ヤタガラス探偵事務所・帝都支部 ――デビルサマナーは大正の夜にバグを穿つ――』 作:ガチャガチャクツワムシ
深い眠り――魂の再調整(リチューニング)を終えた神代駆は、姿見の前で身だしなみを整えていた。
指先に伝わる神経の伝達速度、筋肉の収縮と弛緩のバランス。半年間、あの修練の間と異界の過酷な環境で研ぎ澄ませた肉体は、以前よりも一回り鋭利な武器へと変貌を遂げている。
鏡の中の自分は、相変わらず感情の読めない顔をしていた。それでいい。師匠の教えだ。デビルサマナーたるもの、内面を晒せばそこから付け入られる。たとえ味方に対してすら、底の見えないプロとして振る舞うのが彼の流儀だった。
案内役を務めるしのぶ、そしてカナエの二人に連れられ、駆は産屋敷邸の広間へと足を踏み入れた。
透き通るような静謐な空気。その中心に、鬼殺隊の当主、産屋敷耀哉が静かに座している。駆は産屋敷様の前で、音もなく膝をつき、深く頭を下げた。
「産屋敷様。神代駆、ただいま帰還いたしました。……任務の途上、予期せぬ事態により長期間の不在を招き、戦線を離脱いたしましたこと、深くお詫び申し上げます」
一切の言い訳を排した、超国家機関ヤタガラス所属の召喚師としての礼節。半年という空白に対する、彼なりの誠実な謝罪だ。
耀哉は、すべてを見通すような、それでいて春の陽だまりのような穏やかな微笑みを浮かべた。
「おかえり、駆。君が無事で戻ってくれたことが何よりの喜びだよ。……君が不在の間、夜の闇は深まりつつある。だが、君の力が必要になる『その時』はまだ先だ。今はまず、この世界の空気に身を馴染ませておくれ」
「勿体なきお言葉。……失礼いたします」
駆は必要以上の言葉を交わさず、もう一度丁寧な一礼をしてその場を辞した。産屋敷様の先を見通すような言葉に、わずかな予感を感じつつも、彼はそれを心の奥底へと仕舞い込んだ。
邸を出て、しのぶとカナエの二人と別れた後、駆は喧騒を避けるように山中へと足を向ける。
借りている拠点の近く、鬱蒼とした森の奥に佇む古びた社。そこは、この鬼滅の世界において、わずかに外部との境界が揺らぐ特異点だった。
駆が足を止めると、周囲の気温が急激に下がり、空間が水面に石を投じたかのように微かに歪んだ。半透明な漆黒の装束を纏った人型が、陽炎のように揺らめきながら現れる。
駆の元いた世界から、超国家機関ヤタガラスが送り込んできた思念体だ。
「……お待たせしましたね。一応、先に産屋敷様への挨拶を優先させて貰いましたよ。組織の義理より、こちらの義理が先決ですので」
駆は愛用のガンプを指先でくるりと回し、ホルダーに収める。どこか他人事のような、飄々とした口調。だがその瞳は、使者の発する霊圧の質を冷徹に見定めていた。
思念体は無言のまま、実体化した報酬――生玉やガンプ用の特殊弾丸を差し出した。
駆はそれをひょいと受け取ると、中身も確認せずに異界のバックへ放り込んだ。この世界ではマグが極端に薄く、自然回復は絶望的だ。この特殊な補給物資こそが、彼がデビルサマナーとして戦い続けるための唯一の糧だった。
「報酬、どうも。死ぬ気で修行した甲斐があったってもんです。……で、実際のところどうなんです? 向こうの時間は。時計の針が狂っているのは、肌で感じていますがね」
駆の問いに、思念体は仮面の奥から、地底から響くような重々しい声で答える。
『……貴殿が修練の間、および異界で過ごした半年。その間、我らがいるこちらの世界では数ヶ月の時が流れた』
「数ヶ月、ですか。思ったよりズレてますねぇ。……浦島太郎になるのは勘弁してほしいところだ」
『左様。そして今、貴殿がいるそちらの世界の理もまたバラバラだ。空間の歪みは時間の淀みを生む。ゆめゆめ、時間を忘れることなかれ。……健闘を祈る、デビルサマナー』
そう残すと、使者の姿は夕闇に溶ける霞のように、音もなく消え去った。後には、ただ冷たい森の静寂だけが残される。
駆はフッと薄く笑い、シリンダーを弾いて装填を確認した。
自分の感覚では半年、元いた世界では数ヶ月。そしてこの大正の世では、また異なる時間が流れている。この不安定な時間の流れすら、彼は少し厄介な任務の付帯条件程度にしか見せていない。師匠の教え通り、内心の焦燥は微塵も表に出さなかった。
「さて……。それじゃ、リハビリがてら一仕事してきますかね。身体が鈍ってちゃ、仲魔たちに笑われちまう」
駆は社に背を向け、ひらひらと軽く手を振って歩き出す。
マグの薄いこの世界で、彼は孤独な召喚師として再び戦場へと消えていった。その足取りは、風のように軽く、しかし大地を捉える確かな意志を宿していた。