影が膨れ上がる部屋に、二つの足音が飛び込んだ。
ライダーが先だった。アーチャーが半歩遅れて続く。二人とも全力で走ってきた。ライダーの曲刀は抜かれ、アーチャーは双剣を投影している。
だが——部屋に踏み込んだライダーの足が止まった。
影の中に立つ髑髏の面。黒い外套。大剣。
ライダーは翁を見た。
翁はライダーを見た。
部屋の空気が凝固した。凛も桜も呼吸を忘れた。アーチャーの双剣を握る指が白くなった。
翁は——動かなかった。
顕現して、そこに立って、それだけだった。大剣は下ろされたまま。殺気はない。だが存在そのものが死の気配を放っている。動かないことが、かえって恐ろしかった。嵐の目のように、静けさの中心にいる。
ライダーの曲刀が、わずかに下がった。
「——また会ったな」
ライダーの声は低かった。震えてはいない。だが凛は聞き取った。その声の底にある響きを。
翁は答えなかった。
髑髏の面が、ほんの僅かに傾いた。それが応答だったのか、ただの動作だったのか、凛にはわからなかった。だがライダーには何かが伝わったらしい。琥珀色の瞳が、一瞬だけ細くなった。
「桜。遠坂。外に出ろ」
ライダーの声が切り替わった。王の声だった。
「ライダー、でも——」
「今すぐだ」
凛は桜の手を掴んだ。桜は子供を見た。眠っている子供の体から黒い影が伸び、翁の輪郭を形作っている。子供自身は意識がない。
「子供は——」
「触れるな。翁のマスターだ。今触れれば巻き込まれる」
理解は一瞬だった。問いは後だ。凛は桜を引いて部屋を出た。アーチャーが殿を務め、ライダーが最後に出た。翁は——追ってこなかった。
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拠点の外。夕暮れの光が四人を照らした。
凛は桜を自分の背後に押しやり、拠点の玄関を見た。中は暗い。翁の影が窓から見える。動いていない。子供の傍に立ったまま。
「来ない」
アーチャーが呟いた。
「来ないわね」
「翁の活動時間は夜の短時間だとライダーが言っていた。日没直後の今なら、まだ顕現の初動だ。マスターとの接続が回復したばかりで、即座に全力行動には——」
その声を、別の声が遮った。
拠点の中から。影の中から。だが翁の声ではなかった。
もっと古く、もっと湿った、蟲の羽音のような声。
「——聞こえるかね、アイユーブの王よ」
ライダーの目が鋭くなった。
臓硯だ。蟲の残滓が子供の体に紛れ込んでいたのか、あるいは翁の影そのものに寄生するように声だけを送り込んでいるのか。どちらにせよ、あの老人は生きていた。核を潰しきれていなかった。
「おぬしのせいで計画は台無しだ。桜を拉致され、拾った小娘に召喚させたアサシンは、おぬしの縁で歪みを持っていた」
「やっぱり、あの子はアンタが――」
凛が一歩前に出るのをアーチャーが制する。
「あのアサシンは儂の手に余る。が、今使い道を思いついたぞ」
「なんですって?」
「その童はワシの手の内にあった。ワシが捕らえ、ワシが保護し、ワシの屋敷に置いておった。つまり——ワシとその童は同盟関係にある」
凛の顔が強張った。
「ワシの同盟者のマスターだ。その家を、おぬしが襲撃した。屋敷を壊し、蟲蔵を焼き、ワシの身体を潰した。これは何だ? ライダー、サラーフッディーン。おぬしとハサンの間の停戦協定——不可侵の盟約を、おぬし自身が破ったのだ」
沈黙が落ちた。
凛の思考が凍りついた。こじつけだ。臓硯はあの子供を実験体として閉じ込めていただけだ。同盟などではない。だが——翁の停戦協定がどのような論理で動いているかを、凛は完全には把握していない。もし協定が「事実としての保護関係」を同盟と見なすなら——
翁の影が、揺れた。
部屋の中で、何かが動いた。
「遠坂——」
アーチャーが凛の前に立った。双剣を構え直す。
影が、拠点の玄関から流れ出した。
翁が——動いた。
アーチャーは見えなかった。見えたのは結果だけだった。
干将莫耶が砕けた。一昨日の衛宮邸と同じだった。双剣が同時に割れ、破片が宙に散り、その破片が地面に落ちるより早く——アーチャーの体が崩れた。
膝が折れ、横倒しになり、動かなくなった。
処断。
一太刀。問答なし。
「アーチャー——!」
凛が叫んだ。令呪が灼けるように熱い。契約はまだ繋がっている。生きている。だが動かない。庇護は——。
翁の大剣が、ライダーに向かった。
ライダーの曲刀が上がった。
鋼の悲鳴。
門前でセイバーの剣を鞘で受けたときとは、まるで違った。曲刀が大剣を受けた瞬間、ライダーの腕が軋んだ。足元の地面が陥没した。体が押し込まれ、膝が半分沈んだ。
だが——止めた。
翁の一撃を、ライダーは止めた。
剣戟が成立した。
大剣と曲刀が噛み合い、火花が散った。セイバーの剣は翁の体を通過して手応えがなかった。アーチャーの双剣は一合すら保たなかった。だがライダーの曲刀は——翁の刃を、受けている。
停戦の縁。
八百年前、城壁を挟んで対峙した二つの勢力。その縁が、刃と刃の間に介在している。翁の死はライダーに対しては「定着しきらない」。完全に無効化はできない。だが一太刀で終わらせることもできない。
翁の髑髏の面が、ライダーを見ていた。
ライダーの琥珀色の瞳が、翁を見ていた。
二秒。
三秒。
翁が——大剣を引いた。
ライダーも曲刀を下ろした。
翁はゆっくりと後退し、拠点の玄関に戻った。そして子供の傍に立ち——影の中に、溶けた。黒い外套の輪郭が薄れ、髑髏の面が闇に沈み、やがて何も残らなかった。
子供だけが、床に横たわっていた。眠ったまま。
---
凛はアーチャーに駆け寄った。
脈がある。呼吸がある。傷はない。一昨日の衛宮邸と同じだ。斬られ、死に、しかし生きている。庇護で留保されたのか——いや。
「ライダー。アーチャーの庇護は——」
「消費された。あとはない」
凛は歯を食いしばった。
「停戦は。協定は。どうなったの」
ライダーは曲刀を鞘に納め、目を閉じた。三秒の沈黙。そして目を開けた。
「裁定は下った」
「裁定?」
「翁は一太刀を振るい、引いた。完全な処断ではない。停戦が完全に崩壊したなら、翁は引かない。全員を殺すまで止まらない」
「じゃあ——」
「臓硯の告発は不成立だ」
ライダーの声は静かだったが、断定の重みがあった。
「あれはこじつけだ。臓硯は子供を保護していたのではない。捕獲し、拘束し、利用していた。保護と拘束は違う。同盟と監禁は違う。翁はそれを理解している。だから一太刀で止めた。だが——」
「だが?」
「告発がなされた以上、協定は揺らいだ。完全に崩壊はしていないが、万全でもない。庇護の力が半減している可能性がある」
凛は頭を抱えた。
「つまり——臓硯が翁の停戦協定に疑義を挟むことで、庇護の効力を弱めた。臓硯本人はその隙に逃げた。あの老人、最初からそれが狙いだったのね」
ライダーは答えなかった。だが沈黙が肯定だった。
凛は周囲を見回した。臓硯の気配はない。蟲の羽音もない。あの老人は声だけを残して消えた。核の最後の一つか二つが、冬木のどこかに潜んでいる。
「ライダー。子供をどうする」
「連れていく。俺の拠点に翁の影が出た以上、拠点は移す必要がある。だが子供は置いていけない」
凛は頷いた。
「衛宮くんの家に行きましょう。全員で話す必要があるわ」
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衛宮邸。夜。
士郎とセイバーが先に戻っていた。翁のマスターの捜索は今日も成果なし。しかし帰ってきた凛の表情を見て、士郎は箸を置いた。
「遠坂。何があった」
凛は居間の卓に座り、今日の出来事を最初から話した。
間桐邸の襲撃。臓硯の蟲蔵の殲滅。子供の発見。拠点に連れ帰ったこと。そして——子供が翁のマスターだったこと。
士郎の顔から血の気が引いた。
「あの子供が——翁の」
「そう。臓硯が捕獲してた。間桐邸の地下に閉じ込めて。令呪は背中にあった。蟲蔵の中じゃ確認できなかった」
「それで、翁が——」
「顕現した。子供の中から。アーチャーが斬られた。ライダーが受け止めた。臓硯がこじつけで停戦を揺さぶって逃げた。——全部、三分くらいの間の話よ」
セイバーが目を閉じた。
「ライダーは」
「無事。あの人だけが翁の剣を受け止められた。剣戟が成立した。たった一合だけど——それができること自体が異常よ」
ライダーは居間の隅に座っていた。壁を背にし、曲刀を膝の上に置いている。子供は別室で寝かせてある。桜がついている。
「子供をどうするかを決めなければならない」
ライダーが口を開いた。
「あの子供が翁のマスターである限り、翁は顕現し続ける。子供の傍に翁が出れば、周囲の人間が巻き込まれる。子供自身にも負担がかかる。制御できていない魔力で英霊を維持しているのだから、体が保たない」
凛が頷いた。
「選択肢は二つ。一つ、子供のマスター権限を消す。令呪を無効化して、聖杯からの供給を断つ。二つ、アサシンのクラスそのものを子供から切り離す。契約を強制解除して、翁を送還する。教会に保護を求めるって手もあるけど――」
ライダーが制止する。
「危険だな。アサシンが規格外すぎる。規格外のサーヴァントを預けるには、あの神父は怪しすぎる」
「凛、ニ案ならどちらが確実だ」
「どちらも、普通にやれば確実じゃない。令呪の無効化は監督役の権限だけど、言峰に頼る気はないでしょう。契約解除は令呪三画を使い切るか、外部から儀式的に切断するか。でも三画を使うのは、あの化け物に大量の魔力を注ぎ込むことになりかねない」
士郎が口を挟んだ。
「外部から切断って——できるのか」
「普通はできない。でも今の冬木には一つだけ、使える残滓がある」
凛は指を組んだ。
「柳洞寺のキャスター。翁に殺されたけど、あのキャスターは冬木の霊脈を大規模に転用する術式を組んでいた。神殿は残ってる。術式の痕跡も残ってるはず。どんなものかは詳しく調べる必要があるけど、前に一度見た時は、契約に関連するものに思えた。子供と翁の契約を外部から切断できる可能性がある」
「可能性」
「やったことがないから断言はできない。でもキャスターの残した術式をそのまま使うんじゃない。枠組みだけ借りて、中身はこっちで組み直す。切離しに特化した儀式。遠坂の宝石魔術とライダーの——」
凛はライダーを見た。
「ライダー。あんたの宝具か、スキルか、何でもいい。停戦や協定に関わる力があるなら、それを切離しの触媒に使える」
ライダーは少し考えた。
「条約の締結と履行。それは俺の在り方そのものだ。契約の切断は締結の逆だが——理屈は同じだ。結ぶことができるなら、解くこともできる」
「なら、いけると思う。柳洞寺で、キャスターの術式跡を使って、ライダーの力を触媒に、子供と翁の契約を切る。切離しが成功すれば翁は座に還る。子供は普通の子供に戻る」
セイバーが目を開けた。
「凛。一つ懸念があります」
「言って」
「切離しの儀式の最中に、翁が顕現したら?」
沈黙が落ちた。
切離しは翁のマスターである子供に対する干渉だ。翁がそれを黙って見ているとは限らない。むしろ自分の現界を脅かす行為として、排除に動く可能性が高い。
「その問題がある」凛は認めた。「だから全員で行く必要がある。切離しの儀式は私とライダーで執行する。護衛はセイバーとアーチャー。士郎は子供の傍で令呪の安定化を補助。全員が柳洞寺に入る」
「遠坂、翁を止められるのか?セイバーの剣は通じなかったし、アーチャーは一撃で崩された」
「止める必要はない。時間を稼げばいい。儀式が完了するまでの数分。それだけ保てば——」
「私が受ける」
ライダーが言った。
「協定により、翁の剣を受け止められるのは私だけだ。儀式の執行は遠坂に任せる。俺は護衛に回る」
「でもライダーの力が触媒に——」
「儀式の起動に私の力を注ぎ込んでから、護衛に回る。順序の問題だ」
凛はライダーを見つめた。
「……わかった。明日、柳洞寺に行く。全員で」
士郎が頷いた。セイバーが頷いた。アーチャーは霊体のまま、沈黙で同意を示した。
ライダーは立ち上がった。
「子供の様子を見てくる。桜が一人で看ている」
居間を出ていくライダーの背中を、四人が見送った。
夜の衛宮邸に、静けさが戻る。
明日、柳洞寺。キャスターの残骸を使って、翁を切り離す。成功すれば、夜の恐怖が消える。失敗すれば——考えたくなかった。
士郎は天井を見上げた。
桜のこと。子供のこと。翁のこと。臓硯のこと。考えなければならないことが多すぎて、頭が追いつかない。だが一つだけ、はっきりしていることがある。
明日、全員で生きて帰る。
それだけは——譲れない。
「桜、子どもの様子はどうだ」
「眠ってます」
そう言って、桜は翁のマスターの髪を撫でる。
「この子、地下にいたんですよね」
「…ああ」
それから、桜は何も言わず、小さいその子の頬にそっと触れた。
次回は翌日18時投稿です