入試は無事落ちました。
教会の地下。
ギルガメッシュは遠見の宝具を手に、くつくつと笑っていた。
包帯に覆われた体を長椅子に横たえたまま、黄金の板の表面に映る冬木の朝を見ている。衛宮邸の庭で剣を交わすライダーとアーチャー。門を越えて走り去るライダーと桜。残された三人の顔。
「何がおかしい」
言峰が階段を降りてきた。
ギルガメッシュは答えなかった。ただ笑っていた。唇の端が裂けて血が滲んだが、拭わなかった。
「ギルガメッシュ。何を見た」
「見たいなら自分で見ろ、綺礼。――いや、おまえには見えまい。盤の上の駒しか見えぬ男には、盤そのものの歪みは見えん」
「何の話だ」
ギルガメッシュは遠見の板を閉じた。金色の光が消え、地下室に闇が戻った。
「少しは面白くなりそうだ」
それだけ言って、目を閉じた。
言峰は問い直さなかった。この王が答えないと決めたことを引き出す手段は、言峰にはない。
階段を上がりながら、言峰は考えた。ギルガメッシュが笑うとき、それは何かを見抜いたときだ。他の誰にも見えていないものを。あの王の千里眼は物理的な視力ではなく、世界の構造を読む力だ。
何を見た。
何が面白い。
答えは出なかった。
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穂群原学園。
桜は学校に来た。
校門の前で、いつもの場所に立っていた。制服を着て、鞄を持って、少しだけ所在なさそうに。昨日と何も変わらない。同盟が決裂したことも、ライダーとアーチャーが刃を交わしたことも、桜の制服には刻まれていない。
「——おはようございます、先輩。姉さん」
士郎の胸が詰まった。
いつも通りだった。いつも通りの声。いつも通りの笑顔。あの薄い膜が——少しだけ、戻っているように見えた。間桐邸にいた頃のそれとは違う。ライダーの傍で外れかけていた膜が、もう一度、薄くかかっている。
「おはよう、桜」
「おはよう」凛が言った。声はいつも通りだった。完璧にいつも通りだった。
三人は校門をくぐった。並んで歩いた。昨日までと同じ配置。士郎が左、桜が真ん中、凛が右。
教室では何事もなく授業が進んだ。昼休みには三人で弁当を食べた。桜の弁当は——ライダーが作ったものだった。卵焼きが入っている。甘い卵焼き。焼き加減が均一で、形も整っていた。あの男の料理の腕は上がっている。
午後の授業。放課後。チャイムが鳴った。
士郎は鞄を持って立ち上がった。
「桜」
「はい」
「送っていくよ。途中まで」
桜が目を見開いた。凛を見た。
凛は窓の外を見ていた。冬の空。雲は薄い。
桜はもう一度、凛を見た。止められると思ったのだ。同盟は中断した。ライダーは敵だ。ライダーの拠点に向かう桜を送るのは——敵陣に近づくのと同じだ。凛が止めるのが道理だった。
凛は——何も言わなかった。
鞄を持って立ち上がり、教室を出て行った。振り返りもしなかった。
士郎が一歩踏み出しかけて——止まった。
違和感。
凛が止めなかった。それ自体が、おかしい。昨日まで凛は、あらゆる行動に合理的な判断を挟んでいた。士郎が桜に会いに行きたいと言えば、理由を整理し、優先順位を示し、許可するか却下するかを明確にした。
今日は——何も言わなかった。止めも、許可もしなかった。ただ、行った。
それは凛が考えることをやめたのではない。考えた結果——止める理由がないと判断したのか。あるいは——止めたくなかったのか。
士郎は桜を見た。
「行こう、桜」
「はい」
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衛宮邸。
凛はソファに倒れ込んだ。顔からソファに突っ伏し、三秒そのまま動かなかった。
アーチャーが霊体化を解き、壁にもたれて立った。
「帰ったか」
「帰ったわよ。衛宮くんは桜を送ってった。止めなかった。止める理由がなかった。だって——桜は桜でしょう。敵のマスターだけど、妹でしょう」
凛はソファに突っ伏したまま、くぐもった声で続けた。
「アーチャー、聞いて。愚痴。聞いてくれなくていい。聞き流して」
「聞こう」
「ライダーに疑問を言ったのは正しかった。正しかったと思う。明らかに詐術だったもの。アンタは信頼してるから気になるんだって言ったけど、それを差し引いてもあの疑問は正しい」
凛は顔を上げた。
「でも——ライダーが脱落した後のこと、考えた?」
「考えている」
「バーサーカーとランサー。この二つを、セイバーとアーチャーの二騎で処理しなきゃいけない。バーサーカーの命は無数。ランサーは一対一の戦闘力ならセイバーと互角かそれ以上。この二つを同時に相手にするのは——」
「荷が重い。わかっている」
「荷が重いのよ!」凛がソファの上で跳ね起きた。「ライダーがいれば三騎対二で当たれた。ライダーの統率力があれば連携も取れた。あの男の防衛結界があれば拠点の安全も確保できた。それを全部——」
凛は頭を抱えた。
「切った。私が切った」
「ライダーが、だ。凛は疑問を口にしただけだろう」
「それはそうだけど、ライダーがあの判断をしたのは私の言葉のせい。そして、その判断は間違ってない。だからこれは私の責任」
凛は指を折り始めた。
「利害から考えれば——切るべきではなかった。ライダーの相手をするのは未知数だけど、バーサーカーは明らかな脅威。命が無数にあって、耐性を獲得する。ランサーはどうやら言峰の駒で、言峰は計略に長けてる。この二つを相手にするために、ライダーとの同盟を維持するほうが——合理的には——正しかった」
凛は両手で顔を覆った。
「なのに、なぜ間違えたんだろう。いいえ、分かってる。信頼を計略で穢すのが許せなかった。操作するみたいなやり方をライダーがするのが、嫌だった。私も、きっと衛宮くんも、セイバーも」
アーチャーは壁から背を離した。腕を組み、天井を見上げた。
「……間違えたのか。あるいは——間違えさせられたのか」
凛が顔を上げた。
「それこそが——計略だったのかもしれない」
アーチャーの声が低くなった。思考を言語化する速度が上がっている。
「昨夜のライダーの言葉を思い出せ。同盟は維持したい。だが無理なら仕方がない。凛はあれを詐術だと断じた。それは正しい。だが——あの詐術が、あまりにもあからさまだったことに、今になって気づいた」
「あからさま?」
「あの男は交渉の達人だ。本気で同盟を維持したいなら、俺に見破られるような言い方はしない。もっと巧妙に、もっと自然に、同盟継続の流れを作れたはずだ。なのに——わざと俺に読ませた」
凛の目が細くなった。
「つまり——最初から、決裂するつもりだったと?」
「そもそも、同盟の話をあのタイミングで出すこと自体、違和感がある。あの時、本当にすべきかだったのは――」
「バーサーカーという脅威にどう対処するか…」
「そうだ。誰かに詐術を指摘させること、疑わせること。それがライダーの狙いだったとしたら——辻褄が合う」
「辻褄?」
「解消の可能性が浮上し、ライダーはそれに合理的に対処した。事実上の解消に近い。だが、こちらはライダーを切るに切れない。バーサーカーとランサーがいる以上、ライダーを先に潰す余裕がない。セイバーと衛宮士郎は、解消が曖昧であるがゆえに、桜とライダーを守るように動き、そして俺たちはそれを止められない。つまり——ライダーとの同盟は曖昧になったが、当面は放置されるとわかっている。放置される時間、つまり最低限バーサーカーが退場するまでの時間を、ライダーは全て準備に回せる」
凛の指が止まった。
「陣地の移動。結界の構築。計略の準備。情報の整理。——全部、ライダーが最も得意とする分野じゃない」
「そうだ。あの男は城攻めの王だ。時間を与えれば与えるほど、城壁は厚くなる。そして——」
アーチャーが凛を見た。
「最も重大なことがある」
「何」
「ライダーはこちらの手の内を殆ど知っている」
凛の体が固まった。
「同盟の間に、全てを見せた。セイバーの戦闘能力。凛の宝石魔術の体系。衛宮士郎の強化魔術。衛宮邸の結界の構造。俺の投影魔術——真名以外は把握しているだろう。セイバーの真名については、場合によっては幾つか候補を既に考えてるかもしれん。そして翁の切離しの儀式では、俺の魔術体系の根幹に近い部分まで見せた」
凛の顔から血の気が引いた。
「一方——こちらはライダーの何を知っている。真名がサラディンであること。曲刀で戦うこと。翁との縁で不可侵があること。それだけだ」
「それだけって——」
「それだけだ、凛。あの男がどんな宝具を持っているか、知っているか」
凛は口を開き——閉じた。
知らない。
真名は早い段階でわかった。サラディン。アイユーブ朝の建国者。歴史書を読み漁り、逸話を列挙し、性格を分析した。だが——宝具については一度も確認していなかった。庇護の能力は確認した。だがそれは宝具なのかスキルなのかすら不明だ。どんな陣を敷けるのか。どんな奥の手があるのか。
信頼していたから聞かなかった。
同盟者だから、知る必要がないと思った。翁の抑止力になり、臓硯を潰し、条文を結び、茶を淹れてくれた。それだけの理由で——相手の本当の手の内については、知らないまま来ていた。
「もう聞くことはできない。だって——同盟を理由にすることができないから」
凛の声が掠れた。
「正当性と手続き。信頼と善意。条文と庇護。それをいかに使いこなす男かを——私たちはようやく思い知ったのね。思い知るのが、遅すぎた」
凛はソファに深く沈み込んだ。
「あの男はこれから終盤までの時間を全て、陣地の構築と計略に使える。こちらの手の内を知り尽くした上で。こちらはあの男の手の内を知らないまま。しかもバーサーカーという脅威からは合理的な理由で守られる。——完璧な非対称よ」
アーチャーは沈黙していた。
凛は天井を見上げた。
衛宮邸の天井。シミがある。ずっと前からあるシミ。何日もこの天井を見てきた。同盟の間、この屋敷でライダーと茶を飲み、条文を詰め、夕食を囲んだ。あの時間は——。
凛はため息をついた。
デカデカと。腹の底から。衛宮邸の天井に跳ね返るほどの大きなため息を。
「……ぜんっぶ計算だったのかしら。あの茶も、あのクッキーも、あの味噌汁のメモも」
「わからん。わからんのが——最も厄介だ」
「ね、アーチャー」
「何だ」
「敵にすら茶を出す王って、すごいと思ってたのよ。でも考えてみたら——敵に茶を出すことで敵の警戒心を削るのって、最も古典的な懐柔策の一つよね」
「ああ」
「計算じゃないかもしれないけど。計算だったとしても別に不思議じゃないけど。——あんなにおいしい茶を淹れることないでしょ、普通」
アーチャーは何も言わなかった。
凛はソファから立ち上がった。
「やるしかないわ。バーサーカーとランサーを先に処理する。ライダーは最後に回す。時間はないけど、やるしかない」
「ああ」
「あと——」
凛は台所に向かった。
「私も茶を淹れるわ。あの男に負けてられない」
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通学路。
士郎とセイバーが桜を送っている。桜はライダーの拠点の方角へ歩き、士郎は二歩後ろを歩いている。セイバーは士郎の傍に。
桜の拠点まであと数分という距離で、ライダーの声が聞こえた。霊体化したまま、桜の傍から。
「桜。衛宮とセイバーが後ろにいる」
桜が足を止めて振り返った。
「え——先輩?」
士郎は隠れるつもりはなかった。手を挙げた。
「送ろうと思って」
桜の目が潤んだ。泣きはしなかった。だが目元が赤くなった。
「ありがとうございます、先輩。でも——大丈夫です。ここまでで」
「ああ。わかった。——また明日な、桜」
「はい。また明日」
桜は小走りに拠点へ向かった。ライダーの気配がそれに寄り添う。
士郎はその背中を見送り——踵を返した。
「セイバー。帰ろう」
「はい、シロウ」
二人が住宅街を戻り始めて、三十秒。
セイバーが実体化した。
剣を構えていた。
「シロウ——前方。来ます」
士郎の体が強張った。前方——衛宮邸の方角。坂の上。
夕日を背に、巨大な影が立っていた。
灰色の肌。盲いた目。斧剣。
バーサーカー。
そしてその足元に——紫のコートの少女。
「——見つけた」
イリヤの声が、夕暮れの坂道に響いた。