ヤタガラス探偵事務所・帝都支部 ――デビルサマナーは大正の夜にバグを穿つ――』 作:ガチャガチャクツワムシ
アザゼルによる無機質な「過去ログ再生」が終わり、事務所に静寂が戻った。
ホログラムの残光が消えたあとの空気には、駆という男の、青臭いまでに真っ直ぐな優しさの余韻が満ちている。美緒としのぶは、それぞれの胸中でその温かさを噛み締めていた。
その静寂を破ったのは、無造作に開けられたドアの音だった。
「……ただいま。ったく、歩きっぱなしで足が棒だぜ。……おっと、美緒。まだ居たのか」
疲れ切った表情で戻ってきた駆は、いつものように使い込まれたハットを脱ぎ、コートをハンガーに掛ける。だが、一歩室内に踏み込んだ瞬間にその足を止めた。サマナーとしての鋭敏な感覚が、部屋に充満する「妙な熱っぽさ」と「残留した電子ノイズ」を瞬時に察知したのだ。
「……おい。俺の留守に何かあったか? 空気がやけに湿っぽいんだが。……それからアザゼル。お前、勝手に内部クロックを回してただろ」
駆がデスクの上のガンプをジロリと睨む。アザゼルは知らん顔で演算ノイズをひとつ鳴らすと、逃げるようにスリープモードへ移行した。
「……あ、お兄ちゃん。おかえり」
美緒が少し潤んだ瞳で駆を見つめる。その視線は、いつもの「生意気な妹」のものではなく、兄の隠した泥臭い軌跡を知ってしまった、慈愛に近いものだった。
「……なんだよ。その、捨てられた子犬を見るような目は」
「ううん。……お兄ちゃん、かっこいいなーって思って」
「……はぁ? 藪から棒に何を……」
怪訝そうに眉を寄せる駆へ、追い打ちをかけるようにしのぶが歩み寄る。彼女は柔らかな微笑みを湛え、いつも以上に丁寧に淹れた茶を差し出した。
「おかえりなさい、駆さん。……本当にお疲れ様でした。貴方は、本当に……素敵な主人(マスター)ですね」
「……。……おい、しのぶ。あんたまで何を言ってるんだ。アザゼルのやつ、まさか……余計なログを垂れ流したんじゃないだろうな?」
察した瞬間、駆の顔が耳の先まで赤く染まっていく。
「イヌガミ」を力ずくで押さえつけた、若気の至りとも言える青臭い記憶。鴉の前で背伸びをして「管」を握りしめた、あの気恥ずかしい原点。──必死に積み上げてきた「ハードボイルドな探偵」というメッキが、音を立てて剥がれ落ちていく。
「……チッ、どいつもこいつも勝手なこと言いやがって! アザゼル、お前は一週間タスク抜きだ。スリープモードで反省してろ!」
真っ赤になってガンプに当たり散らす駆。だが、返ってきたのは「了解」という、どこか小馬鹿にしたような短い電子音だけだった。
「ふふ、駆さん。そんなに怒らなくても。美緒さんも、貴方のことが誇らしいだけなのですから」
しのぶがクスクスと笑いながら、空になったカップを片付ける。
「誇らしい……? 勘弁してくれ。俺はただのしがない探偵だ。……ハーフボイルドの、な」
駆はハットを深く被り直し、照れ隠しに窓の外の夕焼けを見つめた。
「お兄ちゃん、今夜は美味しいもの食べに行こうよ! 奢り……は無理だろうから、割り勘で!」
「……。……フン。仕方ねえな。今日、浮気調査の着手金が入ったんだ。奢ってやるよ」
「わあ、やったー!」
「ありがとうございます、駆さん。楽しみですね」
賑やかな三人の声が、夕闇に溶け始めた街へと流れ出していく。それは、何よりも代えがたい「今」という報酬だった。