桜「中東のライダー?」   作:ヤシの木の里

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新拠点

雑居ビルの三階。

 

ライダーが拠点に選んだのは、商店街から二ブロック離れた築三十年のビルの一室だった。元は何かの事務所だったらしい。窓が二つ、流し台が一つ、トイレが一つ。それだけの空間。

 

桜が連れ出された翌朝、目を覚ましたとき——部屋は一変していた。

 

床にはラグが敷かれていた。深い赤と藍色の幾何学模様。壁にも布が掛かっている。窓辺にはカーテン代わりの薄い生地が垂れ、午前の光を柔らかく通している。隅にはクッションが積まれ、小さな卓が置かれ、その上にティーポットとカップが並んでいる。

 

おしゃれで、落ち着いた部屋だった。

 

一日で——いや、桜が眠っていた数時間で、これを作り上げたらしい。

 

どこで調べたのか。桜は流し台の横に積まれた雑誌の山を見た。インテリア雑誌。『暮らしの手帖』『BRUTUS 居心地のいい部屋特集』『はじめてのひとり暮らし完全ガイド』。付箋が何枚も貼られている。ページの角が折られている。

 

わかった。調べたのだ。雑誌で。

 

だがどれだけ雑誌を参考にしても、この部屋にはどこか——中東の匂いがあった。テキスタイルが多い。布の色味が暖色寄りで、幾何学模様が多く、クッションの配置が床に近い。椅子やソファではなく、床に座る生活を前提とした空間。ライダーの体が覚えている居住空間が、無意識に反映されているのだろう。

 

食事は和食だった。

 

卓の上に、パックに入った定食が並んでいた。焼き鮭、ひじきの煮物、味噌汁、白飯。どこかの定食屋のもの。容器に店名のシールが貼ってある。商店街の、昔ながらの定食屋。評判のいい店だ。桜も何度か前を通ったことがある。

 

「どうやって見つけたんですか、この店」

 

「情報調査スキルだ」

 

ライダーは卓の向かいに座り、自分の分の味噌汁を啜った。

 

「聖杯から得た知識に日本の飲食店情報がある。それを元に周辺を歩き、匂いと客の入りで判断した。兵站の基本は——」

 

「兵站の基本、ですか」

 

「現地調達だ」

 

ライダーは真面目な顔で言った。

 

---

 

落ち着いて、はいなかった。

 

部屋は快適だった。布団も用意されていたし、歯ブラシも着替えもあった。どこで買ったのか——聖杯の知識と情報調査スキルで、深夜のうちに揃えたのだろう。

 

だが桜の頭はこんがらがっていた。

 

二日前まで間桐の屋敷にいた。蟲蔵の上で寝起きし、お爺様の指示に従い、学校に通い、先輩の家で夕食を作っていた。それが——突然、見知らぬ男に連れ出され、見知らぬ部屋にいる。

 

先輩にも会えていない。学校にも行けていない。

 

サーヴァント。聖杯戦争。令呪。全部、頭では理解している。お爺様に命じられて召喚の儀式をやった。英霊が来た。マスターとサーヴァント。それは知識としてはある。

 

だが知識と実感は違う。

 

目の前に座っているのは——長身の成人男性だ。

 

鎖帷子こそ霊体化しているが、体格は隠しようがない。百八十センチを超える背丈。広い肩幅。日に焼けた肌。琥珀色の目。四十代の、戦場を生き抜いてきた男の体。

 

笑顔を見せてくれる。穏やかに話しかけてくれる。茶を淹れ、食事を用意し、部屋を整えてくれる。

 

それでも——威圧感がある。

 

どんなに優しくされても、体が強張る。間桐の屋敷で、大人の男の前で強張ることを覚えた体が。

 

定食の箸が止まっていた。

 

ライダーが卓の向かいから桜を見た。

 

「食が進まんか」

 

「いえ、あの——すみません」

 

桜は慌てて箸を動かした。鮭を一口。白飯を一口。味噌汁を啜った。

 

箸が止まった。

 

塩味が濃い。鮭も味噌汁も、桜の好みより少し塩辛い。定食屋の味付けだから仕方ない。店の味であって、桜の味ではない。

 

でもそれを——言えなかった。

 

言う理由がなかった。出されたものを食べる。それが間桐の屋敷で覚えたことだ。お爺様が出したものを食べる。文句は言わない。好みは言わない。自分の好みなど、あってもなくても同じだ。

 

サーヴァントは自分の手下。形式上はそうだ。令呪を持つマスターが上位で、サーヴァントは従者。だがその形式に意味がないことは、桜自身がよくわかっていた。お爺様と自分の関係がそうだったように。形式上の主従と、実際の力関係は違う。

 

目の前にいるのは、歴史に名を残す英雄。自分は——ただの、壊れかけの女の子だ。

 

鮭を一切れ口に入れた。咀嚼した。飲み込んだ。

 

「ごめんなさい」

 

何に対して謝っているのか、自分でもわからなかった。

 

ライダーは箸を置いた。

 

「目を閉じなさい」

 

唐突だった。

 

「え——」

 

「目を閉じろ」

 

命令ではなかった。だが有無を言わさない声だった。穏やかだが、芯がある。王が臣下に指示を出すときの声——ではなく、もっと別の。医師が患者に「深呼吸しなさい」と言うときの声に近かった。

 

桜は目を閉じた。

 

暗くなった。部屋の音だけが聞こえる。窓の外の車の音。遠くの犬の声。ライダーの呼吸。

 

「悲しいと感じることはあるか」

 

「えっと、はい」

 

「寂しさは」

 

「…たまに」

 

「では苛立ち、怒りがわかるか」

 

「怒り、ですか」

 

「そうだ。おまえの中にある怒り。感じるか」

 

桜は——戸惑った。

 

怒り。怒りという感情を、最後に感じたのはいつだろう。間桐の屋敷で、蟲蔵で、何年もかけて削ぎ落とされたもの。怒る理由がなかった。怒っても意味がなかった。怒れば蟲が増えた。怒りを捨てれば楽になった。

 

「いえ、私は。いつも——悪いのは私だし」

 

「では、怒りを想像しなさい」

 

「想像……」

 

「目を閉じたまま。そうだ。怒りは——どんな姿をしている」

 

桜は目を閉じたまま、暗闇の中を探った。怒り。怒りの姿。どんな形をしているのだろう。わからない。わからないけれど——何かが、暗闇の端に、いる気がした。

 

「えっと……赤くて」

 

「うん」

 

「雲みたいな……フワフワしてて」

 

「うん」

 

もこもこと膨らんだ赤い塊。輪郭がはっきりしない。煙のような、綿のような。目も口もないのに、存在感だけがある。

 

「何を言ってる」

 

「なにを……?」

 

ライダーの声がゆっくりと問いかけた。

 

「よく聞いてみなさい。何を言ってるかな」

 

桜は耳を澄ませた。暗闘の中で、赤いもこもこした塊に意識を向けた。

 

何か言っている。

 

だが——言葉ではなかった。

 

「……言葉、じゃない。言葉にならないことを言ってる。大きな声で」

 

「聞いてあげなさい」

 

「でも、意味が」

 

「それでいい。ただ聞いてあげなさい」

 

桜は聞いた。

 

意味のわからない声を。言葉にならない叫びを。赤いもこもこした塊が、暗闇の中で何かを訴えている。何を言っているかわからない。でも——大きな声だった。ずっと叫んでいた。ずっと。何年も。何年も叫び続けて、誰にも聞こえなくて、誰にも届かなくて。

 

桜はただ聞いた。

 

意味はわからなかった。わからなくてよかった。ただ聞いていた。

 

「はい」

 

「どうなった」

 

「萎んで……青くなって」

 

赤かった塊が、少しずつ色を変えていた。赤から紫に、紫から青に。もこもこした輪郭が縮み、小さくなっていく。叫び声が——静かになっていく。

 

「うん」

 

「あ、ごはんを、食べてます」

 

暗闇の中で、青くなった小さな塊が——何かを口に運んでいた。もぐもぐと。小さな手で。

 

「それから、鼻をかんでる」

 

ずびっ、と。不格好に。

 

「そのあとは」

 

「それから……どこかに歩いていって」

 

青い塊が、とことこと歩いていく。暗闇の中を。どこに行くのか、桜にもわからない。ただ歩いていって、どこかの隅で——。

 

「丸くなって寝てる」

 

小さく丸まって。膝を抱えて。

 

「どう感じてる」

 

桜の声が掠れた。

 

「寒い。さみしい」

 

「うん。そばに誰かいるかな」

 

桜は暗闇の中を見回した。

 

「先輩……ちがう」

 

衛宮士郎の顔が浮かんだ。でも違った。先輩はいつも温かい。でも今ここにいてほしいのは先輩ではなかった。

 

「遠坂先輩…でもない」

 

遠坂凛の顔。知っている。でも違う。彼女はいつも強い。強い人が隣にいても、この寒さは消えない。

 

「……とも少し違う」

 

顔も覚えていない母。でもその温もりを知らない。知らないものを求めることはできない。

 

「誰も——いない」

 

暗闇の中で、青い小さな塊が丸まっている。誰もいない場所で。ずっとそうしていた。何年も。蟲蔵の上で、教室の隅で、夕暮れの帰り道で。いつも一人だった。

 

「そうか」

 

ライダーの声が聞こえた。穏やかだった。

 

「ならキミが抱きしめてあげなさい」

 

「えっと、どうやって」

 

「君の胸のところにいる。そう思って、両手で自分の肩を抱くんだ」

 

桜は両手を持ち上げた。目を閉じたまま。右手で左の肩を、左手で右の肩を。自分自身を抱きしめるように。

 

暗闘の中で——青い小さな塊を、抱き上げた。

 

小さかった。こんなに小さかったのか。両腕の中にすっぽり収まる。冷たい。震えている。でも——抱きしめたら、少しだけ震えが止まった。

 

「はい」

 

「どうだ」

 

「あたたかい、です」

 

声が震えていた。

 

「でも、まだ少し寒い」

 

「これを飲みなさい。目を少しだけあけて」

 

桜は薄く目を開けた。

 

ライダーの手が差し出されていた。その手に——マグカップが載っている。白い湯気が立ち上っている。ホットミルク。いつの間に温めたのだろう。

 

桜は両手をほどき、マグカップを受け取った。両手で包んだ。陶器の温もりが掌に伝わった。

 

一口飲んだ。

 

温かかった。ミルクの甘さ。少しだけ蜂蜜が入っている。喉を通って、胸に落ちて、体の真ん中がじんわりと温まった。

 

「どうだ」

 

「あたたかい、です」

 

涙が出た。

 

突然だった。前触れもなく、目の奥が熱くなり、頬を伝い、顎先から滴った。マグカップの中にぽたりと落ちた。

 

声は出なかった。嗚咽もなかった。ただ——涙だけが、静かに、静かに流れ続けた。

 

何年分かわからない。蟲蔵の何年。教室の隅の何年。帰り道の何年。全部が溶けて、涙になって、流れていく。

 

ライダーは何も言わなかった。

 

ティッシュの箱を桜の手が届く場所に置いた。それだけだった。

 

桜は泣いた。声を出さずに。マグカップを両手で包んだまま。

 

しばらくして——涙が止まった。止まったというより、枯れた。もう出るものがなかった。

 

桜はゆっくりと横になった。ラグの上に。クッションに頭を載せて。両手はまだマグカップを持っていた。ライダーがそっとカップを取り上げて、卓に置いた。

 

「疲れたか」

 

「はい」

 

「ほかには。身体はどうだ」

 

桜は自分の体を感じた。重い。だるい。でも——嫌なだるさではなかった。蟲蔵の後の、あの吐き気をともなうだるさとは違う。

 

「なんだか、すこし疲れたけど。でも——心地よい気がします」

 

「うむ」

 

ライダーが毛布をかけた。薄い、柔らかい布。中東のテキスタイル。幾何学模様が織り込まれている。

 

「少し休んでいなさい」

 

桜は目を閉じた。

 

暗闇の中に——あの塊がいた。もう赤くない。もう青くもない。薄い紫色の、小さなもこもこした塊。丸まって眠っている。

 

「モクモクさんはどうだ」

 

「モクモク——」

 

桜は目を閉じたまま、微かに笑った。

 

「モクモクさんは。泣きつかれて、ちょっと安心して、寝てます」

 

「よろしい」

 

ライダーの声が遠くなった。

 

桜は眠った。

 

間桐の屋敷を出てから、初めて——安心して眠った。

 

---

 

桜が寝息を立て始めてから、ライダーは静かに立ち上がった。

 

マグカップを洗い、定食のパックを片づけ、ティッシュの箱を補充した。流し台の横に積まれたインテリア雑誌を整え、明日の食事の目星をつけた。定食屋の塩味が桜の好みには合わなかった。箸の止まり方でわかった。明日は別の店を探す。あるいは——自分で作るか。

 

レシピ本が要る。

 

ライダーは窓辺に立ち、冬木の街を見下ろした。二月の夜。街灯が点り、車のヘッドライトが通りを流れている。

 

あの屋敷から連れ出して、まだ一日。桜の心の傷は深い。一日や二日で治るものではない。

 

だが——今日、桜は泣いた。

 

泣けるということは、感じているということだ。感じているということは、まだ壊れていないということだ。壊れていないなら——治る可能性がある。

 

ライダーは窓を閉め、明かりを落とした。

 

ラグの上で、桜が丸くなって眠っている。薄い毛布に包まれて。泣いた跡が頬に残っている。

 

ライダーは桜から少し離れた場所に座り、曲刀を膝に置き、目を閉じた。

 

夜の見張りだ。桜が眠っている間、この部屋を守る。蟲が来ないように。闇が忍び込まないように。

 

王の夜。静かな夜。

 

桜の寝息だけが、部屋に響いていた。

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