深夜。教会の礼拝堂。
言峰は祭壇の前に座り、状況を整理していた。
アインツベルンのマスター、イリヤスフィール。翁の襲撃以来、イリヤは——屋敷から出られなくなっている。翁への恐怖か。
翁はもういない。だがイリヤはそれを知らない可能性がある。知っていたとしても、体に刻まれた恐怖は理屈で消えるものではない。バーサーカーで勝てないという事実が———イリヤの足を縛っているのだろう。
引きこもっているマスター。出撃しないサーヴァント。聖杯戦争に参加しているが、戦っていない。
それは——監督役として問題にできる。
「不参加の問題か」
言峰は呟いた。
監督役として、マスターに戦争に参加する意思があるか確認しなければならない。長期間の不戦ならば、監督役にはその確認を行う権限がある。
これだ。
監督役としてアインツベルンを訪問する。不参加の意思確認を行う。表向きは規定に基づく公務。だが実際には——イリヤに手を差し伸べる。
引きこもっているなら、まず外に出させる。教会は聖杯戦争における中立地帯だ。負傷したマスターや棄権を希望するマスターを保護する場所。イリヤを教会に連れてくれば、そこから交渉ができる。
「ランサー」
「おう」
柱の陰から赤い槍が突き出た。
「アインツベルン城に行く。護衛を頼む」
「今からか? 夜中だぞ」
「明日の朝。日が高いうちに行く。バーサーカーが夜を恐れているなら、昼のほうが相手の警戒が薄い」
ランサーは槍を肩に担ぎ直した。
「いいぜ。で、何しに行くんだ」
「監督役としての公務だ。マスターの参加意思確認」
「それは建前だろ。本音は」
「さてな」
ランサーの眉が上がった。
「あの化け物とお嬢ちゃんになぁ」
「あの化け物が、今の冬木で同盟側に対抗できる唯一の戦力だ。英雄王は動けない。ランサー、おまえ一人では——」
「セイバーには勝てるかもしれんが、ライダーとアーチャーが加わったら無理だな。正直に言えば」
「そうだ。だがバーサーカーが加われば話が変わる。翁がいなくなった今、あの命を削れる者は同盟側にもいない」
「監督役が特定の陣営と組むのは規約的にどうなんだ?」
「お前が気にする問題ではない」
言峰は薄く笑った。
「イリヤスフィールが教会に"相談"しに来るのを拒否する道理はない。受け入れよう。監督役はマスターの保護と安全確保を行うだけだ。保護されたマスターがその後どう動くかは——マスターの自由意志だ」
「詭弁だな」
ランサーは呆れたように笑った。
「まあいいさ。あの嬢ちゃんに会えるなら悪くねえ。強い奴の主ってのは、だいたい面白いもんだ」
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翌朝。
冬木の北の森。アインツベルン城への道。
言峰とランサーは森の中を歩いていた。ランサーは霊体化せず、槍を手に歩いている。結界の類に備えてだ。アインツベルンの森には防衛術式が張り巡らされている。
結界を三つ越えた。いずれも反応しなかった。言峰の令呪——監督役の権限を示す紋章——が通行証として機能している。聖杯戦争の監督役はどの陣営の拠点にもアクセスする権限を持つ。建前上は。
城が見えた。
白い石壁。尖塔。ヨーロッパの古城を日本の森に移築した異物。美しいが、冷たい。生活の匂いがしない。
正門の前に立ったとき、門が開いた。
出てきたのは——メイドだった。
二人。銀髪の女。赤い目。均整のとれた体躯に、メイド服。だが手には剣を持っている。戦闘用のハルバードだ。ホムンクルス。アインツベルンが城の防衛用に配備した人造の兵。
「何者ですか」
左のメイドが言った。声は平坦で、感情がない。
「冬木教会の監督役、言峰綺礼だ。アインツベルンのマスターに面会を求める。聖杯戦争の規定に基づく参加意思確認のための公式訪問だ」
メイドたちは顔を見合わせた。
「お嬢様は——お会いになれません」
「理由は」
「体調がすぐれません」
「それを確認するのが私の職務だ。マスターが戦闘不能であれば、監督役として保護措置を取る義務がある」
メイドたちのハルバードが構え直された。刃が言峰の喉元に向く。
言峰は動じなかった。
「剣を納めろ。私は監督役として正規の手続きで訪問している。ここで私を害すれば、アインツベルンは聖杯戦争の規約に違反したことになる。聖杯への権利を失うぞ」
メイドたちの動きが止まった。ホムンクルスには自律的な判断力がある。だが最終的にはアインツベルンの目的——聖杯の獲得——に反する行動は取れない。監督役を害することが聖杯への権利を脅かすなら、攻撃はできない。
「……お通しします。ただし、武器は」
「持っていない。ランサーは門の外で待たせる」
言峰はランサーに目配せした。ランサーは肩をすくめ、門柱にもたれかかった。
「ここで待ってるぜ。嬢ちゃんによろしくな」
言峰はメイドに先導され、城の中に入った。
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城の中は——暗かった。
窓はある。だがカーテンが全て閉じられていた。廊下を歩く言峰の足音だけが石壁に反響する。メイドの足音はほとんど聞こえない。ホムンクルスの歩行は人間より静かだ。
三階。東の塔。
メイドが扉の前で立ち止まった。
「こちらです。お嬢様——お客様です」
返事がなかった。
メイドが扉を開けた。
部屋は広かった。天蓋つきの寝台、暖炉、書棚。だが暖炉に火はなく、書棚の本は散乱し、寝台のシーツは乱れている。カーテンが閉じられ、部屋の中は薄暗い。
寝台の上に、白い塊があった。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、毛布にくるまっていた。
膝を抱え、毛布を頭から被り、寝台の隅に縮こまっている。白い髪が毛布の隙間から零れている。赤い目が——覗いている。毛布の縁から、言峰を見ている。
「やあ、イリヤスフィール」
言峰は部屋の中央に立った。笑みは浮かべなかった。この少女の前で愛想笑いをしても意味がない。アインツベルンのホムンクルスは、人間の表情の裏を読む訓練を受けている。
「監督役のおじさん」
イリヤの声は小さかった。以前の——バーサーカーを従えて街を歩いていた頃の、あの自信に満ちた声ではなかった。
「何しに来たの」
「公務だ。聖杯戦争のマスターとしての参加意思を確認しに来た」
「参加して……る」
「しているか。では聞くが——最後に屋敷の外に出たのはいつだ」
イリヤは答えなかった。
言峰は部屋を見回した。食事の盆が隅に置かれている。メイドが運んだのだろう。半分しか手をつけていない。暖炉に火がないのは、イリヤが火をつけることを拒んだからか、あるいは——そこまで気が回らなくなっているからか。
「バーサーカーは」
「中庭にいる」
「動いているか」
「……立ってる。ずっと。ずっと同じ場所に」
言峰は窓に歩み寄り、カーテンの端を僅かに開けた。中庭が見えた。巨人が立っていた。門番のように。あるいは墓碑のように。微動だにせず、空を見上げている。
バーサーカーが動かないのは、イリヤが動かさないからだ。命じていないから動かない。命じるためには、外に出なければならない。外に出れば——。
「翁は、もういない」
言峰は事実を述べた。
イリヤの毛布が動いた。
「……いないの」
「切り離された。マスターとの契約を断ち、翁は消えた。冬木の夜から、あの存在はいなくなった」
「ほんとに?」
「監督役として確認している。アサシンのクラスは空位だ」
イリヤは毛布の縁を握りしめた。赤い目が言峰を見ている。信じたい。だが信じきれない。あの夜——バーサーカーの命が三つ消えた夜の恐怖が、体の奥に染みついている。
「でも——バーサーカーの命は戻らない」
「なるほど」
つまり、バーサーカーは命を削られたということだ。では残りはいくつか。
「被害は大きいのか」
「3つ。もう、残り8つしか――」
イリヤは言いかけて止まった。しかしもう遅い。情報は明確に言峰に伝わった。
「そうか。だが翁がいない以上、一度にいくつも削る存在はもういない。通常の聖杯戦争に戻った。——十分に戦える」
イリヤは毛布の中で膝を抱え直した。
言峰は近づかなかった。距離を保ったまま、声だけを届けた。
「イリヤスフィール。おまえがこの屋敷から出られないことは理解できる。恐怖は理屈では消えない。だが——このまま屋敷に籠もり続ければ、聖杯戦争は他の陣営の間で決着する。おまえは何も得られず、何も果たせない」
イリヤの指が、毛布の布地を掴んだ。
「アインツベルンの悲願は——おまえだけが背負っている。違うか」
「…………」
「教会は中立地帯だ。どの陣営もおまえに手を出せない。まずは屋敷を出て、教会に来い。そこで体制を立て直せ。ランサーが護衛する。道中の安全は私が保証する」
イリヤは毛布から顔を出した。
「保護なんて…教会は中立じゃないの?」
「もちろん中立だとも。だが、そもそも参加しないのでは意味がない」
頬がこけていた。食事を十分に取っていないのだろう。赤い目の下に隈がある。唇が乾いている。十歳ほどの外見の少女が——百年の悲願を背負って、毛布の中で震えている。
言峰は——何も感じなかった。
何も感じないことを、確認した。この少女の恐怖も、苦しみも、言峰の心には何の波紋も起こさない。それでいい。それがいつも通りの自分だ。
「……考える」
イリヤの声は掠れていた。
「考えるのに、何日必要だ」
「明日まで」
「わかった。明日、もう一度来る」
言峰は踵を返した。扉に手をかけたとき、背後から声がした。
「ねえ」
「何だ」
「お兄…衛宮士郎は——元気?」
言峰は振り返らなかった。
「健在だ。毎日学校に行っている」
「……そう」
言峰は部屋を出た。廊下を歩き、階段を降り、正門を抜けた。ランサーが門柱にもたれたまま待っていた。
「どうだった」
「重傷だ」
「バーサーカーがか」
「マスターだ」
ランサーは口笛を吹いた。
「あの嬢ちゃんがね。バーサーカーを従えて、街中で俺たちを追い回してた嬢ちゃんが」
「翁の恐怖だ。バーサーカーの命が回復しないことへの恐怖。出れば削られる。出なければ何も得られない。板挟みだ」
「で、引っ張り出せそうか」
「明日、もう一度来る。出てくるかどうかは——あの少女次第だ」
言峰は森の中を歩き出した。
背後で、城の窓のカーテンが僅かに動いた。イリヤが外を見ている。森の向こうに、冬木の街がある。お兄ちゃんがいる街。
毎日学校に行っている、と監督役は言った。
桜と一緒に。ライダーと一緒に。みんなと一緒に。
イリヤは毛布を握りしめた。
窓の外は明るかった。翁はもういないと、あの男は言った。嘘かもしれない。本当かもしれない。わからない。
だが——窓の外は、明るかった。