衛宮邸の居間に、あり得ない光景が広がっていた。
卓の周りに——セイバー、アーチャー、ライダー、バーサーカーを除く全員が座っている。士郎、凛、桜、イリヤ。サーヴァントたちは周囲に控えている。セイバーは士郎の隣に正座し、アーチャーは縁側に立ち、ライダーは壁際に座っている。バーサーカーだけは庭にいる。居間に入れるには大きすぎた。
卓の上にはコーヒーと茶菓子が並んでいる。
「——で、なんでこうなるわけ?」
凛が言った。手に負えない、という顔をしていた。
三十分前まで殺し合っていた相手と同じ卓を囲んでいる。同盟を中断したはずのライダーがいる。バーサーカーが庭にいる。意味がわからない。だが坂道で全員が止まってしまった以上、誰かが場所を提供するしかなかった。士郎が「うちに来い」と言った。全員が衛宮邸の玄関に現れた時、凛は凍りついた。
「紅茶のほうがよかったですか?」
桜がコーヒーポットを持って聞いた。
「いや——コロンビアじゃなくてブラジルが良かったのかも」士郎が首を傾げた。「豆の挽き方が粗かったか?」
「バグラヴァは好まんか」ライダーが皿を示した。中東の焼き菓子。薄い生地にナッツとシロップ。いつの間に作ったのか。拠点から持ってきたのか。
「ちょ——バグラヴァって何よ。いつそんなもの」
「昨日焼いた。持ち歩いていた」
「持ち歩いてたの!? 戦闘中に!?」
「兵站は——」
「兵站の基本って言ったら殴るわよ」
凛が頭を抱えた。アーチャーが縁側で無言で額を押さえた。セイバーがバグラヴァを一つ取り、齧り、目を見開いた。
「……甘い。これは——非常に」
「甘いだろう。中東の菓子は甘いものだ」
パタパタと、あーだこーだと声が飛び交う。士郎がコーヒーを淹れ直そうとして桜と手がぶつかり、桜が「あ、すみません先輩」と言い、凛が「砂糖取って」と言い、ライダーが自分のカップに砂糖を二杯入れ、セイバーがバグラヴァの二つ目に手を伸ばした。
その喧騒の中で。
イリヤは俯いていた。
こたつの端に座り、膝の上にカップを置き、誰とも目を合わせずにいた。バグラヴァには手をつけていない。コーヒーも飲んでいない。周囲の声を聞いているのか聞いていないのか。
桜が気づいて、イリヤの前にバグラヴァの皿を動かした。
「イリヤさん、どうぞ」
イリヤはバグラヴァを見た。見て——ぼそっと言った。
「……大変ね」
凛がコーヒーカップを置いた。
「慣れたわ」
ため息。深い、腹の底からのため息。何度目かわからない。この聖杯戦争でため息をつきすぎて、肺の容量が増えた気すらする。
イリヤが顔を上げた。凛を見た。凛は疲弊しきった顔をしていた。その顔を見て、イリヤは——少しだけ、肩の力が抜けた。この人も大変なのだ。自分だけではないのだ。
凛はカップを卓に置き、全員を見回した。
「で、なんでこうなったわけ?」
士郎が頬をポリポリと掻く。
「ライダーが茶にしようって言って、なんかこうなっちゃったな」
ライダーが訂正する。
「確かに私の提案ではあったが、まさかこうなるとは思っていなかった。平和的に協議するかたちに持ち込めたのは、間違いなく衛宮の功績だろう」
ライダーが士郎を見ると、士郎は照れて頬を掻くのを加速させた。凛はそれを見て今日一番のため息をついた。
「…これからどうするわけ?」
居間が静かになった。
士郎が口を開いた。
「戦う必要なんかないはずだ」
坂道でも同じことを言った。だが今は——全員が揃った場所で、もう一度言った。
ライダーが頷いた。
「同意する。少なくとも、ここにいる面子で殺し合う必然性は——薄い」
凛は指を組んだ。
「ライダーが聖杯を求めないというのは、もう嫌というほど聞いた。私たちは理解してる。嘘じゃないことも——たぶん、わかってる」
「たぶん、か」アーチャーが呟いた。
「黙ってなさい。——でも、理解することと信じきることは別よ。特にイリヤにとっては——信じられないでしょ」
イリヤは俯いたまま、小さく頷いた。
「それに」凛は続けた。「戦う必要がないって言うけど——それは、あんたたちの話。私にはある。遠坂の当主として、聖杯を手に入れる義務がある。アーチャーにも願いがある。セイバーにも。イリヤにも——アインツベルンの悲願がある。全員が聖杯を放棄できるなら話は簡単だけど、そうじゃない」
「なんのために」
士郎の声が硬くなった。
「桜の問題はなくなった。臓硯も翁もいなくなった。冬木の街は平和だ。イリヤも遠坂も——義務のために命をかけるなんて、俺は嫌だ。義務で人が死ぬのを見たくない」
凛は答えなかった。
正直に言えば——同意だった。今となっては、自分が本当に聖杯を求めているのかわからない。遠坂の悲願。二百年の家業。それは凛の背骨に埋め込まれた杭のようなもので、抜こうとすれば体ごと崩れる。だが杭の先に何があるのか——聖杯を手に入れて、何をしたいのか。その答えが、この数日で曖昧になっていた。
だがそれを、この場で言うわけにはいかない。
遠坂の悲願は軽くない。アインツベルンの悲願も。百年、二百年の歳月をかけて積み上げられた執念。それを「義務で命をかけるな」の一言で片づけられるほど、単純ではない。
居間がしんと静まった。
コーヒーの湯気だけが、卓の上でゆるやかに立ち上っている。
「——あの」
桜の声だった。おずおずと、小さな声で。
全員が桜を見た。
「あの、私——聖杯のことを、よく知らないんです」
凛が目を瞬いた。
「聖杯って、何なんですか。願いを叶える器、っていうのは聞きましたけど——具体的に、どういう仕組みで、何がどうなって、誰がどうなるのか。ライダーは聖杯を否定するって言ってますけど、否定するべきものなのか、否定しなくていいものなのか——判断する材料が、私にはないんです」
凛は桜を見つめた。
そうだ。桜は魔術師としての教育を受けていない。臓硯に蟲蔵で弄られはしたが、聖杯戦争の構造や御三家の歴史を体系的に教えられてはいない。
「……わかった。整理するわ」
凛は居住まいを正した。
「聖杯戦争は、遠坂、マキリ——間桐、アインツベルンの三家が共同で始めた儀式よ。目的は聖杯の完成。聖杯は万能の願望機で、七騎のサーヴァントの魂を燃料にして起動する。サーヴァントが脱落するたびに魂が聖杯に注がれて、七騎全てが脱落したとき——聖杯が完成する」
「燃料……」桜が呟いた。
「残ったマスターが、聖杯に願いをかける権利を得る。ここまでは知ってるわよね」
桜が頷いた。
「問題はここから」凛はイリヤを見た。「イリヤ。聖杯の器について——あんたのほうが詳しいでしょう」
イリヤはバグラヴァを見つめていた。手はつけていない。
長い沈黙の後、イリヤが口を開いた。
「聖杯には器がいる。サーヴァントの魂を受け止めて、願望機として機能させるための……入れ物」
「入れ物って?」
「人間よ」
桜の目が見開かれた。
「アインツベルンは——聖杯の器になれるホムンクルスを作ってきた。二百年かけて。聖杯戦争のたびに、一体ずつ。器になるホムンクルスは、戦争の終わりに聖杯と一体化して——」
イリヤの声が途切れた。
「——死ぬ」
居間の空気が、凍った。
「聖杯が完成するとき、器は人としての機能を失う。中身が聖杯に置き換わる。器だったものは——もう、人間じゃなくなる」
「イリヤ」士郎の声が震えていた。「おまえが——器なのか」
イリヤは答えなかった。答えないことが、答えだった。
士郎が立ち上がった。椅子が倒れた。
「ふざけるな——! そんなの——」
「黙って座れ、衛宮士郎」
アーチャーの声が鋭く飛んだ。
「感情で叫んでも何も変わらん。最後まで聞け」
「だけど——!」
「いったん、最後まで聞こう」
ライダーの声だった。穏やかだが重い。
士郎は二人を見た。アーチャーの冷たい目と、ライダーの静かな目。まるで違う二つの目が、同じことを言っていた。今は聞け、と。
「俺は——何を言われても、絶対に譲らないからな」
士郎は椅子を起こし、座った。拳を膝の上で握りしめている。白くなるほどに。
凛が続けた。声は平静を保っていたが、指先が微かに震えていた。
「聖杯の器はイリヤ。それは第五次のために作られたアインツベルンのホムンクルス。そして聖杯の中身——サーヴァントの魂が注がれる先は、冬木の地下にある大聖杯。大聖杯が起動すると、孔が開く。根源への孔。魔術師の悲願——根源到達」
「根源……」桜が呟いた。
「遠坂の悲願は根源到達。アインツベルンの悲願は——第三魔法の復元。天の杯。魂の物質化」
「マキリは?」
凛は口を閉じた。
「間桐の悲願は——正直、わからない。臓硯が何を考えていたか、今となっては」
桜は俯いた。間桐の名前が出るたびに、背中が僅かに強張る。
イリヤがバグラヴァを一つ取った。小さく齧った。甘い。甘すぎるくらいに甘い。
「全部話したわよ。これが聖杯戦争の構造」
凛が両手を卓に置いた。
沈黙が落ちた。
ライダーが口を開いた。
「一つ聞きたい」
全員がライダーを見た。
「願いを叶える、とは——具体的には何が起きる」
凛が眉を寄せた。
「膨大な魔力で現実に願いを具現化する。根源から引き出した力で——」
「そのかたちは」
「かたち?」
「願いが叶うとき、それはどのようなかたちで現実に反映される。剣を願えば剣が現れるのか。平和を願えば戦争が終わるのか。死者の蘇生を願えば——どのような過程で蘇るのか。具体的なメカニズムを、誰か知っているか」
凛は口を開き——閉じた。
アーチャーも黙った。
セイバーも。
イリヤも。
誰も答えられなかった。
聖杯は万能の願望機。それは御三家が二百年にわたって追い求めてきた前提だ。だがその前提の先——願いがどのようなかたちで叶うのか——を具体的に検証した者は、この場にいなかった。
「……わからない」凛が認めた。「聖杯の出力メカニズムは、大聖杯の設計に関わる。設計情報はアインツベルンが持っているはずだけど——」
イリヤが首を振った。
「私も知らない。教えられなかった。器としての機能は教育されたけど、聖杯がどう願いを叶えるかは——おじいさまたちが管理してた」
「ただ、それがどう顕現するのかまで含めて、儀式の実践と改善のプロセスと言えるわ」
ライダーは茶碗を置いた。
「ならば——調査する必要がある」
「調査?」
「聖杯が願いを叶えるメカニズムが不明だということは、それが害あるかたちで実現しないとも限らないということだ。万能を謳う器に、無条件で願いを委ねることは——王として許容できない」
凛は反論しかけた。遠坂の悲願を疑われている。だが——反論の言葉が、出てこなかった。失敗するなら、それを含めて魔術師は学び、改善に努める。ただ王という立場ではそうはいかないだろう。
ライダーの懸念は正当だった。
メカニズムがわからないものに、命を懸ける。それは——信仰ではなく、賭けだ。しかも賭けの配当すら不明な盲目の賭け。
「調査ってどうするの。大聖杯は地下にあるけど、直接見に行くのは——」
「教会の記録、御三家の文献、過去の聖杯戦争の結果。手がかりはあるはずだ。何が起きたか。過去の戦争で聖杯は起動したのか。起動したなら、何が起きたのか」
凛は考え込んだ。第三次聖杯戦争。冬木の大火——いや、あれは第四次か。父、遠坂時臣が参加した第四次。結末は——よく知らない。父は死んだ。それだけしか聞いていない。たしかに、継続を前提にしたとしても、その情報収集をやっておくのは合理的だ。
「……わかった。調べる価値はある。少なくとも——知らないまま突き進むよりはいい」
凛が折れた。折れたというより——同意した。自分でも知りたかったのだ。聖杯が何をもたらすのかを。
「お茶のおかわり、用意しますね」
桜が立ち上がった。卓の上の空になったポットを持って台所に向かおうとした。
ふらり、と体が揺れた。
「桜——!」
士郎が手を伸ばした。桜の腕を掴んだ。桜の体が士郎にもたれかかった。ポットが畳の上に落ちた。中身はもう空だったから、こぼれはしなかった。
「すみません、先輩。少し、ふらっと——」
「座ってろ。俺がやる」
「大丈夫です。ちょっと立ち上がるのが早かっただけ——」
「大丈夫じゃないわよ」
凛が桜の傍に来た。桜の顔を見た。顔色が悪い。唇が少し白い。
「無理もないわ。ここ何日かで大変なことばかりだったもの。臓硯のこともあるし——蟲蔵にいた影響が、今になって出てるのかもしれない」
凛は桜の額に手を当てた。熱はない。だが魔力の流れが——僅かに、乱れている気がした。
「そうだ。今のうちに身体を調べておきましょう。臓硯の蟲がまだ体に残ってる可能性もあるし、魔術回路の状態も確認したい。あんた、間桐にいた間ろくに検診もしてないでしょう」
「検診は——したことないです」
「でしょうね。ウチの工房で診る。ライダー、構わない?」
ライダーは頷いた。
「桜の健康が最優先だ。必要なら何でもしろ」
桜は士郎に支えられて座り直した。
「すみません。ご迷惑を——」
「迷惑じゃない」
士郎と凛が同時に言った。顔を見合わせ、少しだけ苦笑した。
イリヤはバグラヴァの二つ目を齧りながら、その光景を見ていた。
みんなが桜を心配している。先輩も、姉も、サーヴァントも。一人の少女が立ち眩みをしただけで、全員が動く。
自分がふらついたら——バーサーカーが支えてくれるだろうか。支えてくれる。でもバーサーカーの手は大きすぎて、体温がなくて、言葉がない。
イリヤはバグラヴァの最後の一欠片を口に入れた。
甘かった。