教会の地下。
冬木教会の礼拝堂の、さらに下。言峰綺礼だけが知る隠し部屋。もとは聖遺物の保管庫だったものを、言峰が個人的に改装した空間だった。石壁、石床、換気口が一つ。そこに——黄金の残骸が横たわっていた。
ギルガメッシュは長椅子に仰向けに寝ていた。
黄金の鎧はない。白い上衣の下から、包帯が覗いている。首、胸、左腕、右脇腹。包帯というより、体の大半が布に巻かれていた。肌は蝋のように白く、赤い瞳だけが天井の闇を見つめている。
言峰が階段を降りてきた。手にはワインの瓶と杯が二つ。
「様子はどうだ」
「つまらんことを聞くな、綺礼」
ギルガメッシュの声は平坦だった。怒りも苛立ちもない。事実を述べているだけの声。だがその声量は、かつて言峰が知っていたものの半分もなかった。
言峰は長椅子の傍に椅子を引き、腰を下ろした。ワインを注ぎ、一つをギルガメッシュの手が届く場所に置いた。ギルガメッシュは杯を見たが、手を伸ばさなかった。
「傷は」
「治るものなら、とうに治っている」
ギルガメッシュの右手が、わずかに動いた。空間に裂け目が開き——王の財宝の一端が覗く。だがすぐに閉じた。維持する力がないのだ。
「翁とやらの一撃は厄介だ。傷を刻んだのではない。死を刻まれた。肉体の損傷なら我が宝物庫の薬でどうとでもなる。だが刻まれたのは概念だ。『おまえはここで死んだ』という事実が、この体に書き込まれている」
「ゴッドハンドの件と同じか」
「アインツベルンの人形の話か。似ているだろうな。あの大英雄は死んで蘇った。我は死なずに耐えた。だが『死んだ』という概念は同じように定着している。蘇生の宝具で肉体を保ち、防衛の宝具で追撃を防いだ。それでしまいだ」
言峰はワインを一口飲んだ。
「翁が消えた今、防衛に回していた力を回復に向けているわけだが」
「向けている。が——」
ギルガメッシュが天井を見つめた。赤い瞳に、苛立ちとも諦観ともつかないものが浮かんだ。
「何も変わらん。宝物庫の万薬も、不老の霊草も、この傷には効かん。治るべきものが治らんのではない。治るものなど最初からないかのようにふるまう。あの翁は——死の概念そのものだ。概念を薬で治す道理がない」
沈黙が落ちた。
石壁に、ワインの注がれる音だけが反響した。言峰が自分の杯を満たし直している。
「で、綺礼」
ギルガメッシュの声が切り替わった。傷の話はもういい、と言外に告げる声。
「退屈だ」
「現状を整理しよう。残存サーヴァントは五騎。セイバー、アーチャー、ライダーが同盟。ランサーが我々。バーサーカーがアインツベルン。おまえはこの状態だ。正面戦闘は不可能。つまり——」
「撤退は必至だな」
「同盟は強固だ。ライダーが核になっている。あの男は翁の剣を七度受けて生き残った。セイバーとアーチャーは駒としては及第点。遠坂凛は魔術師として優秀で、衛宮士郎は——まあ、あの男にはあの男の厄介さがある」
「雑種の話はいい。同盟をどうする」
「同盟が解消されるのは、外敵が消えた後だ。翁はいなくなった。臓硯も消えた。残る外敵はバーサーカーとランサー——つまり、我々だ。同盟はバーサーカーと我々を斃してから解消される。その順番を、変える」
「ほう」
言峰は杯を置いた。
「亀裂を入れる」
ギルガメッシュの赤い瞳が、初めて言峰を見た。
「同盟の内側に。ライダーとセイバーの間に。あるいは遠坂と衛宮の間に。信頼で結ばれた同盟ほど、内側から崩れたときの瓦解は激しい」
「手段は」
「いくつかある。だが最も効果的なのは——聖杯そのものだ。聖杯の本質を同盟に突きつける。あの器が何であるかを。全員が知ったとき、願いの方向が割れる。割れれば亀裂になる」
「綺礼、今日はやけに喋るな」
「…」
ギルガメッシュは天井を見つめたまま、薄く笑った。笑うと唇の端が裂け、血が滲んだ。だが拭わなかった。
「まぁいい。やれ、綺礼。我はここで寝ているしかないのだからな。退屈しのぎに期待する」
言峰は立ち上がった。
「退屈だけはさせないと約束しよう。それが私の役目だ」
言峰は階段を上がり、礼拝堂を抜け、教会の正門を出た。
門の脇の石壁にもたれて、ランサーが欠伸をしていた。
「終わったか、神父。あのボロボロの王様は何だって?」
「次の手を出す。そろそろおまえにも働いてもらう」
「ようやくか。ここんとこずっと暇でしょうがなかった。翁がいなくなって夜も出歩けるようになったしな」
「そうだ。夜が戻った。我々にも——そして、全員に」
言峰は冬木の夜に歩き出した。ランサーが槍を肩に担ぎ、その後に続く。二つの影が教会の門を離れ、街灯の光と闇の境界に消えた。
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教会の地下に、静寂が戻った。
ギルガメッシュは長椅子に横たわったまま、動かなかった。天井の石組みを見つめている。右手の指先が、微かに動いた。
空間に、小さな裂け目が開いた。王の財宝。先ほどは維持すらできなかったそれが——今は、一つだけ。細い管の先から、黄金に輝く小箱が滑り出た。
掌に収まる大きさ。装飾は古い。シュメールの文様が刻まれている。宝物庫の中でも最古の区画に分類される品だった。
ギルガメッシュは小箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは——鏡のような板。だが鏡ではない。板の表面に映っているのは自分の顔ではなく、冬木の街の夕暮れだった。
遠見の宝具。
遠隔で視覚と声を飛ばす。それだけの道具。戦闘には使えない。だが——この体で出向けない以上、これしか手がない。
ギルガメッシュの指が板の表面を撫でた。映像が動く。冬木の街並み。学校。住宅街。商店街。
映像が止まった。
夕暮れの住宅街の路地。紫の髪の少女が歩いている。鞄を持ち、制服を着て、帰り道を歩いている。一人に見える。だがギルガメッシュの目は見抜いていた。少女の傍に霊体化した気配がある。鎖帷子と砂の匂い。
ライダー。サラディン。
「——面を見せよ、騎の英霊」
ギルガメッシュは声を飛ばした。
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桜の体が、突然宙に浮いた。
浮いた——のではない。ライダーが実体化し、桜を片腕で抱えて横に跳んだのだ。路地の中央から、壁際へ。着地と同時にライダーが桜を背後にかばい、曲刀の柄に手をかけた。
「ライダー——!?」
桜が声を上げた。
ライダーは前方を見据えていた。路地の五メートルほど先の空中に、金色の光点が浮かんでいた。直径三十センチほどの円盤状の光。その表面に——顔が映っていた。
白い肌。赤い瞳。金の髪。
包帯に覆われた頬。裂けた唇。だが瞳だけが、傷の奥から爛々と光っている。
ライダーの目が細くなった。
「……何者か」
「我の名を知らんとは愚かよな、ライダー。いや——サラディンよ。我は英雄王ギルガメッシュ、名を呼ぶことすら不遜と知れ」
ギルガメッシュの声が、円盤から響いた。かすれている。だが傲岸さは損なわれていない。声量が半分になっても、この男の声は王の声だった。
「私の真名を」
「翁が叫んだのだろう。アイユーブの王と。あの程度の情報で特定できぬほど、我は愚かではない」
サラディンは曲刀を抜かなかった。遠隔通信だ。斬る相手がここにいない。
「何の用だ」
「用か。そうだな——暇つぶしだ。この体では寝ているしかない。ならば、敵の顔くらい見ておこうと思った」
「遠見でか。王みずからの偵察とは随分と暇らしい」
「暇だとも。おまえのせいだ。おまえと翁のせいで、我はこの有様だ」
ギルガメッシュの視線が——円盤越しに——ライダーの背後の桜に向いた。桜がびくりと肩を震わせた。
「マスターか。小娘だな。誰の許しを得て頭を上げている」
桜は思わず頭を下げた。
「そんなことはしなくていい、桜」
「その小娘のために、おまえはこの戦争で同盟を組み、城を建て、翁の剣を受けたと」
ライダーが一歩横に動き、桜を完全に視線から遮った。
「用件があるなら言え。なければ消えろ」
「せっかちだな。中東の王はもう少し気長だと聞いたが」
「客人には茶を出す。だが覗き見をする者は客人ではない」
ギルガメッシュが笑った。かすれた、短い笑い。唇が裂けて血が滲んだのが円盤越しに見えた。
「——問おう、サラディン。おまえは何をしたい」
「したいことなら決まっている。マスターを守り、民を守り、この戦争を終わらせる」
「それは手段だ。我が聞いているのは目的だ。聖杯に何を望む。王として何を成したい。おまえの欲は何だ」
ライダーは沈黙した。
三秒。五秒。
「ない」
ギルガメッシュの赤い瞳が、僅かに揺れた。
「聖杯に望むものはない。私は聖杯を否定する側だ。あの器は人の願いを叶えるものではない。人を殺し合わせるための装置だ。私はそれを止めるために剣を執っている」
「止める? 杯を壊すと?」
「壊すなり封じるなり、最善の方法を選ぶ。だが杯に願いを懸ける気はない」
ギルガメッシュは黙った。
円盤の中で、赤い瞳がライダーを見つめていた。傷だらけの顔の中で、瞳だけが完全に生きていた。
「——欲のない王か」
ギルガメッシュの声が低くなった。
「翁がおまえの矜持を問い、おまえは民のためと答えた。それはよい。王が民を語るのは当然だ。だが——おまえ自身は何も欲さんのか。サラディン。おまえという男は、何も求めず、何も掴まず、ただ民のために在ると」
「そうだ」
「つまりおまえは——空の器だ」
ライダーの目が、僅かに動いた。
「民を守る器。秩序を注がれる器。中身はない。おまえ自身の欲望は、おまえ自身の渇望は、どこにもない。おまえが死んだとき国庫が空だったと聞くが——国庫だけではなかったのだな。おまえ自身が、空だった」
風が吹いた。路地を冬の風が抜けた。
ライダーは答えなかった。答えなかったが、否定もしなかった。
ギルガメッシュは長い間、円盤越しにライダーを見ていた。傷だらけの英雄王と、傷の少ない統治の王。この戦争で一度も直接対峙していない二人の王が、遠見の宝具越しに、互いの瞳の奥を見た。
やがて。
ギルガメッシュが目を閉じた。
**「——つまらん」**
その一語だけだった。
円盤の光が収束した。金色の点が小さくなり、薄れ、消えた。路地に夕暮れの光だけが残った。
ライダーは立ったまま、円盤のあった空間を見つめていた。
「——ライダー」
桜の声が、背後から聞こえた。
「大丈夫ですか」
ライダーは振り返った。桜を見た。その目に——凛が見たことのないものが、一瞬だけ浮かんだ。凛も士郎もセイバーも知らない、サラディンの奥底にある何か。
だがそれは一瞬で消えた。
「大丈夫だ。帰ろう」
ライダーは桜の隣を歩き始めた。霊体化はしなかった。桜も何も言わなかった。二人は並んで、夕暮れの住宅街を歩いた。
左手首の小石が、最後の日差しを受けて揺れていた。