地下の蟲蔵から、かすかに湿った空気が這い上がってくる。
間桐桜は自室の床に描いた召喚陣の前で、膝を折っていた。臓硯に命じられた通りの手順。令呪はすでに右手の甲に浮かんでいる。あとは詠唱だけだった。
触媒は、ない——はずだった。
左手首には、細い革紐のブレスレット。同級生が「エジプトのおみやげ」と言って渡してくれた、親指の爪ほどの黄褐色の小石がぶら下がっている。城壁の欠片だと聞いた。どこの城かは覚えていない。ただ、あの子が笑ってくれたから、ずっと着けていた。
詠唱が終わる。
魔力が陣を走り、光が膨れ上がり——そして、部屋の空気が変わった。
蟲蔵の湿気が、消えた。
代わりに、乾いた風の記憶のようなものが桜の頬を撫でた。砂と日干し煉瓦と、遠い香料の残り香。それは間桐の屋敷にあってはならない種類の空気だった。清潔で、乾いていて、あたたかい。
光が収まったとき、そこに立っていたのは——
長身の男だった。
鍛えられているが、過剰ではない肉体。纏っているのは鎖帷子と布を重ねた実戦の装い。兜はない。日に灼けた肌に、短く整えた黒い髭。四十の半ばか、それより少し若いか。目元にだけ深い皺があり、それは笑ったときにできた皺だと、桜はなぜか直感した。
瞳は暗い琥珀色。
その瞳が——桜を見た。
「——」
一瞬の沈黙。英霊は桜の顔を見て、右手の令呪を見て、それから部屋全体を見渡した。壁の染み、黴びた木枠、床下から微かに聞こえる蟲の羽音。
表情は変わらなかった。変わらなかったが——瞳の奥の温度が、ほんの僅かに下がったのを桜は感じた。
「サーヴァント、ライダー。召喚に応じた」
低く、落ち着いた声だった。アラビア語でも古い言語でもなく、聖杯の補正による日本語。だが抑揚のどこかに、砂漠の夜の静けさのようなものが混じっている。
「——あなたが、私のマスターか」
桜は小さく頷いた。声がうまく出なかった。
英霊は桜の前に片膝をつき——その動作で、ブレスレットの小石に気づいた。
指が、止まった。
「……これは」
革紐にぶら下がった、何の変哲もない黄褐色の石。男はそれを見つめ、ゆっくりと目を閉じた。そして、ごく短い呼気。笑みではなかった。ため息でもなかった。何か遠いものを確かめるような、静かな吐息。
「——カラク、か。あるいはアジュルンか」
桜には意味がわからなかった。ただ、英霊の声がほんの少しだけ柔らかくなったことだけはわかった。
「おみやげだって言われて……友達に」
「そうか」
男は石から手を離し、立ち上がった。それから再び部屋を見回した。今度は、先ほどより注意深く。壁、天井、床。床下。
蟲の羽音が、また少しだけ大きくなった。
「——マスター」
「は、はい」
「聞きたいことがある。だが、まずひとつだけ答えてくれ」
琥珀色の瞳が桜を捉える。詰問ではなかった。だが、曖昧な答えを許さない重さがあった。
「この屋敷を——おまえは好きか」
桜の喉が、詰まった。
答えなど、ない。好きなはずがない。だがそれを口にしたことは一度もなかったし、口にしていい場所だと思ったこともなかった。この屋敷では、不満は蟲蔵に落とされる理由になる。
沈黙が、三秒。五秒。
桜は目を伏せ、何も言わなかった。
英霊は頷いた。
「わかった」
その一語で、何かが決まった。桜にはそれが何なのかわからなかったが、英霊の声の質が変わったことだけはわかった。判断を保留していた人間が、保留を解いた声。
「支度はいらない。今夜、ここを出る」
「——え」
「必要なものは後から揃える。まずこの場所から離れる。おまえがここに置かれている経緯は、聖杯の知識と、この屋敷の匂いでおおよそわかる。正確なところは後で聞く」
桜は呆然と英霊を見上げた。
召喚されて、一分と経っていない。
「あの——おじいさまが」
「家長がいるのか」
「はい。この屋敷の……間桐臓硯という人が」
「地下か」
桜はびくりと肩を震わせた。なぜわかるのか、とは聞けなかった。蟲の音は、この屋敷に住む者なら聞き慣れたものだが——英霊はそれを、召喚された瞬間から聞いていたのだ。
「今夜は接触しない。交渉は陣地を確保してからだ」
言いながら、英霊は窓に歩み寄り、外を確認した。冬木の夜。住宅街の灯り。遠くに教会の十字架。
「……先輩にも、言えてないのに」
桜の声は、ほとんど独り言だった。
英霊は振り向かなかった。ただ、窓の外を見たまま言った。
「おまえが誰に何を言えていないかは、明日以降の話だ。今夜やるのは一つだけだ——おまえを、安全な場所に置く」
桜は立ち上がろうとして、膝が笑った。何年もこの屋敷に縛られてきた足は、「出ていい」という言葉を処理できずにいた。
英霊が手を差し伸べた。
大きな手だった。剣を握り、馬の手綱を握り、条約書に署名してきた手。桜の細い指が、おずおずとその掌に触れる。
乾いていて、あたたかかった。
「——行くぞ」
間桐桜は、十一年ぶりに間桐邸の玄関を自分の足で跨いだ。
背後で、蟲の羽音が遠ざかる。
英霊は振り返らなかった。桜も——振り返らなかった。
冬木の夜風が、二人の間を抜けていく。二月の風だった。冷たいが、地下の湿気よりはずっとましだった。
左手首のブレスレットが、小さく揺れた。
中東の城壁から剥がれ落ちた石くれが、八百年の時を越えて少女の手首に揺れている。それが縁だった。友達がくれたおみやげ。それだけのもの。
それだけのものが——王を呼んだ。