柳洞寺の石段を、子供は自分の足で登った。
登った、というのは正確ではない。桜が手を引き、士郎がもう片方の手を支え、三人でゆっくりと、一段ずつ登った。子供は痩せた足を震わせながら、それでも歩いた。名前はまだ聞けていない。間桐邸の地下から出してから、子供が口をきいたのは三度だけだった。「寒い」と「おなか空いた」と「帰りたい」。帰りたい、の「帰る場所」がどこなのかは、誰も聞けなかった。
服は凛のお下がりを着せた。赤いコートに黒のスカート、リボンをつけたポニーテールを揺らす。こうして見ると女の子だ。臓硯に囚われていた女の子。桜の心臓が、一瞬掴まれたようになった。
石段の途中で子供が立ち止まった。
「——こわい」
桜が膝をついた。
「大丈夫。大丈夫だよ。おねえちゃんたちがいるから」
子供は桜の顔を見上げた。信じていいのかわからないという目。桜はその目を知っていた。鏡の中で何度も見た目だった。
「ぜったい?」
「うん。絶対」
桜は嘘をつかなかった。絶対という言葉が嘘になる可能性を知っていて、それでも言った。この子の前では、それが正しいと思った。
石段を登りきると、柳洞寺の境内が開けた。
キャスターが斃れてから数日。寺は無人だった。住職も僧侶も、翁の残り香にあてられて入院してしまった。残っているのは建物と、そして——キャスターが組み上げた大規模術式の残骸だった。
本堂の床。畳を剥がすと、その下に魔術回路が刻まれていた。冬木の霊脈を直接吸い上げる術式陣。大半は機能を失っているが、回路そのものは残っている。配管が壊れても管は残る。その管に、別の水を流す。
凛は術式陣の前にしゃがみ込み、指で線を辿った。
「使える。回路の七割は生きてる。足りない部分は宝石で補う。ライダー、ここに——」
「わかっている」
ライダーが本堂に入った。術式陣の中央に立ち、曲刀を鞘から抜いた。刃を下に向け、切っ先を床に触れさせる。目を閉じた。
曲刀から、何かが滲み出した。
魔力ではない。もっと抽象的なもの。概念、と凛は思った。条約の締結。協定の履行。約束を結び、約束を守り、約束を解く力。サラディンという英霊の在り方そのものが、曲刀を通じて術式陣に注ぎ込まれていく。
キャスターの残骸が——脈動した。死んでいた回路に光が走り、床の文様が青白く浮かび上がる。
「——起動確認。ライダー、そのまま。私が回路を書き換える。二十分かかる」
「二十分は長いな」
「短くする方法があるなら聞きたいわ」
ライダーは口を閉じ、曲刀に意識を集中した。
士郎が子供を本堂の隅に座らせた。桜がその隣に座る。子供は桜の袖を掴んで離さなかった。
セイバーが本堂の入り口に立った。不可視の剣を構え、境内を睨む。翁の剣が通じないことは、もう二度証明されている。それでもセイバーはここに立つ。翁が来たとき、最初の一撃を受ける壁になるために。
アーチャーは実体化できずにいた。昨日の処断の傷が残っている。霊体のまま、本堂の外で境内全体の監視に回っている。
凛が術式陣の書き換えに取りかかった。宝石を一つずつ回路の結節点に配置し、詠唱で接続を繋ぎ直していく。キャスターの術式は他者の契約に干渉するもの。それを切離しに特化させる。結ぶのではなく、解く。サーヴァントとマスターの紐帯を、外側から断ち切る。
五分が経った。
石段の下から、足音が聞こえた。
セイバーの構えが鋭くなった。だが——足音は一人分で、サーヴァントのものではなかった。人間の足音。革靴の、規則正しい足音。
言峰綺礼が、石段を登ってきた。
黒い神父服。胸の十字架。切れ長の目に、薄い笑み。両手には何も持っていない。
「——やあ。盛況だな」
セイバーの殺気が膨れ上がった。
「言峰」
「そう構えるな、セイバー。今日は商談に来た」
凛が術式陣から顔を上げた。
「言峰神父。何の用」
「聞こえていなかったか。商談だ。遠坂凛」
言峰は本堂に足を踏み入れた。術式陣の光を一瞥し、子供を一瞥し、ライダーを一瞥した。ライダーは目を閉じたまま動かなかったが、曲刀を握る手がわずかに強くなった。
言峰は懐から——令呪の刻まれた腕を出した。
いや、腕ではない。保存処理された皮膚の一片。その上に、令呪が三画刻まれている。
「監督役の予備令呪だ。先代から引き継いだ在庫がある。切離しの儀式に使えるだろう」
凛の目が細くなった。
「なぜ」
「なぜ、とは」
「なぜあんたがそれを持ってくるの。何が目的」
「目的は単純だ。切離しの成功率を上げたい」
「あんたが?」
言峰は薄く笑った。
「当然だ。規格外のサーヴァントは此方の手落ち。であれば、このくらいのボーナスは支払ってしかるべきだろう」
「どうだか」
「加えて、令呪によって強化されたサーヴァントが必要だ。考えてみろ、遠坂。切離しが成功する。翁はマスターから解放される。だが——その後はどうなる」
凛の手が止まった。
「単独顕現した翁が、おとなしく還ると思うか」
沈黙が落ちた。
凛は考えていなかった——いや、考えていたが、後回しにしていた。切離しが成功すれば翁は消える。マスターの供給がなければ現界を維持できないはずだ。だが翁はアサシンの枠を超えた存在だ。単独行動スキルが通常のサーヴァントとは比較にならないかもしれない。マスターを失っても、短時間なら自律顕現する可能性がある。ライダーに任せるつもりでいたが、正直不安は大きい。
その短時間に——翁が暴走したら。
「切離し直後の空白時間。翁が制御を失い、最寄りの生者を斬る可能性がある。この本堂にいる全員が危険に晒される」
言峰の声は淡々としていた。
「ゆえに、令呪による儀式の成功と守護の強化、これを提案する」
「一つ答えて」
「なにかな?」
「あなたはなんで今日まで生きてるの?翁に襲われなかったわけ?」
「理由は教えない」
凛の眉が跳ね上がった。
「そんなやつを信じろと?」
「信じる必要はない。利害の一致だけで十分だろう。翁は私にとっても障害だ。この戦争を動かすために、翁を退場させる必要がある。おまえたちと同じだ」
凛は言峰を睨んだ。この男の言葉を信じたことは一度もない。だが利害が一致しているという分析は正しかった。翁が暴れれば監督役という形式も崩壊する。翁の退場は言峰にとっても最優先事項だ。
ライダーが目を開けた。
「遠坂。令呪は使え。成功率が上がるなら、出処を問うている余裕はない」
「ライダー——」
「あの男の思惑は後で考えろ。今は子供が優先だ」
凛は歯を食いしばった。そして——令呪の皮片を受け取った。
「使うわ。でもエセ神父、あんたの貸しにはしない」
「好きにしろ」
言峰は本堂の柱にもたれかかった。観戦するつもりらしい。凛はそれを無視し、術式陣に戻った。予備令呪を回路の中核に組み込む。切離しの精度が格段に上がった。マスターとサーヴァントの紐帯を断つ刃が、より鋭くなった。
「——書き換え完了。儀式に入る」
凛の声が本堂に響いた。
ライダーが曲刀に最後の力を注ぎ込み、術式陣から離れた。回路は自律稼働を始めている。あとは凛の詠唱で起動し、子供の令呪に干渉し、契約を断つ。
ライダーは曲刀を構え直し、セイバーの隣に立った。本堂の入り口。二騎が並んで、境内を見据える。
「ライダー」
「何だ」
「共に」
セイバーはそれだけ言った。ライダーは頷いた。言葉はいらなかった。
凛が詠唱を始めた。
宝石が一つずつ砕け、魔力が回路を走る。青白い光が本堂を満たし、子供の背中の令呪が反応して脈動を始めた。子供が怯えた声を上げた。桜が抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だから——」
「いたい——」
「すぐ終わるから。おねえちゃんがいるから」
士郎が子供の手を握った。小さな手が、士郎の指を握り返した。必死に。爪が食い込むほどに。
五分。
十分。
光が強くなっていく。令呪の紋様が子供の背中で明滅する。三画のうち一画が薄れ始めた。切離しが進行している。だが遅い。子供の体が契約を手放すのを拒んでいるのか、あるいは翁の側が抵抗しているのか。
凛の額に汗が浮いた。
「もう少し——あと少し——」
本堂の外。日が傾いていた。
冬の日没は早い。午後四時を過ぎた頃から、山の影が境内を覆い始めた。石段の向こうに見える冬木の街が、橙色から灰色に変わっていく。
セイバーの握りが強くなった。
ライダーの目が、境内の影を追った。
「来る」
ライダーが言った。
セイバーも感じていた。気配ではない。気配はない。だが影が——境内の影が、不自然に濃くなっている。石灯籠の影、松の影、本堂の庇の影。それらが繋がり、溶け合い、一つの大きな暗がりになっていく。
アーチャーの声が念話で飛んだ。
「——来るぞ。石段の下。いや——上だ。どこからでもない。影そのものから——」
本堂の中で、子供が叫んだ。
言葉ではなかった。喉の奥から絞り出された悲鳴。子供の背中から黒い影が噴き出し、天井に触れ、壁を這い、床を覆った。桜が子供を抱きしめたまま身を縮めた。士郎が二人を覆うように被さった。
影の中心に——面が浮かんだ。
髑髏。
翁が、子供の中から顕現した。
大剣が振り下ろされた。
本堂の入り口を越え、術式陣に向かって。凛に向かって。儀式を止めるために。
鋼の悲鳴。
ライダーの曲刀が、大剣を受けた。
衝撃が本堂の柱を震わせた。屋根瓦が数枚落ちた。ライダーの足が床板を踏み抜き、膝まで沈んだ。だが——止めた。
「遠坂! 止めるな!」
「止めてない——!」
凛の詠唱は途切れていなかった。声が震えているが、言葉は正確だった。宝石が砕け続け、光が走り続けている。
翁の大剣が引かれ、二撃目が来た。横薙ぎ。サラディンが曲刀で逸らした。完全には逸らしきれず、鎖帷子の肩口が裂けた。血が散った。
セイバーが斬りかかった。不可視の剣が翁の背を薙いだ。手応えはなかった。剣は通過した。だが翁の動きが一瞬だけ鈍った。意味のある一瞬だった。ライダーがその隙に体勢を立て直した。
三撃目。上段から。
ライダーが受けた。曲刀が軋んだ。刀身に亀裂が走るかと思われたが、保った。
四撃目。
五撃目。
六撃目。
一合ごとに、ライダーの足元の床板が砕けていく。本堂の構造が悲鳴を上げている。だがライダーは退かなかった。一歩も退かなかった。凛の背中を守る位置から、一歩も。
セイバーは翁の側面から斬撃を繰り返した。通じない。通じないが、翁の意識を分散させることはできた。ほんの僅かだけ、ライダーへの圧力が減る。その僅かが、ライダーに呼吸を許した。
七撃目の後——翁の大剣が、止まった。
止まったのは、一秒にも満たない。だがその一秒の中で、翁の髑髏の面がサラディンを正面から見た。
ライダーの琥珀色の瞳が、翁を見返した。
二人の間で——七度の剣戟を交わした後で——翁が、口を開いた。
翁が声を発するのを、凛は初めて聞いた。あの夜の「アイユーブの王か」は意識の底に直接刻まれたものだった。だが今の声は、空気を震わせて鳴っていた。低く、重く、底のない声。
**「——問おう、アイユーブの王よ」**
ライダーの曲刀が下がった。翁が問いを発している間は、斬らない。そういう確信があった。
**「汝は何ゆえに剣を執る」**
ライダーは血を流していた。肩口の傷から、鎖帷子の隙間から。呼吸は荒く、腕は震えている。翁の七撃を受け止めた代償は小さくなかった。
だが——声は、揺らがなかった。
「民のためだ」
短かった。だが翁は待っていた。続きがあることを知っているかのように。
「私は王として召し出された。王の務めは民を守ることだ。この街の民も。あの子供も。マスターも。同盟者も。私の剣が届く範囲にいる全ての者を——秩序の内に置く。秩序がなければ民は死ぬ。秩序を立てるために、私は剣を執る」
ライダーは曲刀を持ち直した。
「かつておまえの末裔と城壁を挟んで対峙したとき、私はそうした。今もそうしている。変わらない。八百年経っても——変わっていない」
翁の髑髏の面は動かなかった。
沈黙が、五秒。
十秒。
翁の大剣が——下がった。
**「——よかろう」**
それだけだった。
翁はライダーから目を外し、術式陣を見た。凛を見た。凛は詠唱を止めていなかった。涙が頬を伝っていたが、声は止まっていなかった。宝石の最後の一つが砕けた。
光が、弾けた。
子供の背中の令呪が——消えた。焼けるように白く光り、そして消えた。跡形もなく。子供の体から黒い影が引いていく。潮が引くように、影が薄れ、縮み、消えていく。
子供が桜の腕の中で、ふっと力を抜いた。眠るように。呼吸が穏やかになった。令呪の負荷から解放された体が、ようやく休息を得たように。
翁は本堂の中央に立っていた。
マスターとの紐帯が断たれた。現界の基盤が消えた。翁の輪郭が揺らぎ始めている。黒い外套の端が、霧のように薄れていく。
だが——翁は消えなかった。
揺らぎながら、まだそこに立っていた。単独行動。マスターを失っても、短時間なら自律顕現する。言峰の警告は正しかった。
セイバーが剣を構え直した。ライダーが曲刀を上げた。
翁は——二人を見なかった。
髑髏の面が、北を向いた。冬木の街の方角。山門の向こう、石段の下、夜に沈みつつある街。その中の、どこか一点を見ているようだった。
そして——消えた。
風のように、ではなかった。影が影に還るように。最初からそこにいなかったかのように。面が消え、外套が消え、大剣が消え、最後に——殺気でも敵意でもない、あの底のない静けさだけが一瞬残って、それも消えた。
本堂に沈黙が満ちた。
凛が床に座り込んだ。膝が震えている。
「成功、した……?」
士郎が子供の背中を確認した。令呪はない。完全に消えている。子供は桜の腕の中で穏やかに眠っている。
「——成功だ。令呪が消えてる。この子はもう、マスターじゃない」
セイバーが剣を下ろした。
「翁は——どこへ」
全員がライダーを見た。
ライダーは曲刀を鞘に納めた。肩口の血はまだ止まっていない。だが表情は穏やかだった。疲弊しているが、穏やかだった。
「臓硯のところだろう」
凛が息を呑んだ。
「翁は矜持を問うた。私が答えた。翁は納得した。つまり——私の統治を認めた。私の秩序の中にいる者を斬ることは、翁の本義ではないと」
ライダーは山門の向こう、夜の冬木を見た。
「だが翁は死を司る者だ。顕現している以上、斬るべきものを斬る。私たちは斬るべきものではなくなった。では、斬るべきものは何だ」
凛は理解した。
秩序を腐らせる者。城壁の中に巣食う蟲。停戦を弄び、子供を玩具にし、盟約を穢した寄生者。
「臓硯……」
「翁が消える前に、やり残しを片づけに行った。翁にとって臓硯は——私が言うまでもなく、斬るべきものだったのだろう」
言峰が柱から背を離した。
「成程。監督役として確認しよう。アサシンのマスターは失われ、アサシンは単独行動中。間もなく消滅するだろうが——その前に、間桐臓硯を処断すると」
「そう読んでいる」
「ならば——今夜で翁の問題は終わるな」
言峰は薄く笑い、石段を降りていった。背中が闇に消えるまで、誰も声をかけなかった。
本堂に残された六人と一人の子供。
桜が子供の髪を撫でている。子供は眠っている。もう影は出ない。もう令呪はない。ただの子供だ。痩せた、疲れ切った、ただの子供。
凛は立ち上がり、足を引きずるようにライダーの隣に立った。
「ライダー。肩、手当てさせて」
「後でいい」
「後じゃなくて今。あんた血が止まってない」
ライダーは凛を見下ろした。そして——ほんの少しだけ、笑った。目尻の皺が深くなる、あの笑い方。
「……すまない。頼む」
凛は救急道具を取り出し、鎖帷子の隙間から肩口の傷を手当てし始めた。
冬木の夜空に、星が出ていた。
翁はもう、この街の夜にはいない。