桜「中東のライダー?」   作:ヤシの木の里

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休日

翁が消え、臓硯が消え、冬木に束の間の凪が訪れた。

 

戦争は止まっていない。だが動いてもいない。五騎のサーヴァントが互いの出方を窺い、誰も最初の一手を打たない膠着状態。凛は「嵐の前の静けさ」と呼んだが、静けさの中にも日常はある。

 

---

 

朝。

 

衛宮邸の庭で、セイバーが素振りをしていた。不可視の剣を振るい、足を運び、型を繰り返す。翁に二度斬られた体の確認ではない。もうその段階は過ぎた。ただの鍛錬だ。王であった頃から変わらない、夜明けの鍛錬。

 

庭の門が開いた。

 

ライダーが立っていた。カジュアルな服——タートルネックにジャケット——だが、腰には曲刀を佩いている。ジャケットの裾で隠しているが、セイバーの目は騙せなかった。

 

「朝が早いな、セイバー」

 

「あなたも」

 

「桜に朝食の材料を届けに来た。卵が切れたと昨夜連絡があった」

 

セイバーは剣を止めた。ライダーの手にはスーパーのビニール袋。卵、牛乳、食パン、バター。

 

「——あなたは、毎朝こうして買い物を?」

 

「兵站は王の務めだ」

 

「兵站」

 

「食料の確保、輸送、配分。軍でも家庭でも本質は同じだ」

 

セイバーは剣を下ろした。不可視の風が解け、朝の空気が庭に戻った。

 

「少し——聞いてもよいですか」

 

「何だ」

 

「あなたは王であった頃、剣を振りましたか。朝、このように」

 

ライダーはビニール袋を門柱に掛け、庭に足を踏み入れた。

 

「振った。毎朝。若い頃はそれしか取り柄がなかった」

 

「今は?」

 

「今は剣より書類のほうが多い。だが体は覚えている」

 

ライダーは曲刀を抜いた。ジャケットの裾から滑り出す鋼。朝日を受けて、刃が一筋光った。

 

セイバーの目が変わった。

 

「——一手、お相手願えますか」

 

「本気でか」

 

「本気では互いに困ります。型の確認程度に」

 

ライダーは口元を緩めた。

 

「承った」

 

二人は庭の中央で向かい合った。セイバーの不可視の剣と、ライダーの曲刀。

 

一合。

 

軽い。門前の夜とは違う。殺意のない剣戟。型を見せ合うだけの、しかし確かに王と王の剣。セイバーの直線的な踏み込みに対し、ライダーは半身で受け流し、曲刀の弧で返す。セイバーが下がり、ライダーが追わない。

 

二合、三合。

 

金属の澄んだ音が朝の住宅街に響いた。どこかで犬が吠えた。

 

五合で、二人は同時に止まった。

 

「——良い剣だ」

 

「あなたも。曲刀の受け流しは、正面から受けるより遥かに技術が要る」

 

「砂漠の戦は正面からぶつかれば馬ごと倒れる。いなして、回して、横を突く。そういう剣だ」

 

セイバーは剣を納めた。ライダーも曲刀を鞘に収めた。

 

「セイバー」

 

「はい」

 

「おまえの剣は——真っ直ぐだな。迷いがない」

 

「迷いはあります。ただ、剣を振るときだけは忘れられる」

 

「それでいい。剣は考えるためのものではない。考えた結果を載せるものだ」

 

セイバーは小さく頷いた。

 

「しかしあなたの剣は…」

 

「力が無い、そうだろう?」

 

「はい、意外なほどに」

 

「私は、力ある武人ではない。若いときはそれに悩みもしたが、致し方ない。もちろん前線では剣を力の限り振るうが、私が主に得意とするのは、受け流し、操り、収めること。それを目指した」

 

「そうですか」

 

「ゆえに、おまえと本気で打ち合えば、きっと私は勝てんだろう」

 

「…」

 

サラディンはビニール袋を回収し、門を出ていった。背中越しに声が飛んだ。

 

「卵焼きは甘い派か、塩派か」

 

「甘い派です」

 

「桜と同じだな」

 

セイバーは——ほんの少しだけ、笑った。

 

---

 

昼。

 

商店街。

 

凛に頼まれた買い出しの途中で、アーチャーはライダーと鉢合わせた。二人とも私服。アーチャーは黒のタートルネックに赤いジャケット。ライダーはいつものダークグレーにカーキ。手にはそれぞれ買い物袋を提げている。

 

「……おまえも買い出しか」

 

「桜の拠点の日用品が足りない。洗剤と、タオルと、子供用の歯ブラシ」

 

「子供用」

 

「優希の分だ。あの子はまだうちにいる」

 

アーチャーは買い物袋の中を見た。洗剤、タオル、子供用歯ブラシ、それからレシピ本がもう一冊。

 

「……また本を増やすのか」

 

「前の本は菓子に特化していた。今度は汁物を学びたい」

 

「汁物」

 

「味噌汁というものを桜に教わった。出汁の取り方が奥深い。昆布と鰹節の配合で味が変わる」

 

アーチャーは歩き出した。ライダーが並んだ。二人の長身が商店街を歩く。周囲の通行人が微妙に道を空けた。無意識に。二人ともが纏っている圧が、一般人の感覚に触れるのだろう。

 

ライダーは八百屋の前で足を止めた。大根を一本手に取り、重さを確かめた。

 

 

大根をビニール袋に入れ、財布から小銭を出した。聖杯が日本円の使い方まで補正しているのか、と思うとアーチャーは少しだけ眩暈がした。

 

「鍋は——」

 

「買っておこう。鍋なら人数が増えても対応できる。兵站の基本だ」

 

アーチャーは長葱を手に取った。無意識だった。大根に合わせるなら葱だと、台所に立つ者の反射が動いた。

 

二人は並んで野菜を選んだ。ライダーが根菜を、アーチャーが葉物を。言葉はなかった。だが選び方に無駄がなかった。互いの買い物袋の中身を一瞥して、重複を避け、足りないものを補った。

 

会計を済ませて商店街を出るとき、アーチャーが言った。

 

「おまえと台所で戦ったら、いい勝負になるかもしれんな」

 

「剣より包丁のほうが得意なのか、弓兵」

 

「家事は年季が違う。何しろ長い」

 

意味深な言い方だった。ライダーは追及しなかった。

 

「今度、味噌汁を見てくれ。出汁の塩梅がまだ掴めん」

 

「……いいだろう。だが昆布は水からだ。沸騰させるな」

 

「承知した」

 

二人は交差点で別れた。ライダーは南へ、アーチャーは北へ。

 

アーチャーは歩きながら、自分の手の中のビニール袋を見下ろした。長葱、白菜、豆腐。鍋の材料だ。頼まれてもいないのに、鍋の材料を揃えていた。

 

「——毒気を抜かれるな、あの男には」

 

誰にも聞こえない声で呟き、アーチャーは衛宮邸への道を歩いた。

 

---

 

午後。

 

ライダーの拠点。

 

士郎は桜に会いに来ていた。桜は優希と一緒に折り紙をしていた。優希はまだ口数が少ないが、桜が鶴を折って見せると目を丸くして、自分でも折ろうとした。指がうまく動かず、角がずれた。桜が手を添えて直した。

 

士郎はその光景を居間の入り口から見ていた。

 

ライダーが隣に立った。

 

「……桜は、強いな」

 

士郎が呟いた。

 

「強い」ライダーは頷いた。「あの子は自分がされたことを知っている。知った上で、同じ目に遭った子供の手を取れる。それは強さだ」

 

「俺には——できなかった。桜があの屋敷にいるのを知ってて、何もしなかった」

 

「知っていたのか」

 

「知ってた、というのは正確じゃない。気づいてた。桜が笑うとき、いつもどこか薄い膜があるみたいだった。でも——聞けなかった。聞いて、もし本当に何かあったら、俺はどうすればいいかわからなかったから」

 

ライダーは黙って聞いていた。

 

「あんたは——召喚されて一分で連れ出した。俺が何年もかけてできなかったことを」

 

「比べるな」

 

ライダーの声は穏やかだったが、有無を言わさぬ重さがあった。

 

「私はサーヴァントだ。人間の社会のしがらみがない。間桐の家も遠坂の家も、私にとっては関係のない枠だ。枠の外にいる者が枠を壊すのは簡単だ。だが枠の中にいる者が枠を壊すのは——命がけだ。おまえがそれをできなかったことを、俺は責めない」

 

「でも——」

 

「おまえに必要だったのは勇気ではない。情報と、手段と、受け皿だ。桜を連れ出しても、行く場所がなければ連れ出せない。養える力がなければ守れない。おまえはまだ子供だ。子供が一人で全部をやろうとするな」

 

士郎は言葉に詰まった。

 

ライダーは居間に目を戻した。桜が折り鶴を優希の掌に乗せている。優希がそれをじっと見つめている。

 

「今のおまえにできることをやれ。桜の隣にいろ。あの子の折り紙がうまくいかなかったら手を貸してやれ。それだけで十分だ」

 

「……それだけで、いいのか」

 

「それだけが、一番難しい」

 

士郎は居間に入った。桜の隣に座り、折り紙を一枚取った。

 

「桜。俺にも教えてくれ」

 

「先輩、折り紙できましたっけ」

 

「鶴くらいは——たぶん」

 

「たぶん……」

 

士郎の折った鶴は、首が曲がり、翼がへしゃげていた。優希が見て、くすっと笑った。小さな、ほんの微かな笑い。桜が目を見開いた。この子が笑ったのは、保護してから初めてだった。

 

「先輩。もう一回折ってもらえますか」

 

「……鶴じゃなくて兜にしようか」

 

「兜!」

 

優希の目が光った。

 

ライダーは台所でレシピ本を開き、味噌汁の出汁を取り始めた。昆布は水から。沸騰させない。アーチャーの助言を律儀に守りながら、居間の笑い声を聞いていた。

 

---

 

おやつ時。

 

衛宮邸の縁側。

 

凛は条文の草案を広げていた。同盟の条文は翁の切離しまでが第一段階。第二段階——この先の戦略をどうするか。バーサーカーとランサーをどう処理するか。そして最終的に、同盟をどう解消するか。

 

ライダーが隣に座った。茶を二つ持って。凛の分には砂糖なし。自分の分には砂糖二杯。

 

「甘党は変わらないのね」

 

「茶が甘くて何が悪い」

 

「悪くないわよ。ただ——あんたの国の茶は全部あんなに甘いの?」

 

「甘い。砂糖ではなく蜂蜜を入れることもある。ミントを加える地方もある」

 

「へえ。おいしそうね、ミント」

 

「試すか。ミントなら庭に生えていないか」

 

「衛宮くんの庭にミントを植えたら最後、庭全部ミントになるわよ。あれは侵略的な植物なの」

 

「侵略的か。扱いに気をつけよう」

 

凛は草案に目を落とした。

 

「ライダー。一つ、真面目な話」

 

「ああ」

 

「この同盟、いつまで保つと思う?」

 

ライダーは茶を啜った。

 

「おまえはどう考える」

 

「バーサーカーとランサーを排除するまでは保つ。その後——聖杯が起動段階に入ったとき、方針が割れる可能性がある。あんたは聖杯を否定する。衛宮くんもたぶんそっちに寄る。セイバーは……わからない。アーチャーも」

 

「おまえは」

 

凛は茶を見つめた。

 

「私は——遠坂の当主として、聖杯を求める立場にいる。遠坂の悲願は聖杯の完成。二百年の家業よ。それを捨てるのは簡単じゃない」

 

「捨てろとは言わない」

 

「でもあんたは否定する側でしょう」

 

「そうだ。だが——おまえの立場を無視して否定を押しつける気はない。遠坂の家の歴史も、おまえの矜持も、重さがある。俺が王として片づけていい問題ではない」

 

凛はライダーを横目で見た。

 

この男はいつもこうだ。相手の立場を尊重し、自分の正義を押しつけない。それが美徳であることは凛も認める。だが——いずれ、二人の方針は衝突する。聖杯を否定するか、完成させるか。その分岐点が来たとき、この穏やかな茶の時間は終わる。

 

「……その話は、また今度にしましょう。今日は疲れてるの」

 

「ああ。今日は休め」

 

ライダーは茶を飲み干し、立ち上がった。

 

「明日の朝食は俺が作る。味噌汁を練習した。セイバーの分も多めに炊いておく」

 

「あんた本当に兵站が好きね」

 

「兵站を笑う者は戦に負ける」

 

「笑ってないわよ。感心してるの」

 

ライダーは門に向かった。途中で振り返った。

 

「遠坂」

 

「何」

 

「おまえは良い当主だ。二百年の家業を背負って、それでも自分の目で判断しようとしている。それは——簡単なことではない」

 

凛は答えなかった。答えなかったが——縁側に座ったまま、しばらく動けなかった。

 

---

 

夕暮れ。

 

冬木教会。

 

ライダーが来たのは、言峰にとって予想外だった。

 

正門を叩く音がして、言峰が戸を開けると、ライダーが立っていた。戦装束ではない。いつものジャケット姿。手には——紙袋。

 

「監督役。少し話がある」

 

「……入れ」

 

礼拝堂の長椅子に向かい合って座った。ライダーは紙袋からティーポットと茶葉の缶を取り出した。

 

「何をしている」

 

「茶を出す」

 

「ここは教会だ」

 

「教会であっても客人に茶を出す礼儀は変わるまい」

 

言峰は黙った。ライダーは礼拝堂の隅にある給湯設備を見つけ——あるのか、と言峰は思った——湯を沸かし、手慣れた動きで茶を淹れた。カップは二つ。言峰の分には砂糖なし。

 

「私の好みを知っているのか」

 

「推測だ。甘いものを好む顔ではない」

 

言峰はカップを受け取った。口はつけなかった。

 

「で、話とは」

 

「子供のことだ。優希という名の。あの子の身元を調べたい。監督役として情報を持っているか」

 

「聖杯戦争の参加者の個人情報を、対戦相手に渡す道理はない」

 

「あの子はもう参加者ではない。令呪は消えた。マスターの資格を失った一般市民の保護は、監督役の管轄だろう」

 

言峰は指を組んだ。

 

この男は——面倒だ。

 

論理が通っている。穴がない。感情論でもない。監督役としての職務規定を正確に把握した上で、正当な要求をしてきている。拒否する理由を作りにくい。

 

「調べる。だが時間はかかる」

 

「構わない。急がせるつもりはない」

 

言峰は茶を一口飲んだ。不本意ながら、旨かった。

 

「もう一つ」

 

「何だ」

 

「柳洞寺での切離しの際、あなたは予備令呪を提供した。あの場での協力には感謝する。だが——あなたの意図がまだ見えない。翁が消えた今、あなたにとって我々は排除すべき対戦相手のはずだ」

 

「…どういうことかね」

 

「とぼける必要はない、ランサーのマスターよ。それに、地下にはもっとトンデモナイ奴もいるだろう。」

 

ライダーが紅茶を一口すする。

 

「なぜそれを、いや、何が聞きたい?」

 

「にもかかわらず、こうして会話に応じている。なぜだ?」

 

言峰はカップを置いた。

 

この男は——本当に面倒だ。

 

裏がない。少なくとも、裏を感じさせない。凛のように食ってかかるわけでもなく、士郎のように感情で動くわけでもない。穏やかに、論理的に、一つずつ確認してくる。そして確認した事実を積み上げて、こちらの矛盾を浮き彫りにする。

 

悪意がないのが最も厄介だった。悪意があれば対処できる。策略があれば読める。だがこの男には——本当に、ただの善意と職務意識しかないように見える。

 

「答える義務はない」

 

「ないな。だが聞かなければ進まない」

 

「私の意図は単純だ。この戦争を最も有利な形で終わらせたい。そのために必要な協力はするし、不要になれば手を引く。今はまだ——有利な形が見えていない。だから動かない」

 

「正直だな」

 

「嘘かもしれんぞ」

 

「そうだな。私は嘘を見抜くのが得意なわけではない。ただ、嘘をつかない相手との会話に慣れている。あなたの言葉は——嘘ではないが、全部でもない」

 

言峰は苦い顔をした。

 

この男との会話は、泥の上を歩くようなものだ。足を取られるわけではないが、一歩ごとに足跡が残る。隠しようがない。言峰が二十年かけて磨いた虚飾の技術が、この男の前では意味をなさない。嘘を見抜かれるのではない。嘘をつく動機そのものを、穏やかな目で見透かされる。

 

「……茶は旨かった。礼を言う」

 

「客人に茶を出したのだから礼には及ばない。では」

 

ライダーは立ち上がり、ティーポットと缶を紙袋にしまった。律儀に礼拝堂を出て、正門で一礼して去った。

 

言峰は一人残された礼拝堂で、空になったカップを見つめた。

 

「…………」

 

ランサーが柱の陰から顔を出した。

 

「帰ったか、あの王様」

 

「ああ」

 

「何しに来たんだ?」

 

「子供の身元調査の依頼と——茶を淹れに来た」

 

「茶」

 

「茶だ」

 

ランサーは首を傾げた。

 

「お前さん、珍しく顔が渋いな」

 

「あの男は——扱いづらい」

 

「強いからか?」

 

「…」

 

言峰は立ち上がり、祭壇に向かった。十字架を見上げた。

 

善い人間。裏がない人間。嘘をつかず、見返りを求めず、敵にすら茶を出す人間。計略と善意が一体化した人間。最も——。

 

最も、何だ。

 

言峰は思考を断ち切った。

 

「ランサー。明日から動く」

 

「おう。ようやくか」

 

「ああ。——あの男がいる間に、長引かせるわけにはいかない」

 

ランサーは槍を肩に担いだ。

 

教会の夜は静かだった。ライダーの淹れた茶の香りだけが、礼拝堂に残っていた。

 

---

 

夜。

 

ライダーの拠点。雑居ビルの三階。

 

ライダーが教会から戻ったのは八時を過ぎた頃だった。買い物袋を提げて。大根、長葱、鶏もも肉、豆腐、白菜。それから小さな箱——プリン。三個入り。

 

「ただいま」

 

「おかえりなさい」

 

桜が卓を拭いていた。優希はクッションの上に座って、折り紙の兜をかぶっていた。士郎が作ったあの兜。ずっとかぶっている。

 

「今日は鍋にする。三人で作ろう」

 

「鍋」

 

「アーチャーに教わった。昆布は水から、沸騰させるな、と」

 

桜は小さく笑った。アーチャーに料理を教わるライダー。不思議な構図だ。

 

三人で台所に立った。

 

台所は狭い。雑居ビルの一室の流し台だ。大人一人でいっぱいになる。ライダーが立つと、それだけでほとんどの空間が埋まる。

 

「桜、白菜を頼む。優希は——豆腐を切れるか」

 

優希がライダーを見上げた。無言。だが——首を小さく、縦に振った。

 

ライダーが包丁を渡しかけて——止めた。子供に包丁は危ない。代わりにバターナイフを渡した。豆腐をパックから出し、まな板に置いた。

 

「これで切ってみなさい。好きな大きさでいい」

 

優希はバターナイフを握った。白い豆腐に刃を入れた。ぐにゃりと崩れた。形がいびつになった。優希の手が止まった。失敗した、という顔。体が少し強張った。

 

「そのまま続けろ。鍋に入れれば同じだ」

 

ライダーの声が軽かった。

 

優希は——もう一度、ナイフを動かした。ぐにゃぐにゃに切れた豆腐が、まな板の上に並んだ。不格好だった。でもサラディンは何も言わなかった。桜も何も言わなかった。

 

白菜を切った。葱を刻んだ。鶏肉は桜がそぎ切りにした。ライダーが鍋に昆布と水を入れ、火にかけた。沸騰させない。ぎりぎりのところで昆布を引き上げた。

 

具材を入れた。白菜、葱、鶏肉、豆腐。ぐにゃぐにゃの豆腐も全部。蓋をして、煮えるのを待った。

 

台所に湯気が立ち上った。鶏の出汁と昆布の出汁が混ざる匂い。冬の夜に、温かい匂い。

 

「できた」

 

蓋を開けた。白い湯気。具材がぐつぐつ煮えている。ぐにゃぐにゃの豆腐は——煮えたら、他の豆腐と区別がつかなくなっていた。

 

三人で卓を囲んだ。

 

ライダーが取り皿によそった。桜の分、優希の分、自分の分。ポン酢は買い忘れた。代わりに醤油を少しと、レモン。サラディンの流儀。

 

「いただきます」

 

桜が手を合わせた。ライダーも同じ動きをした。聖杯の知識で覚えた所作。優希は二人を見て、少し遅れて——小さな手を合わせた。

 

食べた。

 

温かかった。白菜が柔らかい。鶏肉に火が通っている。豆腐が——崩れた形のまま、舌の上で溶けた。

 

優希が二杯目をよそった。

 

桜は目を瞬いた。この子が自分からおかわりを求めたのは、初めてだった。保護してからずっと、出された分だけを食べていた。多すぎても少なすぎても、何も言わなかった。

 

二杯目の鍋を、優希は黙って食べた。

 

食後、ライダーがプリンを出した。三個入り。一つずつ。

 

優希はプリンの蓋を自分で開けた。スプーンで一口。目が——ほんの僅かに、大きくなった。甘い。プリンの甘さ。カラメルの苦み。

 

食べ終わった皿を三人で洗った。ライダーが洗い、桜がすすぎ、優希が——タオルで拭こうとした。皿が手から滑って、ラグの上に落ちた。割れなかった。ラグが受け止めた。

 

サラディンは何も言わなかった。皿を拾い上げ、優希にもう一度渡した。優希は両手で皿を握り、慎重に、タオルで拭いた。

 

---

 

夜が更けた。

 

優希は布団の中で眠っていた。ライダーが用意した子供用の布団。クッションを枕にして、毛布をかけて。折り紙の兜は枕元に置いてある。

 

桜は優希の隣に座っていた。自分の布団に入らずに。

 

優希の寝顔を見ていた。

 

小さな顔。薄い瞼。閉じた目。呼吸は穏やかで、体の力は抜けている。眠っている。安全な場所で、温かい布団の中で。鍋を食べて、プリンを食べて、皿を拭いて、眠った。

 

普通の夜だった。普通の子供の、普通の夜。

 

桜がそれを見ていたとき——優希の頬を、涙が伝った。

 

音はなかった。声もなかった。寝息も変わらなかった。ただ——閉じた瞼の隙間から、涙が一筋、流れた。頬を横切り、枕に染みた。

 

もう一筋。

 

もう一筋。

 

優希は眠ったまま、泣いていた。

 

表情は変わらない。眉も動かない。口も開かない。ただ涙だけが、止まらずに流れている。

 

桜は——手を伸ばした。

 

優希の体を、そっと抱き上げた。布団ごと。小さな体だった。軽かった。こんなに軽かったのか。骨と皮ばかりだ。食べているのに、まだこんなに軽い。

 

桜の胸に、優希の頭がもたれた。涙が桜のパジャマに染みた。温かい涙。

 

優希は目を覚まさなかった。泣いているのに、目を覚まさない。

 

我慢している、と桜は思った。

 

この子は——眠っていても、我慢している。

 

声を上げない。泣き声を出さない。体を揺らさない。起きているときと同じだ。あの蟲蔵で学んだのだろう。声を上げれば何が起こるかわからない。泣けば蟲が増える。叫べばもっとひどいことが起きる。だから——体が覚えている。眠っていても、声を出してはいけないと。

 

桜は優希を抱きしめた。

 

本当は叫びたかったはずだ。

 

暗い地下室で。蟲に覆われて。何がどうなっているかもわからない幼い頭で。叫びたかったはず。声を上げて、誰かを呼びたかったはず。

 

助けてと言いたかったはず。

 

誰かに。誰でもいいから。お母さんでも、お父さんでも、知らない人でも。助けて、ここから出して、怖い、痛い、やめて——そう叫びたかったはず。

 

抱きしめてほしかったはず。

 

誰かの腕の中で。温かい場所で。大丈夫だよ、もう怖くないよ、と言ってもらいたかったはず。

 

全部——我慢した。

 

この子は全部我慢して、声を殺して、涙を殺して、体を固くして、蟲蔵を生き延びた。

 

桜にはわかった。わかってしまった。

 

桜は優希の頭を撫でた。小さな頭。短い髪。指の下で、涙に濡れた頬が温かい。

 

「大丈夫だよ」

 

声が出た。小さな声。優希には聞こえていないだろう。眠っているから。でも——言えた。

 

「もう大丈夫だから」

 

ライダーは壁際に座っていた。曲刀を膝に置き、目を閉じて。いつもの夜の見張りの姿勢。だが——目は薄く開いていた。桜と優希を見ていた。

 

優希の涙が、少しずつ減っていった。桜に抱かれて、体温が伝わって、呼吸が深くなって。涙の筋が途切れ途切れになり、やがて止まった。

 

眠っている。まだ泣いた跡が頬に光っている。でも——止まった。

 

ライダーが、低い声で言った。

 

「泣けている」

 

桜が振り返った。

 

「起きているときは泣けない。声も出さない。感情を止めている。だが——眠ったとき、体が泣く。それは、意志では止められない何かが、まだあの子の中に残っているということだ」

 

ライダーの目が優希の寝顔を見ていた。

 

「泣くことを体が覚えている。悲しみを感じる回路が、まだ壊れていない。壊されかけたが——壊れきってはいない」

 

桜はサラディンを見た。

 

「希望はある」

 

ライダーの声は静かだった。

 

「泣けるうちは。体が覚えているうちは。その子は——戻ってこられる」

 

桜は優希を見下ろした。

 

小さな寝顔。涙の跡。折り紙の兜が枕元にある。ぐにゃぐにゃに切った豆腐を食べた子。プリンの蓋を自分で開けた子。皿を拭こうとして落とした子。

 

泣けている。体が覚えている。壊れきっていない。

 

桜は優希を抱いたまま、自分も横になった。布団の上に。優希の小さな体を胸に抱えて。

 

モクモクさんが——見えた。暗闇の中に。薄紫の小さな塊。いつもの場所に。

 

モクモクさんは泣いていなかった。泣く代わりに——優希のほうを見ていた。小さなもこもこした体で、優希の寝顔を見つめていた。

 

お揃いだね、と桜は思った。

 

声には出さなかった。出さなくてよかった。モクモクさんはわかっている。桜もわかっている。

 

この子はまだ泣ける。だから——大丈夫。

 

桜は目を閉じた。

 

ライダーは壁際で曲刀を膝に置いたまま、二つの寝息を聞いていた。

 

大きな寝息と、小さな寝息。桜と優希。壊されかけた少女と、壊されかけた子供。

 

二人とも、泣けている。

 

それだけで——今夜は、十分だった。




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