227号特別クラスの、甘くて苦い冬の夜。

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Douce/s

 「――甘い」

 そう呟いて、彼女は鞄から小瓶を取り出す。中に入っている透明な液体が揺れて、わずかに泡立つ。蓋を開ける。軽く口を付けて流し込むと――まず喉の奥、そしてすぐに顔全体が熱くなる。そして苦み。鼻に抜ける強いアルコール臭に顔をしかめて、蓋を閉じた。ふっと息をついて顔を上げると、そこに広がっているのはいつもの風景だ。完全に錆びついた机や傷の入った鉢、そして窓の外に広がる雪景色。廊下に面する窓のほとんどが割れているのと対照的に、外窓にはひび一つ入っていないのは、その窓が彼女たちの防衛線だったからだ。建物の内側にいても凍えるレッドウィンターの過酷な気候は、一歩誤れば生徒たちの命を奪いかねない。その窓が一度破れてしまえば寒風が吹きこみ、建物は死地となる――薄っぺらいガラス1枚が生死を隔てていることを、全員が理解している。

 そういう環境だ。227号特別クラスが置かれているのは。

 

 

 「シグレちゃん!」

 階段を上がってきた少女が彼女を呼んだ。どこか軽快な足音が廊下に響き、少しずつ大きくなってくる。その音は彼女がいる部屋の前でぴたりと止み、扉が動いた。誰も修理をしないままに古びてしまった扉はがたんと大きな音を立て、かろうじてその道を譲った。

 半開きになった扉をすり抜けて、彼女は教室の中に入ってくる。床につきそうなぐらい長い髪が後を追う。

 「ノドカ」

 シグレは彼女の名前を呼んで、にっこりと笑った。さりげなく小瓶をポケットに隠す。まだ少しだけ吐息にアルコールの香りが混じっているのを感じて、彼女はどこか後ろめたそうに眼をそらした。

 「薪がそろそろ足りなくなりそうで……」

 「分かった。行こう」

 

* * *

 

 外に出ると、分厚い雪雲が空を覆っていた。二人が並んで歩き始めるころには、冷気に触れた皮膚がすでに痛み出していた。

 「寒い……天気が悪くなる前に、早く集めちゃわないと……」

 ノドカが呟く。いくら彼女たちが寒さに強いとはいっても、雪の降る中を長時間活動するのは避けたかったのだ。旧校舎の周辺には枯れ木が多く、薪を集めること自体はそう難しくない。しかしそのほとんどは雪に濡れ、すぐには薪としての用をなさない――火に当てて乾かさなければならない。だから、使い切ってしまう前に集めてこなければならないのだ。227号特別クラスにとって、それは字義通り生命線だった。

 

 「あれ……」

 シグレが不思議そうな声を漏らす。普段ならたくさんあるはずの枯れ枝が、ほとんど落ちていない。

 「昨日はずいぶん強い風が吹いてたから、いっぱい拾えるかもって思ってたんだけど」

 ノドカが身震いして、くしゃみをした。彼女の鼻頭は赤らんでいた。

 「このところずっとこんな天気だし……雪に埋もれちゃったのかな……?」

 「うーん……そうかも」

 おもむろに、シグレが足元の雪をかき分け始めた。新雪をどかすと、すぐに硬くなった氷が顔を覗かせる。道は既に踏み固められていて、枝や枯葉がある気配はない。

 「奥の方にならあるかも。道を外れないと収穫はないかな……正直危険だから、あんまりやりたくないんだけど」

 「うん……早く帰ろう」

 

 二人は、道を逸れて木々の中に入り込んだ。一歩進むのにも苦労するような積雪の中で、先ほどまでいた道はもう見えなくなっていた。

 慎重に分け入っていくと、シグレの足元でぴしっと音が鳴った。

 「あ、今……!」

 「この辺ならあるかな」

 腰ほどまで積もった雪をシャベルでどかすと、木々の枝が折り重なっているのが見えた。

 「よかった……! これで、薪を持って帰れる……!」

 「それに、割と量もありそう。雪をどかすのが、ちょっと大変だけど……よいしょ」

 持ってきたリュックサックに、細いものも太いものもまとめて放り込む。特別クラスでずっと使いまわされてきたものなので、鞄にはあちこち穴が開いている。でも、薪をまとめて持って帰れればそれでいいのだから、それで十分なのだ。どんなにボロボロでも、どんなに傷ついていても――誰も気にしない。彼女らに与するものなどいないのだ。

 「……まあ、こんなもんかな。帰ろう」

 ノドカがうなずき、リュックサックの蓋を閉めた。幸いにもまだ雪は降り始めておらず、かき分けた道は埋もれていなかった。

 もと来た道を辿って本道まで出てきた二人は、ほっと息をついた。

 「よかった、無事に帰ってこられた……」

 「雪が降ってこなかったのは不幸中の幸いだったね」

 二人は旧校舎へと帰っていく。肩に背負った荷物のせいか、その足取りは少しだけ重かった。

 

 玄関に着き、二人はすぐにリュックサックを床に下ろした。雪に濡れた薪はそれなりの重さになり、できるだけ早くそれから解放されたかったのだ。とはいえ、彼女たちが特段弱音を上げるようなことはなかった。その動作は、既に日常茶飯事だったからだ。戸を閉めて部屋の内側に入ると、風の音はほぼ聞こえなくなった。空間が再び、二人だけのものになった。

 「外はこんなに寒いのに、動けば汗をかくのはなんでだろうね」

 だしぬけにシグレが呟いた。普段着ている灰色のアウターを緩めると、その下からは厚手の黒いインナーが覗いた。

 「汗冷えする前に着替えた方がいいんじゃない?」

 「確かにそうだね……というか、今のうちに身体も洗ってきちゃおうかな」

 彼女が窓の外を一瞥すると、外は少しずつ暗くなり始めていた。日没時刻から判断すればまだ日は出ているはずだったが、雪雲が光を遮っていたのだ。風が少し強くなったようで、窓がかたかたと震えていた。

 「大丈夫? さすがに寒いんじゃ……」

 「うん……長居はしないよ」

 不安げなノドカのまなざしが、シグレの目を捉えた。

 「さっと汗を流してくるだけだから」

 どこか胸がきゅっとするような感覚を覚えながら、彼女はバスタオルと着替えを取りに部屋を出た。

 

 シグレが自室――といってもただの空き教室だし、相部屋だが――で準備をしていると、どたどたと足音がして、がらりと戸が開いた。ノドカだ。

 「私も行きま……行く! 何かあっても大丈夫なように! ――それに、私もこのままじゃ気持ち悪いし……!」

 まずシグレの顔に現れたのは、驚き。次いで不安。先ほどのノドカのまなざしが、まだシグレの瞼の裏に張り付いていたのだ。しかしそうして逡巡するシグレを横目に、ノドカはもうタオルを手に取っていた。

 「玄関で待ってる!」

 返事を待たないまま、ノドカは部屋を出ていった。シグレはちらりと自分の手元に目をやり、荷物をひっつかんで彼女の後を追った。

 

* * *

 

 校舎の裏にある川までの短い距離を、二人は無言で歩いた。先ほどのどこか異様な雰囲気は、ノドカからは既に消えていた。シグレには、まだ困惑の色がわずかに残っていた。

 (なんで、急に一緒に行くなんて言い出したんだろう)

 その問いが、彼女の頭から離れなかった。何人かでまとまって川に行くこと自体は決して珍しくないが、ノドカの行動はあまりに唐突だったように思えたのだ――びゅうと、一陣の風が頬を打った。風の音が足音をかき消し、しかしその音も雪の中に吸い込まれていった。沈黙だけがそこに残った。

 ちらりとノドカの方を盗み見ても、やはり彼女の顔色は平常だった。

 

 川に到着するのに、そう時間はかからなかった。幸いにもまだ水は凍っておらず、そのまま入ることができそうだ。二人はほとりの岩の雪を払って一緒に外套を敷き、その上に持ってきた着替えとタオルを置く。雪が積もる時期になって久しく、着替えが濡れないようにするのは必須だった。

 ブーツを緩める。足に冷気が流れ込む。反射的に体が震えた。髪が水に濡れないよう髪を結っているノドカを尻目に、シグレはズボンから小瓶を取り出した。中に入った透明な液体が小さく音を立てた。静かに蓋を開けて――ちょうど一口分残っているかどうかというそれを、一気に喉の奥に放り込んだ。

 かっと熱くなる喉とは対照的に、彼女の思考は冷めていた。

 (『アルコールはダメ』なんて、そんなこと)

 (分かってるよ)

 彼女は理解していた。アルコールが体に悪いことも。酔いが覚めれば苦しむことも。そして、かえって身体が冷えることも――顔に熱が回った。飲んだものの温度で胃が少し冷え、急速に活動し始めた。苦みが後からやってきたが、平静を装った。

 (甘いよ。――みんな)

 ズボンとショーツを一気に下ろし、インナーに手をかけた。先の汗はもう乾いていて、若干のべたつきが残っているだけになっていた。袖から腕を抜くと、再び風が吹き始めた。全身の筋肉が強張った。ブラジャーを頭から抜くと、彼女の身体を守るものは何もなくなった。

 あとは時間との勝負だ。ざぶんと音を立てて、シグレは川に入る。小さなスポンジで、すかさず身体をこする。首、肩、腕――脇、胸、腹――背中と尻、それから脚。短い時間の中で、できる限り細部まで洗う。頭は水につけない。体温が奪われてしまうからだ。アルコールのせいか心拍数が上がっていた。悶えるような寒さの中で、耳だけが熱を放っていた。

 数分もしないうちに、彼女は川から上がってきた。風が牙を剥いた。彼女の体温は、無情に奪われていった。

 小走りで岩までたどり着いたシグレはすぐにバスタオルを被った。肌についた水滴を拭きとり、すぐに着替えのショーツを穿く。そのたった一枚の布だけで、身体がじんわりと温かくなるような気がした。ブラと肌着を身に着けてズボンを穿きなおすと、ようやく全身に温度が回りはじめた。思わず、大きく息をついた。当然息を止めていたわけではないが、息の詰まる時間だったことも確かだった。ほんの少し前まで自分がいた川の方を見やると、ちょうどノドカが川へと走っていくところだった。

 ぱしゃん、と音がした。水面に出ている頭と肩がすぐ小刻みに動きはじめる。その様子を、シグレはぼんやりと見ていた。

 (華奢な身体だなあ)

 互いの裸はとうの昔に見慣れていたはずだったが、そんな考えがふいに浮かんだ。一応配給はある――事務局としても、彼女たちを殺してしまいたいわけではないのだ――が、それだけでは足りないのもまた事実だ。シグレは、翌日狩りに出ようかと思案し始めた。

 数分して、ノドカが川から上がってきた。体が大きく震えている。

 「はあ、はあっ……寒すぎ……!」

 水浸しの彼女にバスタオルを渡すと、シグレの手からほとんどひったくるようにして受け取った。こするように全身を拭いている。

 「ごめんシグレちゃん、私の服持ってきて……!」

 「わかった。――はい」

 そう声をかけて、言われた通り、シグレは着替えを手渡す。ノドカがやっとのことで下着を身に着けたとき、バスタオルはずり落ちてしまっていた。地面についてしまう前に、かろうじてシグレが受け止める。もう肌の水気はあらかた拭き取られていたが、おぞましいほどに鳥肌が立っていた。

 「ノドカ……大丈夫?」

 彼女は小さくうなずいたが、身体は思うように動かないようだった。シグレがインナーを着るのを手伝う。コートまで身に着けても、まだ震えは続いていた。

 「私のも着ていいから。歩ける? 早く帰ろう」

 ノドカは再びうなずいて、シグレの腕をそっと掴んだ。そうして二人は、ゆっくり校舎の方へと歩き始めた。

 

* * *

 

 旧校舎に着いても、彼女の元気はまだ戻らないようだった。ノドカを焚火の横に座らせたシグレは、奥の部屋に予備の毛布を取りに行った。毛布数枚と空き瓶を手に取ると、彼女はすぐに踵を返した。

 「とりあえずこれ、被って。お湯も用意するから、ちょっと待っててね」

 ノドカはうなずく。シグレは冷蔵庫から水のボトルを取り出して、薬缶に注いだ。それを火にかけて、ノドカの隣に座った。

 「首、触っていい?」

 こくんと首が振られる。シグレは首筋に手を伸ばし、その温度を確かめる。

 「やっぱり、冷たいね。致命的じゃないとは思うけど……このままで大丈夫? 布団とか、用意しようか?」

 ノドカは小さく横に首を振った。シグレも黙ってうなずき、焚火の方に向き直った。

 (――なんで急に、一緒に行くなんて言い出したんだろう)

 先の問いが再びシグレの頭をもたげてきた。自分のせいではないとはいえ、どこか責任も感じていたのかもしれない。外では風が強くなっていて、窓が音を立てていた。冬の日は短く、もうほとんど日が暮れていた。

 湯が沸いた。やかんから瓶に湯を移し、タオルでくるむ。

 「はい。大丈夫だとは思うけど、最初は胸に当ててね。ショックとか怖いから」

 黙って瓶を受け取ったノドカは、言われたとおりにする。どこかぼうっとした様子の彼女は、従容としてシグレの言葉に従っていた。風はますます強くなっていた。

 二人はしばらくの間、黙って焚火の前に座っていたが、ふいにノドカがシグレの袖口を掴んだ。

 「ごめん……シグレちゃん、何か食べ物、持ってきてくれない……?」

 「お、食欲出てきた? いいよ。よかった」

 少しだけ目を見開いたシグレは、にっこり笑って応答する。段ボールの中から乾パンの入った缶を取り出し、一緒にコップを持って帰ってきた。やかんに入っていたお湯を注ぎ、ノドカに差し出す。

 「はい。飲めたら、水もどうぞ」

 「ありがとう」

 ノドカは一口乾パンを齧り、白湯で口を湿らせる。そうして、大きく息を吐いた。

 「落ち着いた?」

 「うん……。ありがとう」

 もう一口飲んでから、彼女は再び乾パンを食べ始めた。

 

 「ねえ……どうして、急に川についてくる気になったの?」

 ふと、シグレがノドカに訊ねた。

 「うーん……なんでって聞かれると、困っちゃうかも……? なんか、急に行かなきゃいけないような気がして。……なんでだろう?」

 純粋に不思議がるようなノドカに対して、シグレの顔にはまだ怪訝そうな色が残っていた。彼女が再び口を開こうとすると――

 ガシャンと大きな音がして、窓が割れた。

 

 「!?」

 二人の視線が窓に向けられる。飛び散ったガラス片の中に、太い枝が転がっていた。先刻からの強い風で飛ばされてきたらしい。ガラスの穴から寒風が吹きこんできて、甲高い音を立てている。

 「さすがにマズいね……すぐに塞がないと。ノドカ、動ける? ――金槌と釘、持ってきてほしい」

 ノドカが動き出す。その足取りは思いのほかしっかりしていて、シグレはほんの少し安心した。彼女自身は、木材を取りに階段を上がっていく。

 それは二階の空き教室にあった――といっても、壊れた机の天板を引きはがしただけのものだが。それでも、窓に打ち付けておけば応急処置にはなりそうだった。それを軽く持ち上げて、シグレは再び階段を下って行った。階下では、すでにノドカが道具を準備して待っていた。

 「ありがとう。すぐやっちゃうね」

 ノドカから釘と槌を受け取ったシグレは窓に向かい、部屋になだれ込んでくる冷たい風に対峙した。

 板を壁に当てる。釘の先を板に当てる。槌を叩き込む。板の反対側を持ち上げて、再び釘で固定する。そうして四隅に釘を打ち込むと、多少風を防げるようになった。シグレの手さばきが随分手馴れていたのは、旧校舎での生活がそれだけ過酷だったからだ。手元の道具で修繕するのは、彼女たちにとっては日常的なことだった。

 「とりあえず、これで今夜は保つかな……でも、この部屋にはいない方がいいかも。隙間風は防ぎようがないし」

 「上で火を起こすのは、無理かな……?」

 「起こすこと自体はできそうだけど……火事になったら危ないかな。そのための設備があるわけじゃないから」

 「うっ、確かに……。今夜は、毛布にくるまって過ごすしか……」

 「まあ、そういう時もあるよね」

 二人は、上階にある自室に戻っていった。

 

* * *

 

 「この時間でも、もう大分寒いね」

 「そうだね……」

 まだ眠る時間にはかなり早いが、二人は既に毛布を引き被っていた。

 「もう体調は大丈夫?」

 「うん、多分……さっきはごめんね」

 「こういう時は、お互い様でしょ」

 どこか温かいシグレの声とは反対に、ノドカの声はどこか悄然としていた。

 「さっきの窓の修理も、やってもらっちゃったし。衝動的に水浴びにいって体調崩して、その後の介抱もしてもらって……今日、何にもできなかったなあ」

 彼女はそこで言葉を切った。それから少し遠くを向いて、呟いた。

 「……私、ここにいない方がいいのかな?」

 すぐに顔に笑顔を浮かべて、ノドカは慌てて付け加える。

 「なんて、冗だ――」

 その言葉を最後まで聞くよりも前に、シグレはノドカに抱きついていた。

 「そんなこと、言わないでよ」

 「! シグレちゃ……」

 驚いて固まるノドカの胸元に、シグレは顔を押しあてた。そしてゆっくりと、言葉を接ぐ。

 「私は、ここのことが好き。過酷な環境だけど、美味しい飲み物もあるし――それに、大切な人もいる」

 「私たちはここで謹慎してるわけだけど……もっと簡単に生活することができないわけじゃない。それこそ、先生の力を頼るとか。シャーレに行けば食べ物もあるし……温かいお湯も浴びられる。それに、ノドカは先生に首ったけみたいだし?」

 意地悪そうな笑みを浮かべた刹那、彼女は目を伏せ、真剣な顔つきになった。その表情からは、不安と緊張が滲み出ていた。

 「本当は……ノドカが幸せになれる場所は他にあるのかもしれない。それがどこなのか、そもそも本当にあるのか、私には分からないけど」

 「それでも。それでも――私は、一緒にいたい。ここで、ノドカと」

 彼女は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。静寂の中で、シグレは静かに、しかし確かに呟いた。

 「――好きだよ。ノドカのことが」

 彼女は目を閉じ、ノドカの体に回した腕の力を緩めた。ノドカは身動ぎもしなかった。風は未だ止まず、窓を揺らしていた。

 

 「……シグレちゃん」

 長い沈黙を破ったのは、ノドカだった。彼女の心臓が一度大きく脈を打ち、その鼓動はシグレにも伝わった。

 「私……私、確かに先生のことはずっと見てるし、会えれば嬉しいけど……シグレちゃんのことだって本当に大切だと思ってるよ。でも……それがシグレちゃんのいう『好き』とおんなじなのかは……分からない」

 再び沈黙が場を支配した。シグレに聞こえていたのは、ノドカの心拍と風の音。それに、ノドカの『分からない』という言葉が、彼女の頭の中で反響していた。ノドカは何か言葉を探しているようだったが、それが口に出されることはなかった。

 

 「ノドカ……じゃあさ」

 シグレが、ほんの少しだけ口角を上げた。腕をほどいて、ノドカと目線を合わせる。

 「試してみる?」

 にわかにノドカに顔を寄せる。彼女は、何の抵抗もしなかった。

 二人の唇が重なる。ノドカの唇は乾いていたが、温かかった。シグレは目を閉じていた。彼女の世界にあったのは、ノドカの身体とその温度。ただそれだけだった。

 シグレが唇を離した。止まった時間が、再び動き出した。彼女はもう一度ノドカを抱きしめて、うなじに軽くキスをした。きゃっと声を上げてノドカが首を竦めるが、そこに嫌悪感はなかった。そうして二人は、もう一度接吻した。

 「……! ん……」

 シグレが舌を入れてきたのに気づいて、ノドカが口を開けた。ちゅく、と唾液が混ざり合う音が頭蓋の中に響く。シグレが舌の裏をゆっくりと舐めると、ぞわぞわする感覚がノドカの全身に伝った。ほんの少し体を震わせて、彼女はなされるがままにする。上顎、舌、唇――シグレの舌が這うそのたびごとに、なにか波のようなものがノドカの体を走っていく。それは、彼女が一度も経験したことがないものだった。それに身を委ねて、彼女はシグレの舌遣いだけを感じていた。

 何時間にも思われたそれを終えると、シグレはノドカのインナーを少しだけ捲りあげた。一気に脱がしてしまわなかったのは、彼女の理性の働きだったのかもしれない。

 ノドカの脇腹に触れ、くすぐるように指を動かす。身をよじる彼女の体を追って、抱きしめる。胸元に軽くキスをすると、ノドカの動きが一瞬止まった。服の上から胸に触れ、掌でその温度を捉える。

 「柔らか……」

 思わずシグレが口走ると、ノドカは恥ずかしそうに顔を背ける。その様子を見たシグレはにんまりと笑って、ノドカの頬に唇で触れた。心なしか、彼女の顔が火照っているような気がした。

 脚を絡めて、二人の距離がさらに縮まる。最初こそ驚いていたノドカも、その状態にすぐ順応した。互いの体温が交換され、緩慢な空気が部屋を包み込む。

 シグレは指先で、胸の先端にかりかりと刺激を加える。

 「シグレちゃん……やっ、ん……」

 ノドカは甘い声を漏らしている――反面、シグレは彼女の体がほんの少し強張っていることに気づいていた。それで、ほとんど本能的にその結末を理解した。喉の奥に苦いものがこみ上げてきた。ノドカの喘ぎ声が後景へ退いて、一瞬ふっと何も聞こえなくなった。指先に感じる柔らかさだけが、シグレをこの世界に繋ぎとめていた。

 彼女はノドカの下着に手をかけた――やはりノドカは抵抗しなかった――が、それ以上脱がせようとはしなかった。少しだけ上せたような息をして、シグレは訊ねた。

 「ね、ノドカ、どうする……?」

 わずかな間が空いて――紅潮した頬にうっすら涙を浮かべ、ノドカは小さな声で言った。

 「これ以上は……怖い」

 シグレはその言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じた。諦念とも納得ともつかない表情が顔全体に広がり、しかし笑みを湛えて、うなずいた。

 「……わかった」

 それ以上、二人は余計な言葉を交わさなかった。シグレは腕をノドカから離し、乱れかけた服を直した。どちらからというでもなく、互いに背を向けた。布団には、二人の温度がまだ残っていた。

 

 しばらくしても、シグレは寝付けそうになかった。眠る努力をするのを諦め、目を開いて背後を振り向くと、既に眠りに落ちたノドカがそこにいた。その体は安らかに、規則正しく上下している。

 彼女はなぞる。その肩を。背中を。

 「温かい。柔らかい」

 そうしてそっと、首筋のあたりに口づけをする。

 「……甘い」

 小さな声で、ひっそり、呟く。

 「ごめん。――ごめん」

 シグレは目を閉じ、背中に顔をうずめた。涙が、服に吸い込まれていった。

 その言葉がノドカに届いたのかどうか――それは、彼女だけが知っている。

 

(終)


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