翁が消え、臓硯が消え、冬木に束の間の凪が訪れた。
戦争は止まっていない。だが動いてもいない。五騎のサーヴァントが互いの出方を窺い、誰も最初の一手を打たない膠着状態。凛は「嵐の前の静けさ」と呼んだが、静けさの中にも日常はある。
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朝。
衛宮邸の庭で、セイバーが素振りをしていた。不可視の剣を振るい、足を運び、型を繰り返す。翁に二度斬られた体の確認ではない。もうその段階は過ぎた。ただの鍛錬だ。王であった頃から変わらない、夜明けの鍛錬。
庭の門が開いた。
ライダーが立っていた。カジュアルな服——タートルネックにジャケット——だが、腰には曲刀を佩いている。ジャケットの裾で隠しているが、セイバーの目は騙せなかった。
「朝が早いな、セイバー」
「あなたも」
「桜に朝食の材料を届けに来た。卵が切れたと昨夜連絡があった」
セイバーは剣を止めた。ライダーの手にはスーパーのビニール袋。卵、牛乳、食パン、バター。
「——あなたは、毎朝こうして買い物を?」
「兵站は王の務めだ」
「兵站」
「食料の確保、輸送、配分。軍でも家庭でも本質は同じだ」
セイバーは剣を下ろした。不可視の風が解け、朝の空気が庭に戻った。
「少し——聞いてもよいですか」
「何だ」
「あなたは王であった頃、剣を振りましたか。朝、このように」
ライダーはビニール袋を門柱に掛け、庭に足を踏み入れた。
「振った。毎朝。若い頃はそれしか取り柄がなかった」
「今は?」
「今は剣より書類のほうが多い。だが体は覚えている」
ライダーは曲刀を抜いた。ジャケットの裾から滑り出す鋼。朝日を受けて、刃が一筋光った。
セイバーの目が変わった。
「——一手、お相手願えますか」
「本気でか」
「本気では互いに困ります。型の確認程度に」
ライダーは口元を緩めた。
「承った」
二人は庭の中央で向かい合った。セイバーの不可視の剣と、ライダーの曲刀。
一合。
軽い。門前の夜とは違う。殺意のない剣戟。型を見せ合うだけの、しかし確かに王と王の剣。セイバーの直線的な踏み込みに対し、ライダーは半身で受け流し、曲刀の弧で返す。セイバーが下がり、ライダーが追わない。
二合、三合。
金属の澄んだ音が朝の住宅街に響いた。どこかで犬が吠えた。
五合で、二人は同時に止まった。
「——良い剣だ」
「あなたも。曲刀の受け流しは、正面から受けるより遥かに技術が要る」
「砂漠の戦は正面からぶつかれば馬ごと倒れる。いなして、回して、横を突く。そういう剣だ」
セイバーは剣を納めた。ライダーも曲刀を鞘に収めた。
「セイバー」
「はい」
「おまえの剣は——真っ直ぐだな。迷いがない」
「迷いはあります。ただ、剣を振るときだけは忘れられる」
「それでいい。剣は考えるためのものではない。考えた結果を載せるものだ」
セイバーは小さく頷いた。
「しかしあなたの剣は…」
「力が無い、そうだろう?」
「はい、意外なほどに」
「私は、力ある武人ではない。若いときはそれに悩みもしたが、致し方ない。もちろん前線では剣を力の限り振るうが、私が主に得意とするのは、受け流し、操り、収めること。それを目指した」
「そうですか」
「ゆえに、おまえと本気で打ち合えば、きっと私は勝てんだろう」
「…」
サラディンはビニール袋を回収し、門を出ていった。背中越しに声が飛んだ。
「卵焼きは甘い派か、塩派か」
「甘い派です」
「桜と同じだな」
セイバーは——ほんの少しだけ、笑った。
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昼。
商店街。
凛に頼まれた買い出しの途中で、アーチャーはライダーと鉢合わせた。二人とも私服。アーチャーは黒のタートルネックに赤いジャケット。ライダーはいつものダークグレーにカーキ。手にはそれぞれ買い物袋を提げている。
「……おまえも買い出しか」
「桜の拠点の日用品が足りない。洗剤と、タオルと、子供用の歯ブラシ」
「子供用」
「優希の分だ。あの子はまだうちにいる」
アーチャーは買い物袋の中を見た。洗剤、タオル、子供用歯ブラシ、それからレシピ本がもう一冊。
「……また本を増やすのか」
「前の本は菓子に特化していた。今度は汁物を学びたい」
「汁物」
「味噌汁というものを桜に教わった。出汁の取り方が奥深い。昆布と鰹節の配合で味が変わる」
アーチャーは歩き出した。ライダーが並んだ。二人の長身が商店街を歩く。周囲の通行人が微妙に道を空けた。無意識に。二人ともが纏っている圧が、一般人の感覚に触れるのだろう。
ライダーは八百屋の前で足を止めた。大根を一本手に取り、重さを確かめた。
大根をビニール袋に入れ、財布から小銭を出した。聖杯が日本円の使い方まで補正しているのか、と思うとアーチャーは少しだけ眩暈がした。
「鍋は——」
「買っておこう。鍋なら人数が増えても対応できる。兵站の基本だ」
アーチャーは長葱を手に取った。無意識だった。大根に合わせるなら葱だと、台所に立つ者の反射が動いた。
二人は並んで野菜を選んだ。ライダーが根菜を、アーチャーが葉物を。言葉はなかった。だが選び方に無駄がなかった。互いの買い物袋の中身を一瞥して、重複を避け、足りないものを補った。
会計を済ませて商店街を出るとき、アーチャーが言った。
「おまえと台所で戦ったら、いい勝負になるかもしれんな」
「剣より包丁のほうが得意なのか、弓兵」
「家事は年季が違う。何しろ長い」
意味深な言い方だった。ライダーは追及しなかった。
「今度、味噌汁を見てくれ。出汁の塩梅がまだ掴めん」
「……いいだろう。だが昆布は水からだ。沸騰させるな」
「承知した」
二人は交差点で別れた。ライダーは南へ、アーチャーは北へ。
アーチャーは歩きながら、自分の手の中のビニール袋を見下ろした。長葱、白菜、豆腐。鍋の材料だ。頼まれてもいないのに、鍋の材料を揃えていた。
「——毒気を抜かれるな、あの男には」
誰にも聞こえない声で呟き、アーチャーは衛宮邸への道を歩いた。
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午後。
ライダーの拠点。
士郎は桜に会いに来ていた。桜は優希と一緒に折り紙をしていた。優希はまだ口数が少ないが、桜が鶴を折って見せると目を丸くして、自分でも折ろうとした。指がうまく動かず、角がずれた。桜が手を添えて直した。
士郎はその光景を居間の入り口から見ていた。
ライダーが隣に立った。
「……桜は、強いな」
士郎が呟いた。
「強い」ライダーは頷いた。「あの子は自分がされたことを知っている。知った上で、同じ目に遭った子供の手を取れる。それは強さだ」
「俺には——できなかった。桜があの屋敷にいるのを知ってて、何もしなかった」
「知っていたのか」
「知ってた、というのは正確じゃない。気づいてた。桜が笑うとき、いつもどこか薄い膜があるみたいだった。でも——聞けなかった。聞いて、もし本当に何かあったら、俺はどうすればいいかわからなかったから」
ライダーは黙って聞いていた。
「あんたは——召喚されて一分で連れ出した。俺が何年もかけてできなかったことを」
「比べるな」
ライダーの声は穏やかだったが、有無を言わさぬ重さがあった。
「私はサーヴァントだ。人間の社会のしがらみがない。間桐の家も遠坂の家も、私にとっては関係のない枠だ。枠の外にいる者が枠を壊すのは簡単だ。だが枠の中にいる者が枠を壊すのは——命がけだ。おまえがそれをできなかったことを、俺は責めない」
「でも——」
「おまえに必要だったのは勇気ではない。情報と、手段と、受け皿だ。桜を連れ出しても、行く場所がなければ連れ出せない。養える力がなければ守れない。おまえはまだ子供だ。子供が一人で全部をやろうとするな」
士郎は言葉に詰まった。
ライダーは居間に目を戻した。桜が折り鶴を優希の掌に乗せている。優希がそれをじっと見つめている。
「今のおまえにできることをやれ。桜の隣にいろ。あの子の折り紙がうまくいかなかったら手を貸してやれ。それだけで十分だ」
「……それだけで、いいのか」
「それだけが、一番難しい」
士郎は居間に入った。桜の隣に座り、折り紙を一枚取った。
「桜。俺にも教えてくれ」
「先輩、折り紙できましたっけ」
「鶴くらいは——たぶん」
「たぶん……」
士郎の折った鶴は、首が曲がり、翼がへしゃげていた。優希が見て、くすっと笑った。小さな、ほんの微かな笑い。桜が目を見開いた。この子が笑ったのは、保護してから初めてだった。
「先輩。もう一回折ってもらえますか」
「……鶴じゃなくて兜にしようか」
「兜!」
優希の目が光った。
ライダーは台所でレシピ本を開き、味噌汁の出汁を取り始めた。昆布は水から。沸騰させない。アーチャーの助言を律儀に守りながら、居間の笑い声を聞いていた。
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おやつ時。
衛宮邸の縁側。
凛は条文の草案を広げていた。同盟の条文は翁の切離しまでが第一段階。第二段階——この先の戦略をどうするか。バーサーカーとランサーをどう処理するか。そして最終的に、同盟をどう解消するか。
ライダーが隣に座った。茶を二つ持って。凛の分には砂糖なし。自分の分には砂糖二杯。
「甘党は変わらないのね」
「茶が甘くて何が悪い」
「悪くないわよ。ただ——あんたの国の茶は全部あんなに甘いの?」
「甘い。砂糖ではなく蜂蜜を入れることもある。ミントを加える地方もある」
「へえ。おいしそうね、ミント」
「試すか。ミントなら庭に生えていないか」
「衛宮くんの庭にミントを植えたら最後、庭全部ミントになるわよ。あれは侵略的な植物なの」
「侵略的か。扱いに気をつけよう」
凛は草案に目を落とした。
「ライダー。一つ、真面目な話」
「ああ」
「この同盟、いつまで保つと思う?」
ライダーは茶を啜った。
「おまえはどう考える」
「バーサーカーとランサーを排除するまでは保つ。その後——聖杯が起動段階に入ったとき、方針が割れる可能性がある。あんたは聖杯を否定する。衛宮くんもたぶんそっちに寄る。セイバーは……わからない。アーチャーも」
「おまえは」
凛は茶を見つめた。
「私は——遠坂の当主として、聖杯を求める立場にいる。遠坂の悲願は聖杯の完成。二百年の家業よ。それを捨てるのは簡単じゃない」
「捨てろとは言わない」
「でもあんたは否定する側でしょう」
「そうだ。だが——おまえの立場を無視して否定を押しつける気はない。遠坂の家の歴史も、おまえの矜持も、重さがある。俺が王として片づけていい問題ではない」
凛はライダーを横目で見た。
この男はいつもこうだ。相手の立場を尊重し、自分の正義を押しつけない。それが美徳であることは凛も認める。だが——いずれ、二人の方針は衝突する。聖杯を否定するか、完成させるか。その分岐点が来たとき、この穏やかな茶の時間は終わる。
「……その話は、また今度にしましょう。今日は疲れてるの」
「ああ。今日は休め」
ライダーは茶を飲み干し、立ち上がった。
「明日の朝食は俺が作る。味噌汁を練習した。セイバーの分も多めに炊いておく」
「あんた本当に兵站が好きね」
「兵站を笑う者は戦に負ける」
「笑ってないわよ。感心してるの」
ライダーは門に向かった。途中で振り返った。
「遠坂」
「何」
「おまえは良い当主だ。二百年の家業を背負って、それでも自分の目で判断しようとしている。それは——簡単なことではない」
凛は答えなかった。答えなかったが——縁側に座ったまま、しばらく動けなかった。
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夕暮れ。
冬木教会。
ライダーが来たのは、言峰にとって予想外だった。
正門を叩く音がして、言峰が戸を開けると、ライダーが立っていた。戦装束ではない。いつものジャケット姿。手には——紙袋。
「監督役。少し話がある」
「……入れ」
礼拝堂の長椅子に向かい合って座った。ライダーは紙袋からティーポットと茶葉の缶を取り出した。
「何をしている」
「茶を出す」
「ここは教会だ」
「教会であっても客人に茶を出す礼儀は変わるまい」
言峰は黙った。ライダーは礼拝堂の隅にある給湯設備を見つけ——あるのか、と言峰は思った——湯を沸かし、手慣れた動きで茶を淹れた。カップは二つ。言峰の分には砂糖なし。
「私の好みを知っているのか」
「推測だ。甘いものを好む顔ではない」
言峰はカップを受け取った。口はつけなかった。
「で、話とは」
「子供のことだ。優希という名の。あの子の身元を調べたい。監督役として情報を持っているか」
「聖杯戦争の参加者の個人情報を、対戦相手に渡す道理はない」
「あの子はもう参加者ではない。令呪は消えた。マスターの資格を失った一般市民の保護は、監督役の管轄だろう」
言峰は指を組んだ。
この男は——面倒だ。
論理が通っている。穴がない。感情論でもない。監督役としての職務規定を正確に把握した上で、正当な要求をしてきている。拒否する理由を作りにくい。
「調べる。だが時間はかかる」
「構わない。急がせるつもりはない」
言峰は茶を一口飲んだ。不本意ながら、旨かった。
「もう一つ」
「何だ」
「柳洞寺での切離しの際、あなたは予備令呪を提供した。あの場での協力には感謝する。だが——あなたの意図がまだ見えない。翁が消えた今、あなたにとって我々は排除すべき対戦相手のはずだ」
「…どういうことかね」
「とぼける必要はない、ランサーのマスターよ。それに、地下にはもっとトンデモナイ奴もいるだろう。」
ライダーが紅茶を一口すする。
「なぜそれを、いや、何が聞きたい?」
「にもかかわらず、こうして会話に応じている。なぜだ?」
言峰はカップを置いた。
この男は——本当に面倒だ。
裏がない。少なくとも、裏を感じさせない。凛のように食ってかかるわけでもなく、士郎のように感情で動くわけでもない。穏やかに、論理的に、一つずつ確認してくる。そして確認した事実を積み上げて、こちらの矛盾を浮き彫りにする。
悪意がないのが最も厄介だった。悪意があれば対処できる。策略があれば読める。だがこの男には——本当に、ただの善意と職務意識しかないように見える。
「答える義務はない」
「ないな。だが聞かなければ進まない」
「私の意図は単純だ。この戦争を最も有利な形で終わらせたい。そのために必要な協力はするし、不要になれば手を引く。今はまだ——有利な形が見えていない。だから動かない」
「正直だな」
「嘘かもしれんぞ」
「そうだな。私は嘘を見抜くのが得意なわけではない。ただ、嘘をつかない相手との会話に慣れている。あなたの言葉は——嘘ではないが、全部でもない」
言峰は苦い顔をした。
この男との会話は、泥の上を歩くようなものだ。足を取られるわけではないが、一歩ごとに足跡が残る。隠しようがない。言峰が二十年かけて磨いた虚飾の技術が、この男の前では意味をなさない。嘘を見抜かれるのではない。嘘をつく動機そのものを、穏やかな目で見透かされる。
「……茶は旨かった。礼を言う」
「客人に茶を出したのだから礼には及ばない。では」
ライダーは立ち上がり、ティーポットと缶を紙袋にしまった。律儀に礼拝堂を出て、正門で一礼して去った。
言峰は一人残された礼拝堂で、空になったカップを見つめた。
「…………」
ランサーが柱の陰から顔を出した。
「帰ったか、あの王様」
「ああ」
「何しに来たんだ?」
「子供の身元調査の依頼と——茶を淹れに来た」
「茶」
「茶だ」
ランサーは首を傾げた。
「お前さん、珍しく顔が渋いな」
「あの男は——扱いづらい」
「強いからか?」
「…」
言峰は立ち上がり、祭壇に向かった。十字架を見上げた。
善い人間。裏がない人間。嘘をつかず、見返りを求めず、敵にすら茶を出す人間。計略と善意が一体化した人間。最も——。
最も、何だ。
言峰は思考を断ち切った。
「ランサー。明日から動く」
「おう。ようやくか」
「ああ。——あの男がいる間に、長引かせるわけにはいかない」
ランサーは槍を肩に担いだ。
教会の夜は静かだった。ライダーの淹れた茶の香りだけが、礼拝堂に残っていた。
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夜。
ライダーの拠点。雑居ビルの三階。
ライダーが教会から戻ったのは八時を過ぎた頃だった。買い物袋を提げて。大根、長葱、鶏もも肉、豆腐、白菜。それから小さな箱——プリン。三個入り。
「ただいま」
「おかえりなさい」
桜が卓を拭いていた。優希はクッションの上に座って、折り紙の兜をかぶっていた。士郎が作ったあの兜。ずっとかぶっている。
「今日は鍋にする。三人で作ろう」
「鍋」
「アーチャーに教わった。昆布は水から、沸騰させるな、と」
桜は小さく笑った。アーチャーに料理を教わるライダー。不思議な構図だ。
三人で台所に立った。
台所は狭い。雑居ビルの一室の流し台だ。大人一人でいっぱいになる。ライダーが立つと、それだけでほとんどの空間が埋まる。
「桜、白菜を頼む。優希は——豆腐を切れるか」
優希がライダーを見上げた。無言。だが——首を小さく、縦に振った。
ライダーが包丁を渡しかけて——止めた。子供に包丁は危ない。代わりにバターナイフを渡した。豆腐をパックから出し、まな板に置いた。
「これで切ってみなさい。好きな大きさでいい」
優希はバターナイフを握った。白い豆腐に刃を入れた。ぐにゃりと崩れた。形がいびつになった。優希の手が止まった。失敗した、という顔。体が少し強張った。
「そのまま続けろ。鍋に入れれば同じだ」
ライダーの声が軽かった。
優希は——もう一度、ナイフを動かした。ぐにゃぐにゃに切れた豆腐が、まな板の上に並んだ。不格好だった。でもサラディンは何も言わなかった。桜も何も言わなかった。
白菜を切った。葱を刻んだ。鶏肉は桜がそぎ切りにした。ライダーが鍋に昆布と水を入れ、火にかけた。沸騰させない。ぎりぎりのところで昆布を引き上げた。
具材を入れた。白菜、葱、鶏肉、豆腐。ぐにゃぐにゃの豆腐も全部。蓋をして、煮えるのを待った。
台所に湯気が立ち上った。鶏の出汁と昆布の出汁が混ざる匂い。冬の夜に、温かい匂い。
「できた」
蓋を開けた。白い湯気。具材がぐつぐつ煮えている。ぐにゃぐにゃの豆腐は——煮えたら、他の豆腐と区別がつかなくなっていた。
三人で卓を囲んだ。
ライダーが取り皿によそった。桜の分、優希の分、自分の分。ポン酢は買い忘れた。代わりに醤油を少しと、レモン。サラディンの流儀。
「いただきます」
桜が手を合わせた。ライダーも同じ動きをした。聖杯の知識で覚えた所作。優希は二人を見て、少し遅れて——小さな手を合わせた。
食べた。
温かかった。白菜が柔らかい。鶏肉に火が通っている。豆腐が——崩れた形のまま、舌の上で溶けた。
優希が二杯目をよそった。
桜は目を瞬いた。この子が自分からおかわりを求めたのは、初めてだった。保護してからずっと、出された分だけを食べていた。多すぎても少なすぎても、何も言わなかった。
二杯目の鍋を、優希は黙って食べた。
食後、ライダーがプリンを出した。三個入り。一つずつ。
優希はプリンの蓋を自分で開けた。スプーンで一口。目が——ほんの僅かに、大きくなった。甘い。プリンの甘さ。カラメルの苦み。
食べ終わった皿を三人で洗った。ライダーが洗い、桜がすすぎ、優希が——タオルで拭こうとした。皿が手から滑って、ラグの上に落ちた。割れなかった。ラグが受け止めた。
サラディンは何も言わなかった。皿を拾い上げ、優希にもう一度渡した。優希は両手で皿を握り、慎重に、タオルで拭いた。
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夜が更けた。
優希は布団の中で眠っていた。ライダーが用意した子供用の布団。クッションを枕にして、毛布をかけて。折り紙の兜は枕元に置いてある。
桜は優希の隣に座っていた。自分の布団に入らずに。
優希の寝顔を見ていた。
小さな顔。薄い瞼。閉じた目。呼吸は穏やかで、体の力は抜けている。眠っている。安全な場所で、温かい布団の中で。鍋を食べて、プリンを食べて、皿を拭いて、眠った。
普通の夜だった。普通の子供の、普通の夜。
桜がそれを見ていたとき——優希の頬を、涙が伝った。
音はなかった。声もなかった。寝息も変わらなかった。ただ——閉じた瞼の隙間から、涙が一筋、流れた。頬を横切り、枕に染みた。
もう一筋。
もう一筋。
優希は眠ったまま、泣いていた。
表情は変わらない。眉も動かない。口も開かない。ただ涙だけが、止まらずに流れている。
桜は——手を伸ばした。
優希の体を、そっと抱き上げた。布団ごと。小さな体だった。軽かった。こんなに軽かったのか。骨と皮ばかりだ。食べているのに、まだこんなに軽い。
桜の胸に、優希の頭がもたれた。涙が桜のパジャマに染みた。温かい涙。
優希は目を覚まさなかった。泣いているのに、目を覚まさない。
我慢している、と桜は思った。
この子は——眠っていても、我慢している。
声を上げない。泣き声を出さない。体を揺らさない。起きているときと同じだ。あの蟲蔵で学んだのだろう。声を上げれば何が起こるかわからない。泣けば蟲が増える。叫べばもっとひどいことが起きる。だから——体が覚えている。眠っていても、声を出してはいけないと。
桜は優希を抱きしめた。
本当は叫びたかったはずだ。
暗い地下室で。蟲に覆われて。何がどうなっているかもわからない幼い頭で。叫びたかったはず。声を上げて、誰かを呼びたかったはず。
助けてと言いたかったはず。
誰かに。誰でもいいから。お母さんでも、お父さんでも、知らない人でも。助けて、ここから出して、怖い、痛い、やめて——そう叫びたかったはず。
抱きしめてほしかったはず。
誰かの腕の中で。温かい場所で。大丈夫だよ、もう怖くないよ、と言ってもらいたかったはず。
全部——我慢した。
この子は全部我慢して、声を殺して、涙を殺して、体を固くして、蟲蔵を生き延びた。
桜にはわかった。わかってしまった。
桜は優希の頭を撫でた。小さな頭。短い髪。指の下で、涙に濡れた頬が温かい。
「大丈夫だよ」
声が出た。小さな声。優希には聞こえていないだろう。眠っているから。でも——言えた。
「もう大丈夫だから」
ライダーは壁際に座っていた。曲刀を膝に置き、目を閉じて。いつもの夜の見張りの姿勢。だが——目は薄く開いていた。桜と優希を見ていた。
優希の涙が、少しずつ減っていった。桜に抱かれて、体温が伝わって、呼吸が深くなって。涙の筋が途切れ途切れになり、やがて止まった。
眠っている。まだ泣いた跡が頬に光っている。でも——止まった。
ライダーが、低い声で言った。
「泣けている」
桜が振り返った。
「起きているときは泣けない。声も出さない。感情を止めている。だが——眠ったとき、体が泣く。それは、意志では止められない何かが、まだあの子の中に残っているということだ」
ライダーの目が優希の寝顔を見ていた。
「泣くことを体が覚えている。悲しみを感じる回路が、まだ壊れていない。壊されかけたが——壊れきってはいない」
桜はサラディンを見た。
「希望はある」
ライダーの声は静かだった。
「泣けるうちは。体が覚えているうちは。その子は——戻ってこられる」
桜は優希を見下ろした。
小さな寝顔。涙の跡。折り紙の兜が枕元にある。ぐにゃぐにゃに切った豆腐を食べた子。プリンの蓋を自分で開けた子。皿を拭こうとして落とした子。
泣けている。体が覚えている。壊れきっていない。
桜は優希を抱いたまま、自分も横になった。布団の上に。優希の小さな体を胸に抱えて。
モクモクさんが——見えた。暗闇の中に。薄紫の小さな塊。いつもの場所に。
モクモクさんは泣いていなかった。泣く代わりに——優希のほうを見ていた。小さなもこもこした体で、優希の寝顔を見つめていた。
お揃いだね、と桜は思った。
声には出さなかった。出さなくてよかった。モクモクさんはわかっている。桜もわかっている。
この子はまだ泣ける。だから——大丈夫。
桜は目を閉じた。
ライダーは壁際で曲刀を膝に置いたまま、二つの寝息を聞いていた。
大きな寝息と、小さな寝息。桜と優希。壊されかけた少女と、壊されかけた子供。
二人とも、泣けている。
それだけで——今夜は、十分だった。
次回は翌日18時投稿です