桜「中東のライダー?」   作:ヤシの木の里

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「またね」

同盟が中断された翌日。

 

桜はクッションの上に座ったまま、動けないでいた。

 

朝食は食べた。ライダーが作った味噌汁と焼き鮭。塩加減はちょうどよかった。桜の好みを覚えてくれている。食べ終わって、皿を洗って、卓を拭いて。そこまでは動けた。

 

そこから——止まった。

 

胸の中に、何かが溜まっている。

 

感情、と呼べるほどはっきりしたものではなかった。もっと曖昧で、輪郭がなくて、名前がつけられない。聞きたいこと、言いたいこと、たくさんの事柄が——泥のように混ざり合っている。灰色になって、どれがどれかわからない。同盟が解消されたこと。衛宮邸を出てきたこと。アーチャーの言葉。セイバーの剣。先輩の顔。姉さんの背中。全部が溶け合って、一つの重たい塊になっている。

 

ライダーは壁際に座って曲刀の手入れをしていた。布で刀身を拭い、刃こぼれを確認する。いつもの作業。桜が黙っているとき、ライダーは急かさない。ただ傍にいて、自分の作業をしている。

 

「桜」

 

「はい」

 

「何か、抱えているな」

 

桜は膝を見つめた。

 

ライダーが曲刀を鞘に収めた。

 

「同盟のことか。それとも——衛宮とのことか」

 

桜は口を開いた。閉じた。もう一度開いた。

 

「わかりません」

 

正直に、それだけ言った。

 

同盟が中断される。それは不安だ。あの衛宮邸の居間で、みんなが顔を突き合わせて茶を飲んでいた時間が終わる。不安だ。

 

先輩や姉さんと会えなくなるかもしれない。嫌だ。学校では会える。でも放課後は。夕食は。あの台所は。嫌だ。

 

でもそれだけじゃなかった。

 

それらを呼び水にして、もっと深い場所から、色々なものが湧き出してきた気がする。泥水が井戸から溢れるように。一つ感情を動かすと、その下から別の感情が顔を出す。その下にまた別のものがある。どこまで掘っても底が見えない。

 

「色々……わかりません。そう言うしかないです」

 

ライダーは顎髭を撫でた。

 

「モクモクさんはどうしてる」

 

桜は目を閉じた。

 

暗闇の中に、モクモクさんがいた。薄紫の小さな塊。いつもの場所に。だが今日のモクモクさんは——おかしなことをしていた。

 

「モクモクさんは……自分の頭を掴んで」

 

「うん」

 

「それから引っ張って……千切ってます」

 

両手で自分の頭の上を掴み、左右に引っ張っている。もこもこした体が伸びて、真ん中が細くなって、ちぎれそうになっている。ちぎれかけて、戻って、またちぎれかけて。

 

「そうか。それは痛いだろうな」

 

桜は何も言わなかった。

 

何か言えば、感情が溢れてしまいそうだった。泥の堰が切れて、何もかもが流れ出してしまいそうだった。だから黙っていた。唇を閉じて、膝の上の手を握って、黙っていた。

 

ライダーは桜を見ていた。

 

「同盟については安心しろ——と言っても、信憑性がないだろうな。ふむ」

 

ライダーが腕を組んで考え込んだ。顎髭をもう一度撫でた。信憑性がない。自分でそう言うところが、この人らしいと桜は思った。大丈夫だ、とだけ言えば簡単なのに。大丈夫の根拠が薄いことを、自分で認めてしまう。

 

「あの」

 

「なんだ」

 

「私は——言いたいことがあるんです」

 

ライダーの手が止まった。

 

「……前に話そうとしたことか」

 

あの日のことだ。喉が詰まって、声が出なくて、拠点を飛び出して、路上で過呼吸になった日。先輩に抱きかかえられた日。あの日から——石はまだ喉の奥にある。

 

「はい」

 

「言えそうか」

 

桜は首を振った。

 

「言えません。きっと——ずっと言えないと思うんです」

 

声が震えていた。でも止めなかった。

 

「言わなきゃって思って。そう、言わなきゃいけないんです。ライダーにも、先輩にも、姉さんにも、いつか言わなきゃいけない。そう思ってる。でも、駄目で」

 

何を言ってるんだろう、と桜は思った。今問題なのは同盟が解消されたことだ。先輩に会えなくなるかもしれないこと。そのはずなのに——喉の奥の石が、また暴れ始めている。泥の中から浮かび上がってきて、口の中まで込み上げてきて。

 

でも出ない。出てこない。

 

「ずっと言えない、か」

 

ライダーは目を閉じた。

 

三秒。

 

「ならば仕方あるまい。それはそれでいい」

 

桜は顔を上げた。

 

「いい——ですか」

 

「もちろん。私は——君が言いたくないことがある、それを言ってくれただけで嬉しい」

 

「嬉しい……」

 

「言えないことがある、と伝えるのは勇気がいる。前回は伝えることすらできなかっただろう。今日はそれを口にした。大きな一歩だ」

 

桜は俯いた。

 

「でも——言えるほうが」

 

「そうとも言えないさ」

 

ライダーの声が穏やかに遮った。

 

「誰しも言えないことはある。それでも誰かと一緒にいる。それは嘘じゃない。言えることは言えばいい。言えないことは言わなければいい。大事なのは——その人と一緒にいられるかどうかだ」

 

桜の手が止まった。

 

「私は……」

 

「キミは誰といたい」

 

簡単な問いだった。複雑な感情の泥沼から、一つだけ掬い上げるような問い。

 

「先輩と」

 

それは迷わなかった。

 

「姉さんと」

 

それも迷わなかった。

 

ライダーは頷いた。

 

「うん。キミは——私に話せないこと、それ自体に悩んでいるようだな。誰に何を言うかではなく。言えない自分を、苦しんでいる」

 

桜は目を瞬いた。

 

そうかもしれない。ライダーに言えなくて苦しい。先輩に言えなくて苦しい。でもそれ以上に——言えない自分が、嫌だった。壊れている。普通の人間なら言えるはずのことが、言えない。蟲蔵に壊された部分が、まだ塞がっていない。

 

「そうかも……しれない」

 

「いいんだ、言えなくても。それはキミが悪いんじゃない」

 

「でも」

 

「君のせいじゃない。それで誰もキミを嫌わない」

 

「でも」

 

「君のせいじゃない」

 

二度目は——もっとゆっくりだった。

 

一語ずつ、石を置くように。桜の耳に、一つずつ届くように。

 

桜は黙った。

 

反論が出てこなかった。「でも」の先が見つからなかった。いつもなら三つも四つも「でも」が湧いてくるのに。二度目の「君のせいじゃない」が、三つ目の「でも」の行き場を塞いでいた。

 

ライダーが視線を窓の外に向けた。二月の冬木の街並み。灰色の空。乾いた風。

 

「私も言えないことがあった」

 

桜は顔を上げた。

 

「兄のことだ」

 

「お兄さん」

 

「トゥーラーンシャー。兄はなんというか——大胆な人でね。後先を考えずに動く。国庫の金を惜しげもなく使い、側近を取り替え、政の均衡を崩す。私が長年かけて組み上げた仕組みを、兄は一月で壊しかけた」

 

ライダーの声に苦味が混じった。

 

「兄に言いたいことがあった。おまえは何をしているのか。私が何のために——と。だが言えなかった。兄だからだ。年上で、血を分けた家族で、子供の頃から一緒に戦ってきた人だ。言えば関係が壊れる。壊れなくても、変わる。だから言えなかった」

 

桜は黙って聞いていた。

 

「兄だけじゃない。他にもあった。側近たちに。将軍たちに。言いたくて、言えなくて、飲み込んだ言葉がいくつもあった。王であっても——いや、王だからこそ、言えないことがあった」

 

「辛くなかったんですか」

 

「辛いときもあった」

 

ライダーの目が柔らかくなった。

 

「けれど、そういうとき——言わなくても繋がっている友がいた。何も言わずに隣に座って、茶を飲んで、黙っていられる相手がいた。言葉にしなくても、わかっている。わかっていなくても、いてくれる。それだけで——十分だった」

 

桜の胸が詰まった。

 

「キミにはどうだ」

 

「先輩。姉さん」

 

名前はすぐに出た。でも——。

 

「でも。そこまで……思ってもらえてるかどうか」

 

声が小さくなった。先輩にとって自分は「ただの後輩」だ。姉さんにとって自分は「関係の薄い妹」だ。大事に思ってくれているかどうか。自分のような人間を——壊れた、汚れた、言いたいことも言えない人間を、大事だと思ってくれているかどうか。

 

「うん。不安なのかな」

 

「不安です」

 

「大丈夫。それは安心していい」

 

「安心……」

 

「すぐには無理かもしれないが」

 

ライダーの声に、根拠のない確信があった。大丈夫だと言い切る根拠は——たぶん、ない。凛も士郎も、桜を大切だと明言したことはない。でもライダーは見ていた。衛宮邸で。学校の校門で。あの三人が並んで歩くのを。凛が桜の好みの砂糖を覚えていることを。士郎が桜の顔色を一瞬で読み取ることを。

 

「はい……」

 

桜は膝の上の手をゆっくりと開いた。

 

泥は消えていなかった。胸の中の灰色の塊は、まだそこにある。でも——少しだけ、輪郭が見えた気がした。泥の中に、いくつかの色が混ざっている。不安の青。寂しさの紫。怒りの赤。全部が混ざって灰色になっていたけれど、一つずつ見れば——色がある。

 

モクモクさんは、自分の頭を千切るのをやめていた。代わりに、両手で自分の頭を抱えて、うずくまっている。まだ苦しそうだった。でも、千切れてはいなかった。

 

「さて」

 

ライダーが立ち上がった。

 

「明日のお弁当は特別だ」

 

「お弁当……?」

 

「衛宮たちと話すといい。学校で」

 

桜は目を見開いた。

 

「行って——いいんですか」

 

同盟は解消された。ライダーは敵だ。敵のマスターが、敵の陣営の人間と接触する。それは——。

 

「もちろんだ。"約束"しただろう」

 

約束。

 

衛宮邸を出る朝、ライダーが桜に言った言葉。おまえはすぐにあの輪に戻れる。同盟が終わっても、おまえとあの二人の関係は別だ。保証する。

 

あれは——約束だったのだ。

 

「会ってきなさい」

 

桜は頷いた。

 

「はい」

 

声はまだ小さかった。喉の奥の石はまだあった。泥は消えていなかった。モクモクさんはまだうずくまっていた。

 

でも——明日、先輩に会える。姉さんに会える。お弁当を持って、学校に行ける。それだけで——今は、十分だった。

 

「ライダー」

 

「何だ」

 

「お弁当、何にしますか」

 

「おまえの好きなものを作れ」

 

「じゃあ——卵焼きにします。お弁当用に小さく作って」

 

「よろしい」

 

ライダーが台所に向かった。明日の下ごしらえを始めるのだろう。

 

桜はクッションの上で膝を抱えたまま、その背中を見ていた。大きな背中。あの背中におぶってもらった日のことを思い出した。

 

言えないことがある。ずっと言えないかもしれない。

 

でも——一緒にいられる。

 

それは嘘じゃない、とこの人は言った。

 

桜は目を閉じた。モクモクさんが、うずくまったまま、少しだけ顔を上げていた。灰色だった体が、端のほうから薄紫に戻りかけている。

 

明日は——先輩に会おう。姉さんにも。お弁当を持って。

 

桜はゆっくりと立ち上がり、台所に向かった。

 

「手伝います」

 

「ああ。卵を頼む」

 

二人で台所に立った。ライダーがチーズを切り、桜が卵を溶く。明日のお弁当のための、小さな卵焼き。

 

台所に、卵を溶く音だけが響いていた。

 

その音に混じって——小さな足音がした。

 

桜が振り返ると、優希が布団から起き上がって、台所の入口に立っていた。折り紙の兜を片手に持って、もう片方の手で目をこすっている。眠気眼。髪が寝癖で跳ねている。

 

「起きちゃった?」

 

優希は無言で頷いた。

 

「ごめんね、うるさかったかな」

 

首を横に振った。うるさかったのではない。ただ——二人の声が聞こえて、目が覚めて、そのまま聞いていたのだろう。

 

「……クッションに座ってなさい。もうすぐ終わるから」

 

優希はクッションの上に座った。兜を膝に置いて、眠気眼のまま桜とライダーの背中を見ていた。

 

卵焼き用の卵液に、桜が砂糖を入れた。ライダーがチーズを刻んだ。明日のお弁当の話。先輩に会いに行く話。

 

優希は半分眠りながら、二人の声を聞いていた。

 

言葉の意味は——たぶん、あまりわかっていない。同盟も、聖杯戦争も、マスターも、この子には関係のない話だ。でも声の調子は聞こえている。桜の声が少し震えていて、でも途切れなくて。ライダーの声が低くて、穏やかで。卵を溶く音と、包丁がまな板に当たる音。

 

温かい音だった。

 

優希の瞼が重くなった。クッションの上で、膝を抱えて、小さく丸まった。兜が膝から滑り落ちた。

 

---

 

ライダーの手が止まった。

 

包丁を置き、顔を窓のほうに向けた。

 

「どうしました?」桜が聞いた。

 

「少し出る」

 

ライダーの声が変わっていた。穏やかさは残っているが、その下に——警戒の芯が通っている。

 

「外に気配がある。教会の人間だ。すぐ戻る」

 

桜の顔が強張った。

 

「大丈夫だ。敵意はない。おそらく——先日の件の返答だろう」

 

ライダーは曲刀を腰に佩き、窓から外に出た。音もなく。猫のように。

 

桜は台所に立ったまま、窓の外を見た。冬の夜空。星がいくつか見える。ライダーの気配が遠ざかり、消えた。

 

優希はクッションの上で半分眠っていた。桜は卵液にラップをかけて冷蔵庫にしまい、優希の隣に座った。

 

「もう少ししたら戻ってくるからね」

 

優希は薄く目を開けて、桜を見た。また閉じた。

 

---

 

十五分ほどで、玄関の鍵が回る音がした。

 

「戻った」

 

ライダーが入ってきた。曲刀は鞘に収まっている。使った形跡はない。戦闘はなかったのだ。

 

桜が立ち上がった。

 

「何があったんですか」

 

「優希のことだ」

 

ライダーは靴を脱ぎ、部屋に上がった。桜の隣に腰を下ろした。

 

「帰る場所がわかった。言峰が調べてくれた。近所に親戚がいる。母方の叔母。子供はいないが、引き取る意思がある。あとは教会が処理をするそうだ。身元の書類、移送の手配。監督役の権限で、魔術関連の記憶処理も含めて」

 

桜の手が膝の上で握りしめられた。

 

「……大丈夫でしょうか」

 

「何がだ」

 

「その叔母さんのところが、ちゃんとした場所かどうか。優希ちゃんが——また、ひどいめに」

 

桜の声が詰まった。自分が遠坂から間桐に渡されたように。良かれと思って引き取られた先が、地獄だったように。

 

ライダーは桜を見た。

 

「わかっている。だから——私が見届ける」

 

「見届ける?」

 

「霊体化して、教会が優希を届けるまで同行する。叔母の家まで。家の様子を見て、この子が安全だと確認するまで離れない」

 

桜は——ライダーの顔を見つめた。

 

最後まで見届ける。兵站の王。補給線を最後の兵士まで届ける。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼はいらん。当然のことだ」

 

---

 

翌朝。 

 

今日は学校に行く日だ。だが、その前にやることがある。それは、優希を見送ること。

 

優希は卓の前に座っていた。朝食は桜が作った卵焼きとおにぎり。昨日の残りの味噌汁。ライダーが温め直した。

 

優希はおにぎりを食べていた。小さな手で、ゆっくりと。

 

桜が卓の向かいに座った。

 

「優希ちゃん」

 

優希が顔を上げた。

 

「おばさんのところに——帰れることになったの」

 

優希の目が——瞬いた。

 

帰る。帰る場所。その言葉の意味を、この子が理解しているのかどうか、桜にはわからなかった。蟲蔵にいた間、「帰る場所」という概念は存在しなかったはずだ。蟲蔵が全てだった。それより前の記憶は——あるのかもしれない。ないのかもしれない。

 

優希は何も言わなかった。おにぎりを持ったまま、桜を見ていた。何が何やら、という顔だった。帰る。どこに。なぜ。ここではないどこかに。この部屋を出て、この人たちと離れて、知らない場所に行く。

 

桜は卓を回って、優希の隣に膝をついた。

 

両腕で優希を抱きしめた。

 

小さな体だった。おにぎりが桜の肩口に押しつけられた。米粒が少しこぼれた。構わなかった。

 

「帰れるんだよ」

 

桜の声は震えていた。

 

「あったかいところに。怖くないところに。ごはんを食べて、学校に行って、お布団で眠れるところに」

 

優希の体が——ほんの僅かだけ、力を抜いた。強張っていた肩が、少し下がった。

 

「大丈夫だから。ライダーが一緒に行ってくれるから。届けてくれるから。ちゃんと安全なところか、見届けてくれるから」

 

優希はおにぎりを卓に置いた。小さな手で、桜の服を握った。ぎゅっと。何も言わなかった。言葉はなかった。でも——手が、握っていた。

 

桜は優希の頭を撫でた。短い髪。寝癖の跡。

 

「もし——もし何かあったら」

 

桜は優希の顔を見た。目を合わせた。

 

「誰かに言うんだよ。先生でも、近所の人でも、誰でもいい。言えなくてもいい。逃げていいから。走って、逃げて。そしたら——きっと誰かが見つけてくれる」

 

優希が桜を見ていた。大きな目。涙はなかった。でも——何かが、この子の目の奥で動いた気がした。

 

---

 

ライダーが玄関に立った。

 

外出用のジャケット。腰の曲刀は霊体化させている。教会の迎えが来るまで、優希を連れて行く。合流地点は商店街の外れ。そこから教会の車で移動し、空港へ。

 

優希は靴を履いた。小さなスニーカー。ライダーが買ったもの。

 

折り紙の兜を——鞄に入れた。桜が見つけた小さなリュックサック。中には着替えと、歯ブラシと、折り紙の兜と、士郎が折ったへしゃげた鶴。

 

ライダーが右手を差し出した。

 

大きな手。温かくて、乾いた手。

 

優希はその手を見つめた。二秒。三秒。

 

小さな手が、ライダーの手に置かれた。

 

指が——握り返した。ライダーの指ではない。優希の指が。小さな指が、大きな手を握った。自分から。

 

ライダーは何も言わなかった。ただ手を握り返した。優しく。壊れないように。

 

「行くか」

 

優希が頷いた。

 

桜は玄関の前に立って、二人を見送った。大きな背中と、小さな背中。手を繋いで、雑居ビルの階段を降りていく。

 

階段の踊り場で、優希が振り返った。桜を見上げた。

 

口が動いた。

 

声は——出なかった。出なかったが、唇の動きは読めた。

 

「またね」

 

桜は手を振った。笑顔で。泣きそうだったけれど、笑顔で。

 

二つの足音が階段を降りていった。大きな足音と、小さな足音。やがて一階の扉が開いて、閉まった。

 

桜は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。

 

それから——クッションの上に座り、膝を抱えた。

 

部屋が静かだった。二人分の足音がない。三人で鍋を作った台所。ぐにゃぐにゃの豆腐。プリンの蓋。皿を拭こうとして落とした手。眠りながら泣いた頬。

 

モクモクさんが——見えた。

 

目を閉じなくても。暗闇の中ではなく、午前の光の中に。薄紫の小さな塊が、桜の胸のあたりで、優希が出ていった扉のほうを見ていた。

 

小さく手を振っているように見えた。

 

もこもこした手で。不格好に。

 

桜はモクモクさんを抱きしめた。自分の肩を両手で抱いて。あの最初の日にライダーが教えてくれた抱きしめ方で。

 

「……大丈夫」

 

声に出して言った。誰に言ったのかわからなかった。優希に。モクモクさんに。自分に。

 

「大丈夫だから」

 

台所に、昨日の卵液が冷蔵庫の中で待っている。今日のお弁当。先輩に会いに行く。姉さんにも。

 

桜は立ち上がった。

 

台所に向かった。卵焼きを作ろう。今日のために。

 

一人の台所は静かだった。すこし——寂しかった。

 




入試の結果待ちに書きはじめましたが、そろそろ発表なので、次の投稿は明後日か明明後日になります。
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