梅雨っぽく、湿っぽい作風にしたつもりです。
私の彼氏――
彼は度重なる接近に疲弊していたらしく、彼自身に執着していない相手と金で釣って恋人関係になりさえすれば、この鬱陶しさから解放されると踏んだのである。こっちからしてみればいい迷惑だが、二人の兄に引っ張られた趣味と態度、そして170に迫りつつある身長のせいで、私――
閑話休題、実ノ輪くんの予想通り、結果は目論見通りにいった。彼の周りから人が消えることはないが、校舎裏に呼び出されることはなくなった。
さて、なぜ私が過去を振り返るなんてことをしているのか。
「ええっと、実ノ輪さんはとある病で女性になってしまいました。これからもクラスの一員として仲良くしてね」
「よろしく」
ひ弱な女性の担任教諭はそれだけ言って、逃げるように職員室に下がっていった。その瞬間、クラス内はどよめきで満たされる。男子はその美しさに立ち上がり、女子は席に着いたまま両手で口を覆った。私もその衝撃に当てられて、龍臣と目が合って逸らすこともできなかった。
もとから強気な性格ながら気品にあふれていたのだから、女性となっても実ノ輪くんは所作の隅々まで高貴な女性として振る舞えていて、切りそろえられた黒い長髪と切れ長の目はまさに大和撫子そのものに思えた。彼は今まで以上に注目を集めるようになった。しかし、それはすぐに収束して、終には誰もが彼の周りから去ったのである。そう、彼女である私を除いて。
※ ※ ※
放課後、実ノ輪くんは席を立つと真っ先に私の席に向かってくるようになった。
「今日も私と一緒に帰れるかって?」
「ああ、そうだけど。だめか?」
「いや、だめじゃないけど」
実ノ輪くんは背が縮んで私より低く、私より女性らしい体つきになった。私と立ち話をしていると、自然と上目遣いになる。それが普段とのギャップになって、撫でてしまいたいほどに可愛らしいのである。
「習い事とか、いろいろあるじゃない? 前の実ノ輪くんはずっと忙しかったでしょ? 急に一緒に帰ろうって言いだすから少しびっくりしちゃったの」
「恋人同士なんだ、これぐらい普通だろ?」
最近は、二人で手を繋いで、近くの駅にあるショッピングモールに向かうことが多い。実ノ輪くんはショッピングに来るという体験自体が新鮮なようで、洋服を見て回ったり、一緒にスイーツを食べたりする様子は年相応の女子そのものだ。
しかし、今日の実ノ輪くんはどこか落ち着きがなく、こちらを向いては言い淀んで、息を飲むばかりである。
「浅町は、俺のことをどう思ってる?」
テーブルに置いてあるコーヒーカップを両手で包みながら、猫背の彼女は俯いて言いこぼした。
「……友達、かなぁ? 作ったことないからわからないけど。まあ、お金を出してもらってばかりだし、君も人除けにしてるし、この関係を友達とするかは断言できない」
「じゃあ、今もお金のために一緒にいるのか?」
実ノ輪くんの声は震えていた。
私は、うんと唸るだけだった。金のため、というのは嘘ではないが、彼との付き合いはとても嬉しかったのだから、それもまた全てだというわけじゃない。
「最近、父親に見合い相手を見繕われたんだ。実ノ輪家として恥ずかしくない女でいろ、って。次期社長の座も弟に移った。それに、この体になってから、勉強も運動もうまくいかない。学校で話しかけてくれるのは君だけになってしまった」
「いや、そんな卑下しなくても――」
「――いや、これは俺が調子に乗っていたんだ。俺が、家が窮屈だからって好き勝手してたんだ。今の地位が偶然与えられて、孤立することを見ないようにしてた。俺は男でいたいのに、男子はじろじろ見てくるし、女子はなんか冷たい。……俺は、男でいたいって思ってんだ。これはおかしいのか?」
実ノ輪くんは黙りこくると、携帯を見て、ぎゅっと一気によくコーヒーを飲み干す。意を決したように深呼吸した彼は立ち上がると、私の手を引っ張ってデパートを出る。
そのまま走っていくと、実ノ輪くんは路地裏に私を引き込んで、ネオンが輝く建物に連れ込んだ。一室に入ると、彼は私をベッドに座らせて押し倒した。
「……浅町。なんで、皆は俺から離れていくんだ? 親父もお袋も女らしくしろって言ってくるんだ。俺は女じゃない。俺は親父の子として、会社を継いでいくんだ。なのに、どこも不自由じゃないのに、今更降りろって何だよ! 俺は使い捨ての玩具じゃない! ……一人の男として親父の力になれないのは、俺が悪いのか」
雨水が窓ガラスを打つ。私の目尻に数滴の雫が落ちた。それは耳のあたりまで伝っていき、枕を濡らした。
「君らしさは男であることだけなのかな。実ノ輪龍臣を構成するものは男だけなの? 私は女らしくない。浅町久遠はガサツだし、背が高いし、可愛いものも嫌いじゃないけど好きでもない。中学の時も今も、女らしくしろって口酸っぱく言われてる。でも、私は変わるつもりはない」
「……俺もやりたいようにしたらいいって?」
「見本にはなれないけど、そうだよ。その生き方は誰かに否定されるだろうけど、それは直さなきゃダメってわけじゃない。でしょ?」
私は少し上体を起こして、実ノ輪くんを抱き寄せる。そのまま、ベッドへ倒れこむと柔らかい温もりと感触が私を包み込んだ。
「俺は、俺として生きていていいのか?」
「うん、そうだよ。男だとか女だとか、そういうのに縛られる必要はないし、別に誰かに決めつけられたって、それは生き方を変えなきゃいけないってわけじゃない」
「じゃあさ、実ノ輪くんじゃなくて、龍臣って呼んでよ。俺たち、恋人同士でしょ? 俺も久遠って呼ぶからさ。いいだろ?」
「ああ、うん」
嗚咽が混じった鈴のような声と弱った姿と合わさると、実ノ輪くんが一段と可愛く見えてしまい、私はその提案を呑んでしまった。
肌と骨を伝って、実ノ輪くんの嗚咽と呼吸が混合したものが耳に届く。徐々に嗚咽の量が減って、その分呼吸の量が多く、深くなっていく。終に私が名前を呼んでも応答しなくなった。
「寝ちゃったか。……詭弁ばっかり並べて、ごめんね」
私は嘘を償うように、実ノ輪くんを優しくベッドに寝かせた。
あなたらしくあればいい。この言葉は確かに、彼の心を軽くするものだ。しかし、裏返せば、彼が最初に求めていた“庶民を支配する男”というアイデンティティとは離れてしまった。あくまで、女性の体を以って自己を確立しているだけなのである。
うん、と唸って少し考えてみても、たかが高校生の未熟な脳みそでは思いつくはずもない。途方に暮れた私は彼女の隣で、雨音を聞きながら瞼を閉じた。
※ ※ ※
翌日、龍臣との関係に変化があったとしても、道中、日常側が変化する兆しはなく、昨日から続く雨に傘を差して、独り登校した。
しかし、普段は会話することのないクラスを牛耳る女子が話しかけてきた。彼女は両脇に女子を侍らせており、目を細めながら嫌らしく微笑んだ。
「ねえ、浅町さんってさぁ。実ノ輪さんとまだ付き合ってるの?」
「まあ、そうかな」
「やめなよ、今更アイツに付き纏っても何も良いことないって。あんな性格悪い奴と一緒にいる必要ないよ。それに女の子なんだよ、別れた方がいいって」
「別に私は利益がどうこうで龍臣と一緒にいるわけじゃ」
「何よ、アタシが親切に言ってやってるのよ」
その女子は、私が座っているせいで強気になっているのか、声を荒げて言い放った。さらに、周りの様子を気にせずに怒鳴り散らして、ブレザーの襟を掴む。しかし、それを止めるように白く美しい掌がその手首を覆った。その小さな手が手首を強く握って軽く捻ると、女子の手が襟を離した。その掌の主は彼女の手を引き寄せると、蛇のような切れ長の目で彼女を睨みつけた。
「お節介だとよ。俺たちの関係は俺たちで話し合う。ケチつけてんじゃねぇよ!」
「は、はぁ? アンタ龍臣? ……チッ、なんの取り柄もない癖に」
彼女は掴まれた手を払いのけると、女子を連れて教室を出て行ってしまった。
「はぁ。久遠、大丈夫か? ごめんな、俺がこんなだから。……って、おーい。聞いてるか?」
話しかけてきた相手が龍臣だということはわかる。声は彼のもので、私の恋人だと言っていた。しかし、髪はバッサリとショートカットにまで切っていて、耳元にはピアスが開いていた。さらに、衝撃的なのは左頬にガーゼを当てていることだ。
「その姿何? 私聞いてないんだけど」
「久遠が背中押してくれたから、できることをしようと思ってすぐ入れる美容室に入ったんだ」
龍臣はツーブロックを注文したが、美容師は流石にそこまで潔く切り込めなかったらしく、ボーイッシュなショートカットになったらしい。しかし、そんな暴挙を母親が許すことはなく、その結果平手打ちを食らったのだという。
「それでよかったの?」
「後悔はしていない。逆に婚約を無理やりさせられることもないんだから、ラッキーだった」
私の不要な配慮に龍臣はきっぱりと答えた。清々しく微笑む様子は男だった時よりも余裕が感じられる。私はその表情が男だった時よりも逞しく見え、心臓を掴まれたように息を飲んでしまった。
予報によると、午後からは雨が止むらしい。