り留めもない会話でお互いに潰しあっていた。
雑談に興じつつ、一応文芸部らしく鞄から読みかけていた本を引っ張り出した。本を机に出したところで手元の暗さに気が向いた。部室の照明はいつもついていない。というのも、部長が蛍光灯で照らされた教室は明るすぎて本を読む気が失せるということらしい。だから部室では基本的に窓からの差日で部屋の明るさが決まる。6月の梅雨の時期は昼も夕も暗さは変わらず時間の経過を感じるのも難しいが、逆に時間を忘れて集中することを許してくれる数少ない場所だから存外いいもののようにも思っていた。
部長との会話はほんの暇つぶしに過ぎず、僕が読み始めてから会話は次第に途切れ途切れになって、遂には場は沈黙し、お互い自分の読んでいる本に意識を向けた。
「…刀伊君、今何時かわかる?」
何時間ぶりだろうか、久々に部長の声を聞いた気がする。部室には時計がない。
「いや…腕時計してないので」
今日は併設の中等部と時間割の区分けが異なるから午後からの全てのチャイムが鳴らないと、今朝のホームルームで言われたことを思い出した。気づかなかったが窓の外で既に雲は引いていて、空はちょうど夕陽の色が消えかかり夜の濃紺が空を占有しようとしているところだった。
6月の日の長さを考えれば、この空の色は最終下校時刻をとうに過ぎ、校舎が閉鎖されたあとのものであることは明らかだ。
「職員室にまだ先生っていますよね?職員室に大人しく出頭するのが一番いい選択だと思いますよ」
とりあえず真っ先に思いつき、一番真っ当であろう策を提案した。
「あんまり面白くないね。どうしようか。せっかくのやるの学校だし徘徊でもしてみようか」
部長に真っ当な提案をするべきでなかったとすぐに後悔した。この人はどんな状況であれ自分の興味に従って周りを無責任に巻き込んでいく存在であることを忘れていた。
部長は部室の戸を開けて首だけを外に出し、廊下の様子を伺った。部長の背中越しに見える廊下は既に消灯されていて予想外に暗かった。
「その暗さで徘徊は流石に怖いしやめた方がいいですって。危ないですし。怒られますけど職員室に行った方がいいですよ」
「暗いからこそ徘徊するんでしょ?ただの散歩も深夜にするだけで徘徊になる。刀伊君も面白そうだとは思わない?」
「いやぁでも…その後どうするんですか?徘徊するのはいいとして、先生たちがみんな帰るまで学校にいるつもりですか?」
「あんまり考えてなかったけど、それもいいかもね。先生すらいない、私たちだけの学校もそれはそれで楽しそうじゃない?帰る時は校舎裏の門を乗り越えればいいし。」
好奇心には抗えない。他の生徒が帰ったあとの真っ暗な学校。
高揚感と暗闇に対する恐怖の混じったなんとも言えないものを感じつつ、部長と部室の外へ出た。窓の外から入ってくる微かな光で、かろうじて廊下の一番奥の壁が見える。閉め切った部室の湿気のせいで、廊下の空気が実際以上に冷たく澄んでいるように感じられた。
「…本当にするんですか?」
隣で上履きを履き直している部長に問いかけた。部長はそんなことは当然だとでも言いたげな目をこちらに向け、
「気の赴くままに、行こうよ」と言った。
部長の言葉には妙に惹かれるところがあった。彼女の自由な性格がその一端を担っていることに気づいた。一人で歩き出した部長の後ろについていくことにした。
二人の歩く音だけが廊下に反響していた。自然と暗闇に対する恐怖は消えていて、愉快な楽しさが優っていた。部長は楽しそうな、少し跳ねるような足取りで廊下の先を進んでいた。前を歩く部長の影は窓から入る少しの光だけを頼りにして歩いているようで、ふらふらと窓際へ向かって歩いては離れるということを繰り返していた。光の波に体を預けて漂うような足取りだった。部長は突き当たりに行き着くとこちらを振り返り、
「案外面白いでしょ?」と微かに笑いかけた。その静かな笑顔は純真無垢で悪戯っぽく、十歳の小学生が部長の中で生き続けているのかもしれないと思った。壁に背中を預け、結局部長の言う通り夜の校舎での徘徊に連れ出された僕をからかうような視線をこちらへ向けていた。
静かな空間だった。この学校には二人だけ、そう思わせるほどの静謐を夜の暗闇は湛えていた。案外いい夜を過ごせるのかもしれない。