桜「中東のライダー?」   作:ヤシの木の里

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翌朝、凛は自室の机の前で手帳を開き、聖杯戦争の経過を整理した。

 

セイバー、健在。ランサー、恐らく健在。アーチャー、負傷あるが現界中。ライダー、健在。バーサーカー、翁の攻撃を受けたと聞いたけど恐らく健在。キャスター、脱落。アサシン、切離し後に単独行動で消滅と推定。

 

五騎。

 

凛はペンを置いた。

 

翁が現れてからの日々を思い返した。初日の恐怖。ライダーとの同盟。臓硯の襲撃。子供の保護。停戦崩壊未遂。柳洞寺での切離し。一つ一つが命懸けで、一つ一つが世界のかたちを変えるほどの密度を持っていた。

 

だが——聖杯戦争として見れば。

 

脱落したのはキャスターとアサシンだけだ。

 

七騎中二騎。しかもどちらも翁関係。同盟側の戦果ではない。サラディンも凛も士郎もセイバーも、この数日間で聖杯に一歩も近づいていない。臓硯を潰し、子供を救い、翁を切り離し——やったことの全てが「聖杯戦争を戦う」ではなく「聖杯戦争の前提を整える」だった。そのうえ、アサシンの脱落は"推定"であって、本当に消滅したのかは確認できていない。

 

戦争はまだ、始まってすらいなかったのだ。

 

凛はペンを手帳の上に落とし、椅子の背にもたれた。天井を見上げた。

 

疲れていた。

 

体ではない。一度死んで蘇り、臓硯の屋敷を破壊し、柳洞寺で徹夜の儀式をやった体はもちろん疲れている。だがそれとは別の、もっと深い場所が軋んでいた。緊張の糸がほどけたのだ。翁という規格外の恐怖が消えて、初めて——自分がどれほど張り詰めていたかがわかった。

 

肩の力が抜けた。抜けたら、もう入らなかった。

 

「……学校、行こ」

 

凛は制服に袖を通した。

 

---

 

穂群原学園。

 

凛と士郎が並んで校門をくぐるのは、二週間弱ぶりだった。

 

そして——桜も、いた。

 

校門の前で立っていた。制服を着て、鞄を持って、少しだけ所在なさそうに。サラディンの拠点から直接登校したのだろう。髪は丁寧に梳かされている。目の下の隈は相変わらずだったが、頬にほんの僅かだけ血色が戻っていた。

 

「——先輩。姉さ…遠坂先輩。おはようございます」

 

士郎の足が止まった。

 

「桜」

 

「あの。ライダーが、学校は行ったほうがいいって。日常を維持するのは安全保障の一環だって」

 

「あの人らしいな……」

 

「それで——久しぶりに」

 

桜は鞄の持ち手を両手で握って、うつむいた。うつむいて、それから顔を上げた。

 

「来ました」

 

士郎は何か言おうとした。言葉がうまく出てこなかった。代わりに、ただ頷いた。大きく。

 

「おはよう、桜」

 

「おはようございます、先輩」

 

三人は校門をくぐった。凛が少し後ろを歩いた。士郎と桜が並ぶ姿を見ながら、凛は唇の端を僅かに持ち上げた。笑みとは言えない。だがしかめ面でもなかった。

 

「桜」

 

凛が桜を振り返る。

 

「先輩じゃなくて…姉、さんで、いいわ」

 

ぎこちなくなってしまった。

 

「はい…姉さん」

 

教室は平和だった。

 

驚くほど平和だった。クラスメートが笑い、教師が怒り、チャイムが鳴る。冬木の夜に英霊が殺し合っているなど、誰も知らない。それだけの光景。

 

凛は窓の外を見た。

 

冬の空。雲は薄く、日差しがある。セイバーが近くで待機しているはずだ。アーチャーは校舎の裏手。ライダーは——学校の周辺のどこかにいるだろう。桜の行動範囲に結界の網を張り、常に探知圏内に置いている。あの男のことだ。登校初日の今日は、より念入りに配置しているに違いない。

 

守られている、と凛は思った。

 

同盟者に。サーヴァントに。この街を統治しようとしている異国の王に。その守りの中で、自分は教室の椅子に座って数学の授業を受けている。

 

不思議な心地だった。肩の力が抜けきって、もう何も持ち上げられない。それなのに——不安ではなかった。

 

昼休み。

 

凛は弁当を食べながら、士郎に言った。

 

「ねえ、衛宮くん」

 

「何だ」

 

「翁がいなくなって——同盟の意味、考えた?」

 

士郎の箸が止まった。

 

「……同盟の意味」

 

「翁という共通の脅威がなくなった。臓硯も翁が処断した。同盟を結んだ二つの理由が、両方とも消えたのよ」

 

士郎は弁当の卵焼きを見つめた。

 

「同盟がなくなれば、ライダーは——」

 

「敵よ。サーヴァント同士は最終的に全員敵。セイバーとライダーも、アーチャーとライダーも。残ってるのはセイバー、アーチャー、ライダー、ランサー、バーサーカーの五騎。聖杯を取るなら、最後の一騎になるまで戦わなきゃいけない」

 

士郎は箸を置いた。

 

「遠坂。俺は——」

 

「知ってる。言わなくていい」

 

凛は卵焼きの最後の一切れを口に入れた。

 

「私もよ。あの人と戦いたくない。桜のサーヴァントと戦うなんて馬鹿げてる。でも——聖杯戦争のルール上は、いずれそうなる」

 

「いずれ、か」

 

「いずれ。でも今日じゃない。明日でもない。しばらくは——問題ない」

 

凛の声が少しだけ柔らかくなった。しばらくは問題ない。その言葉を自分に許すのが、こんなに楽だとは思わなかった。

 

---

 

午後の授業が終わり、桜は裏庭に出た。

 

穂群原学園の裏庭は、校舎と体育館に挟まれた細長い空間で、花壇と古いベンチが並んでいる。冬の花壇には何も咲いていない。土だけが、冷たく湿っている。

 

桜はベンチに座った。

 

鞄を膝の上に置き、空を見上げた。雲が薄い。日差しがある。間桐の屋敷の地下には空がなかった。ライダーの拠点には窓があった。窓から空が見えた。それだけで、桜は泣きそうになったことがある。

 

「——ライダー」

 

小声で呼んだ。

 

空気が微かに揺れた。ライダーは霊体のまま、桜の隣に気配を置いた。実体化はしない。学校の中で中世の武人が現れたら騒ぎになる。

 

だが声は聞こえた。

 

「何だ」

 

桜の耳元で。低く、落ち着いた声。

 

「あの子——名前、言ってくれたんです。今朝」

 

「そうだな」

 

「ユウキって。結城優希って」

 

「良い名だ」

 

「泣いてました。でもパンは食べてくれました。ライダーが焼いたパン」

 

「焦げた部分を避けていたようだが」

 

桜がくすりと笑った。小さな、息に近い笑い。

 

「ライダー」

 

「ああ」

 

「聖杯に——何を望みますか」

 

風が吹いた。花壇の枯れ枝が揺れた。

 

沈黙が、五秒。

 

「何も」

 

桜は驚かなかった。驚かなかった自分に、少し驚いた。

 

「何も、ですか」

 

「何もだ。私には聖杯に懸けるべき願いがない」

 

「でも——英霊は願いがあるから召喚に応じるんだって、姉さんが」

 

「多くはそうだろう。生前に果たせなかったこと、手の届かなかったもの。それを万能の杯に託す。だが俺は——」

 

ライダーの声が、少しだけ遠くなった。

 

「俺の生涯に、悔いがないとは言わない。失った者はいる。果たせなかった約束もある。だが、それを覆すために万能の力を借りる気はない。果たせなかったものは果たせなかった。失ったものは失った。それを受け入れた上で生き、受け入れた上で死んだ。その死を否定する願いは——俺の矜持に反する」

 

桜は膝の上の鞄を抱えた。

 

「じゃあ——願いがないなら、何のために」

 

「あえて言うなら——この戦争を終わらせること。聖杯と名づけられたものの否定」

 

桜の目が見開かれた。

 

「聖杯の——否定?」

 

「そもそも、ただ人が作ったものを聖なる物と呼ぶなど、私の信心に反する。そして、遠坂との条文化の中で、聖杯の構造はおおよそ掴んだ。あれは杯ではない。人の願いを叶える器ではない。そう名づけられた異物だ。異物を巡って七騎の英霊と七人の人間が殺し合う。民が巻き込まれ、街が壊れる。それを百年ごとに繰り返す」

 

ライダーの声が、静かに硬くなった。

 

「私が王として許容できるものではない」

 

桜は黙っていた。黙って、風の音を聞いていた。

 

「ライダー」

 

「ああ」

 

「願いがないのに——どうして来てくれたんですか。どうして召喚に応じたんですか」

 

長い沈黙。花壇の枯れ枝が、もう一度揺れた。

 

「……小石だ」

 

「え?」

 

「おまえの手首の石。あれはカラクか、アジュルンか——俺が建て、私が守った城の壁の一部だ。八百年の間に崩れ、砕け、誰かが拾い、巡り巡って——おまえの友人の手に渡り、おまえの手首にたどり着いた。それが縁だ」

 

桜は左手首を見た。革紐のブレスレット。黄褐色の小石。あの同級生がエジプトのおみやげだと言って笑ってくれた石。

 

「でも——石だけなら、ただの触媒です。触媒があっても、召喚者の意思がなければ英霊は応じないって」

 

「そうだ」

 

ライダーの声が、柔らかくなった。茶を淹れるときの声。クッキーの焼き加減を確認するときの声。

 

「おまえは召喚の詠唱のとき、何を考えていた」

 

桜は記憶を辿った。あの夜。間桐邸の自室。臓硯に命じられるまま召喚陣を描き、詠唱を始めた。何を考えていたか。何も考えていなかった——いや。

 

何も考えていなかったのではない。

 

考えないようにしていたのだ。蟲蔵のことを。明日のことを。先輩のことを。姉のことを。全部蓋をして、心を空にして、ただ詠唱の言葉だけを唇に乗せた。

 

でも——蓋の下で、何かが叫んでいた。

 

安心したい。

 

それだけだった。大きな願いではない。聖杯にかけるほどの大望ではない。ただ、怖くない場所にいたい。痛くない場所にいたい。夜が来ても震えなくていい場所に。

 

それは願いと呼ぶにはあまりに小さくて、あまりに切実だった。

 

「——安心したかった、です。たぶん」

 

「そうだ」

 

ライダーの声は、ただ静かだった。

 

「破壊のさなかに安心を求めた。おまえのその声が——私に届いた。城壁の石と、おまえの声と。その二つが重なって、私はここにいる」

 

桜の目から、涙がこぼれた。

 

声もなく、音もなく。ただ涙だけが頬を伝い、膝の上の鞄に落ちた。

 

「おまえが安心できる場所を作る。それが私の仕事だ。聖杯が要るか要らないかは、その後の話だ」

 

桜は泣きながら、小さく頷いた。

 

裏庭に風が吹いた。二月の風。冷たいが、地下の湿気よりはずっとましだった。そして今の桜には——その風が、もう痛くなかった。

 

左手首の小石が、夕日に照らされて、ほんの少しだけ光った。




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