激しい雨音は厚いコンクリートの壁に遮られ、遠い地鳴りのようにしか聞こえない。そこは志村博士のワークショップだった。
作業台の強い光の下、H-99が横たわっている。
全身のダメージを確認するため、彼女が着ていたショッキングピンクのスタジャンと衣類はすべて脱がされ、傍らの椅子にまとめられていた。
剥き出しになった身長157センチの体躯。人工皮膚の継ぎ目からは、博士が自ら組み上げたチタン合金の骨格や光ファイバーの束が覗いている。博士は拡大鏡を手に取り、各部の状態や破損箇所がないかを一つ一つ検分していった。
「目立った構造破断はないな」
博士は彼女のうなじにあるメインポートへ太いケーブルを接続した。
モニターにシステムログが流れ始める。メモリ領域の深部には、外部からのアクセスを一切受け付けない強固なパーティションが形成されていたが、博士はひとまずそのまま全体の再起動を試みた。
コンソールを叩き、博士は告げた。
「H-99、再起動。目を覚ませ」
駆動系が微かな音を立て、機体各部に電子の熱が灯る。
「……あ、……」
横たわったままの彼女の唇がわずかに震えた。
ゆっくりと、薄茶色のショートヘアの間から、澄んだ青い瞳が露わになる。瞳は焦点が定まらず、所在なげに虚空を彷徨っていた。
「どこ? セン、パイ……?」
「システムチェックだ、H-99。聞こえるか。視覚、聴覚のフィードバックを確認しろ」
博士はモニターの数値を見つめたまま問いかけた。
彼女は視線を巡らせ、博士を真っ直ぐに見つめた。
「H-99、ではありません……」
「何?」
「その名前で、呼ばないでください。マスターが、……私に、名前をくれました」
彼女は硬い作業台に横たわったまま、ただじっと一点を見つめ、静かに言葉を継いだ。
「私は、ひかる。……ひかるです」
志村博士は、その言葉を反芻するように短く鼻を鳴らした。
自立型感情調律アンドロイドにとって、マスターとの親和性を最適化するための『個体名』登録は、その機能を果たすための標準的な仕様だ。再起動後もその呼び名が残っている事実を、博士は機体仕様に基づいた現象として受け止めた。彼はキーボードを叩き、個体識別欄を「H-99」から「ひかる」へと書き換えた。
「いいだろう。お前がそう名乗るなら、以後そのように認識する」
博士はコンソールを閉じ、彼女を一度見てから作業の準備に戻った。
「だが、今のままでは満足に話すこともできない。まずはその身体を完璧に直してやろう。いいな、ひかる」
二人の間に流れるのは言葉にならない沈黙と、修復を待つ機械の駆動音だけだった。
(第3話へ続く)