風が高い。
神霊廟の屋根よりも、もっと上の空で鳴っている。
我こと物部布都は、山へ続く川原に立っていた。
水は浅く、石の上をさらさらと流れている。
陽射しは強いが、川風があるから暑くはない。
来るつもりはなかった。
ただ、歩いていたら山のほうへ足が向いただけである。
石をひとつ拾って、ぽいと投げる。
水面に三回跳ねて、沈んだ。
「三段か。微妙だな」
「自己採点が厳しいですね」
背後から声。
振り向けば、黒い翼。
ブンが手帳を片手ににやりと笑っている。
「何を記しておる」
「“神霊廟の危険人物、山に現る”」
「危険ではない」
「今のところは」
失礼千万。
文はひらりと宙に浮き、布都の周りを一周する。
「今日は何を?」
「何もせぬ」
「珍しい」
「珍しくはない」
文はふむ、と顎に指を当てる。
「ではインタビューを。最近のマイブームは?」
「……川」
「ざっくりですね」
川原の上流から、水しぶき。
銀色の尾が跳ねる。
若鷺姫が浅瀬から顔を出した。
「こんにちは」
「うむ」
若鷺姫は水面に肘をついて、布都をじっと見る。
「今日は静かですね」
「うむ」
「燃えてませんね」
「燃やさぬと言っておろう」
なぜ皆、そこを基準にするのか。
文がすかさず書きつける。
「“本人、否定”っと」
「やめよ」
しばらくして、草むらががさりと揺れた。
白狼天狗。
犬走椛が警戒の目でこちらを見る。
「問題は起こしていませんね?」
「起こしておらぬ」
「本当に?」
「本当に」
椛はしばらく睨んだあと、小さく頷く。
「なら、自由にどうぞ」
それだけ言って、巡回に戻る。
山は平和である。
少なくとも、今日のところは。
布都は川縁に座る。
石は丸く、少し冷たい。
足先を水に浸すと、ひやりとした感触が走る。
「冷たいな」
「山水ですから」
若鷺姫が笑う。
文は近くの岩に腰掛け、足をぶらぶらさせている。
「布都さんって、意外と何もしない時間好きですよね」
「……嫌いではない」
水音が一定に流れる。
遠くで鳥が鳴く。
風が草を揺らす。
「記事にならないなぁ」
文がぼやく。
「平和は売れぬか」
「売れませんねぇ」
「では書くな」
「でも、こういう日があるって記録は大事ですよ」
文は少し真面目な顔になる。
「“神霊廟の布都、川辺で石投げ。異変なし。”」
「地味である」
「それがいいんですよ」
布都はもう一度石を拾う。
今度は少し平たいものを選ぶ。
軽く手首を返す。
ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ。
四段。
「おお」
若鷺姫が拍手する。
文も思わず顔を上げる。
「成長してますね」
「当然である」
少しだけ、誇らしい。
たったそれだけのこと。
だが、川原ではそれで十分だ。
空は高く、雲は薄い。
布都は膝を抱え、流れを眺める。
火も寺も異教も、今は遠い。
水の音だけが、規則正しく続いている。
こういう日があるから、
次に誰かと顔を合わせても、たぶん少しだけ穏やかでいられる。
「また来ます?」
若鷺姫が聞く。
「気が向けば」
「曖昧ですね」
「我はそういうものだ」
文がぱたんと手帳を閉じる。
「じゃあ今日は解散ですね。何も起きませんでしたし」
「何も起こさなかった、の間違いである」
「それ、記事の見出しにしましょうか?」
「やめよ」
笑い声が川に溶ける。
布都は立ち上がり、山道の方へ歩き出す。
背後で水が流れ続ける。
本日、異変なし。
ただ、少しだけ石投げが上達した。
それだけで、悪くない午後であった。