朝の匂いというものは、火を起こす前からもうそこにある。
我は廟の縁側に座し、まだ冷えの残る板に手をついた。木の感触がじんわりと伝わる。静かじゃ。
この静けさは、嫌いではない。むしろ好きである。火を扱う者にとって、静寂は友のようなものだ。
「布都」
背後から声。振り向かずとも分かる。
「なんじゃ、屠自古」
蘇我屠自古が、すっと我の隣に立つ。足音はない。気配はある。怨霊とは、そういう存在だ。
「昨日の皿、洗った?」
……あ。
記憶の端に、焼き魚の脂が光る。
「……味を染み込ませておった」
「腐らせてただけだろ」
容赦がない。
「皿とはな、歴史を刻む器でもある」
「ただの脂だよ」
ぐぬ。
仕方なく台所へ向かう。白い皿には、うっすら魚型の跡。戸水を汲み、布巾を濡らす。水は冷たい。手が引き締まる。
ごしごし。
……ごしごしごし。
力を込めすぎた気がした。
指先に伝わる、嫌な振動。
――ぱき。
静寂。
「……布都?」
「……事故じゃ」
「今週で何枚目だ?」
「……一枚」
「昨日も割ってたよな」
「……三枚目」
「素直でよろしい」
素直でも皿は戻らぬ。
破片を拾いながら、我は思う。
なぜ皿は割れるのか。火は応える。水は流れる。だが皿は、力を受け止めきれぬ。
「人里、行ってくるのか?」
屠自古が問う。
「うむ」
「私は行かないからな」
「分かっておる。怨霊が朝から出歩けば騒ぎになる」
「分かってるなら最初から期待するなよ」
期待はしておらぬ。たぶん。
人里は朝の音で満ちておった。味噌の匂い、野菜を並べる音、人の話し声。
我は皿を三枚……いや、四枚買う。予備は賢者の選択である。
廟へ戻ると、縁側に一人、静かに座す姿があった。
豊聡耳神子。
朝日を背に、茶を手にしておられる。
「おかえり、布都」
声は穏やかだが、すべてを聞き逃さぬ響きがある。
「ただいま戻りました!」
包みを掲げる。
「皿を……また割ったのだろう?」
「な、なぜお分かりに」
「朝から屠自古のため息が三度聞こえた」
回数まで正確とは。
「だが、良い」
神子様は新しい皿を一枚取り、光にかざす。
「割れるということは、使っているということ。使わぬ器は眠るだけだ」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「しかし」
その目がわずかに細まる。
「無駄に割るのは感心しないな」
「……精進いたします」
背後で屠自古が小さく笑う。
昼餉の支度を始める。
火を起こす。薪がぱちりと弾ける音。これが好きだ。火は正直である。強くすれば燃え、弱めれば静まる。
野菜を刻み、鍋をかき混ぜる。
「布都」
神子様の声。
「今日は焦がすなよ」
「……努力いたします」
「毎回それ言ってるよな」
屠自古が即座に挟む。
「うるさい」
思わず返す。だが口元は緩んでいる。
皿は割れる。
屠自古は遠慮がない。
神子様は何もかも見通している。
それでも廟は、穏やかだ。
新しい皿に料理を盛る。湯気が立つ。白い面に色が映える。
神子様が一口食べる。
「うむ。今日は良い出来だ」
胸の奥が、ふわりと膨らむ。
「当然です!」
「調子に乗るなよ」
「乗っておらぬ!」
笑いが廟に満ちる。
我は思う。
皿は割れる。だが朝は割れぬ。
何度でも来る。火を起こし、飯を作り、叱られ、笑われる。
それでよい。
洗い物をしながら、そっと力を抜く。
きゅっ、と水音。
……割れておらぬ。
「布都?」
「今日は割っておらぬぞ!」
「今日は、な」
屠自古の声は呆れているが、どこか柔らかい。
明日もまた、朝は来る。
皿が無事である保証はないが…
それもまた、日常である。
はい。前の連載から一日で新しいの書き始めるっていうね。なんか創作意欲が爆発しちゃって。
最近布都ちゃんにハマってます。のじゃロリっていいよね。
この小説は多分三話くらいを予定してます。(日常系が得意じゃないとかそういうわけではない)
幻忘霧もね、結構駆け足になっちゃったりしたので今度書き直したいですね。
もしよろしければ感想とかいただけるとすっごくモチベになるので是非お願いします。
ではまた。