桜「中東のライダー?」   作:ヤシの木の里

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王と人

イリヤは荷物をまとめた。荷物といっても大したものはない。教会に持ち込んだのはコートと着替えと、言峰が用意した毛布だけだった。

 

教会の門を出るとき、言峰が見送った。

 

「いつでも来るといい、イリヤスフィール。教会は中立地帯だ。おまえを拒む理由はない」

 

イリヤは言峰を見上げた。

 

黒い神父服。薄い笑み。切れ長の目。親切な言葉。親切な——はずの言葉。

 

こうしてみると、やはり底知れない怪しさがある。この男が何を考えているか、イリヤにはわからない。わからないが、善意ではないだろうという確信だけはあった。善意でない人間が親切にするのは、目的があるからだ。その目的が何かは——まだ見えない。

 

一方で。

 

イリヤは森の道を歩きながら考えた。バーサーカーが霊体のまま傍に従っている。

 

ライダーは——怪しくなかった。

 

坂道で戦いを止め、茶にしないかと言い、衛宮邸でバグラヴァを出し、聖杯の調査を提案した。全てが一貫していた。善意で動き、善意を隠さず、善意のかたちで場を治めた。嘘がないように見えた。裏がないように見えた。

 

それが——怪しかった。

 

人間は裏があるものだ。イリヤはアインツベルンの城で、おじいさまたちの間で育った。ホムンクルスの製造者たち。彼らは目的のためにイリヤを作り、目的のためにイリヤを育て、目的のために聖杯戦争に送り出した。善意はなかった。あったのは機能だけだ。

 

言峰には裏がある。だから理解できる。裏がある人間の行動は予測できる。

 

ライダーには裏がない——ように見える。だから理解できない。

 

裏がないことが最大の裏なのか。それとも本当に裏がないのか。アーチャーはそれを「天然の統治者」と呼んだ。イリヤは別の言葉を使いたかった。天然の——何だろう。わからない。

 

城の門が見えた。ホムンクルスのメイドたちが門の前に立っている。

 

「おかえりなさいませ、お嬢様」

 

「ただいま」

 

城の中に入った。廊下を歩き、階段を上がり、自室の扉を開けた。天蓋つきの寝台。暖炉。書棚。カーテンは——開けた。帰ったら開けようと、教会で決めていた。

 

冬の日差しが部屋に入った。

 

イリヤは寝台に座った。

 

調べる、とライダーは言った。聖杯のメカニズムを。願いがどのように実現するのかを。

 

だがイリヤには調べる手段がない。おじいさまたちに聞いても教えてくれないだろう。アインツベルンの長老たちは必要な情報しか渡さない。器としての機能。戦闘の段取り。それ以外は——知らなくていい、と。ホムンクルスのメイドたちに聞いても無意味だ。彼女たちはイリヤより知らない。

 

どうしたらいいんだろう。

 

イリヤは寝台から降り、中庭に面した窓を開けた。

 

バーサーカーが中庭にいた。実体化して、いつもの場所に立っている。門番のように。墓碑のように。

 

イリヤは階段を降り、中庭に出た。バーサーカーの脚に近づき、手を伸ばした。

 

巨人の脛に触れた。

 

固くて、冷たかった。

 

鉄と岩を混ぜたような肌。人間の体温がない。言葉もない。表情もない。盲いた目は空を見ている。何も映していない。

 

けれど——何よりも安心できた。

 

この手が、自分を守ってくれる。この体が、自分と敵の間に立ってくれる。言葉がなくても。温もりがなくても。バーサーカーはいつもここにいる。十年間、イリヤの傍にいなかった誰かとは違って。

 

イリヤはバーサーカーの脛にもたれかかった。

 

冷たい。でも固い。崩れない。

 

「バーサーカー」

 

返事はなかった。

 

「わかんないことだらけ。聖杯のことも、ライダーのことも、お兄ちゃんのことも」

 

返事はなかった。

 

「でも——あなたがいるから。いいよね」

 

風が吹いた。中庭の枯れ木が揺れた。バーサーカーは動かなかった。ただ立っていた。

 

イリヤはしばらくそうしていた。

 

---

 

遠坂邸。工房。

 

地下の工房は凛の父——遠坂時臣の代から使われている魔術師の作業場だ。棚には宝石が並び、床には術式陣が刻まれ、空気には微かに魔力の残り香がある。

 

桜は術式陣の中央に座っていた。制服のまま。凛に言われて上着だけ脱いでいる。

 

凛は桜の背後に立ち、両手を桜の背中に当てていた。目を閉じ、魔術回路を通じて桜の体内の魔力の流れを読んでいる。

 

ライダーは工房の入り口に立っていた。腕を組み、壁にもたれて、凛の作業を見守っている。

 

「桜。少しだけ魔力を流すわ。痛かったら言って」

 

「はい」

 

凛の掌から魔力が桜の体に入った。診断用の微弱な魔力。桜の魔術回路に沿って流れ、体内を巡り、凛の手に戻ってくる。回路の状態、魔力の流量、臓器への影響——。

 

凛の眉が寄った。

 

魔力の流れが——おかしい。

 

桜の魔術回路は間桐の蟲蔵で無理やり開かれたものだ。歪みがあるのは想定内。蟲の残滓が回路に付着しているのも想定内。だが——それとは別の、もっと深い場所に、何かがある。

 

凛は魔力の探りを深くした。桜の体の奥。魔術回路の根幹。通常の魔術師なら魂の座と呼ばれる領域。その近くに——。

 

何かが、ある。

 

黒い。

 

黒くて、重くて、底がない。桜の魔術回路の最深部に、何かが繋がれている。蟲ではない。臓硯の残滓でもない。もっと古く、もっと大きく、もっと——根源的なものに。

 

凛の手が震えた。

 

これは。

 

これは——聖杯に関するものだ。

 

凛は手を離した。桜の背中から。

 

「姉さん? どうかしましたか」

 

「……桜。少し、いい?」

 

「はい」

 

凛は桜の正面に回った。桜の目を見た。紫の瞳。穏やかで、少し不安そうな目。

 

「桜の体の中に——何か、繋がってるものがある。私の診断では正確に把握しきれないけど——これは蟲蔵の影響だけじゃない」

 

桜の顔が曇った。

 

「繋がってる……?」

 

「魔術回路の奥に。深い場所に。何か大きなものに接続されてる」

 

ライダーが壁から背を離した。

 

「遠坂。それは——」

 

「まだわからない。わからないけど——聖杯に関するものだと思う。魔力の質が、サーヴァントの魂と同系統なの。聖杯に注がれる魔力と同じ匂いがする」

 

ライダーの目が細くなった。

 

「詳しく」

 

「臓硯が桜に何をしたか——蟲蔵で回路を開いただけじゃないかもしれない。もっと根本的なことを——」

 

凛は言葉を切った。桜の前であまり踏み込みたくなかった。だが桜は黙って聞いている。聞く覚悟ができている目だった。

 

「イリヤに聞く必要があるかもしれない。イリヤは聖杯の器よ。器の構造を知っている。桜の体に繋がっているものが聖杯関連なら、イリヤの知識が手がかりになる」

 

ライダーが頷いた。

 

「同意する。イリヤに接触できるか」

 

「直接は難しいかもしれないけど——昨日の茶会で関係はできた。少なくとも、会って話すことは拒まないと思う」

 

ライダーは桜を見た。桜は俯いていたが、顔を上げた。

 

「ライダー。私の体に——何が入ってるんですか」

 

「まだわからない。だが——何かが結ばれている」

 

ライダーの声が低くなった。

 

「俺は結ぶものについて——直感がある。条約も、同盟も、契約も。何かと何かを繋ぐ構造を見る目がある。桜。おまえの体の中にあるものは——繋がれている。何かに。何か大きなものに」

 

「何かって——」

 

「もし、臓硯が小聖杯を模倣しようとしていたなら——」

 

凛が息を呑んだ。

 

小聖杯。聖杯の器のこと。イリヤがその役割を担っている。もし臓硯が、桜の体を使って別の器を——もう一つの聖杯を作ろうとしていたなら——。

 

「臓硯はマキリの当主よ。御三家の一角。聖杯の設計に関わった家の当主が、——桜を——」

 

凛は拳を握りしめた。

 

怒りだった。だが今は怒りを飲み込む。分析が先だ。

 

「調べる。徹底的に。イリヤにも協力を求める。桜の体の中にあるものが何か、聖杯が起動したとき桜に何が起きるか——全部、明らかにする」

 

凛は書棚に向かい、遠坂の記録を引き出し始めた。

 

ふと、手を止めた。

 

この聖杯戦争は——いまだに全然進んでいない。七騎中、明確に脱落したのはキャスターとアサシンの二騎だけ。残り五騎が全員健在。聖杯の起動にはまだ距離がある。

 

凛は苦笑した。

 

翁のせいで何日も振り回され、臓硯を潰し、同盟を組んで解消して、バーサーカーと戦って茶会を開いて——それだけやって、聖杯戦争としてはほとんど進んでいない。

 

恨めしいと思っていた。早く決着をつけたいと思っていた。だが——今は、むしろ進んでいなくてよかったのかもしれない。

 

聖杯に注がれた魔力はまだ二騎分。キャスターとアサシン。五騎分が足りない。起動には程遠い。つまり——桜の体に繋がっているものが何であれ、まだ本格的に機能していない可能性が高い。

 

時間がある。

 

調べる時間が。

 

「ライダー。しばらく時間がかかる。桜を頼むわ」

 

「承知した」

 

ライダーは桜の傍に戻り、毛布をかけた。

 

桜は目を閉じた。疲れていた。体の中に何かがあると言われて、怖くないわけがない。だが——姉がいる。ライダーがいる。先輩がいる。

 

今は、それでいい。

 

---

 

衛宮邸。庭。

 

夕暮れ。

 

士郎は木刀を振っていた。

 

素振り。百回。二百回。三百回。腕が痺れ、握力がなくなり、木刀が重くなる。だがやめない。

 

昨日、ライダーに強化したパイプを投げた。あの瞬間——体が勝手に動いた。アーチャーに教わった強化の理論。ライダーにも見てもらった実践の反復。二人の教えが体に染みついていて、考えるより先に手が動いた。

 

あれが——自分の力だった。

 

借り物ではない。セイバーの剣でも、アーチャーの弓でも、ライダーの曲刀でもない。衛宮士郎の手で、衛宮士郎の判断で、衛宮士郎の魔術で。

 

正直に言えば——ずっと後ろめたかった。

 

セイバーに頼っていた。戦闘はセイバー任せ。判断も、凛やライダーに委ねることが多かった。セイバーは何も言わない。だが士郎は知っている。自分が足手まといであることを。マスターのくせに前線に出て、マスターのくせに守られて。

 

女の子に頼るのは——と、何度も思った。セイバーは英霊だ。女の子と呼ぶのは失礼かもしれない。だが士郎の中の何かが、いつも引っ掛かっていた。

 

ライダーには頼れた。

 

あの男は大人だった。頼れる大人。戦えて、考えられて、判断できて、守ってくれる。ヒーローの一つの姿。士郎が切嗣に見ていたもの。あるいは——なりたいと思っていたもの。

 

だが、頼り切るのは違うのかもしれない。

 

アーチャーが言った。ライダーの善意は計略かもしれないと。それが正しいかどうかはわからない。だが一つだけわかったことがある。自分で考え、自分で判断しなければ——誰の善意も、正しく受け取れない。

 

あの坂道で、ライダーの曲刀を叩き落とした。あれは自分の判断だった。疑いたくないから、疑わなくて済むようにした。矛盾している。だがあの矛盾の中に——自分の足で立つ感覚があった。

 

木刀を振るう。

 

自分で考え、決断する。それには最低限の力が必要だ。魔術師として。人間として。衛宮士郎として。

 

五百回目を振り終えたとき、縁側にセイバーが座っていた。

 

いつからいたのか。正座して、庭を見ていた。士郎の素振りを見ていた。

 

「セイバー」

 

「はい」

 

士郎は木刀を下ろし、縁側に腰を下ろした。汗を拭う。二月の夕暮れだが、体は熱い。

 

「聞いてくれるか」

 

「もちろん」

 

「ライダーのことを——考えてた。あの人に頼ってた。同盟の間、ずっと。あの人がいれば大丈夫だって。あの人が判断してくれれば間違いないって。でも——」

 

士郎は木刀を見つめた。

 

「頼り切ってたら、あの坂道で何もできなかった。ライダーがイリヤを狙ってるかもしれないって気づいたのは、自分で考えてたからだ。自分の目で見て、自分の頭で判断して——だから動けた」

 

「はい」

 

「これからは——自分で考える。自分で決める。セイバーにも、遠坂にも、ライダーにも頼ることはあると思う。でも最後の判断は、自分でやる。そのために——」

 

士郎は木刀を握り直した。

 

「強くなる。最低限の力を持つ。力がなければ判断しても実行できない。判断するだけの人間には、なりたくない」

 

セイバーは微笑んだ。

 

士郎がセイバーの笑顔を見るのは、そう多くない。あの騎士は感情を抑える訓練を積んでいる。だが今の笑みは——抑えずに、自然に出たものだった。

 

「ライダーは尊敬すべき王です。統治者として、指揮官として、あの方の力量は——私が知る限り、最上の部類にある」

 

「ああ」

 

「しかし——王は王であって、人ではない」

 

士郎はセイバーを見た。

 

「王は民を守り、秩序を立て、条文を結ぶ。それは王の務めです。だが王の務めと、人としての正しさは——必ずしも一致しない。私はそれを知っています。私自身が——王であることと人であることの間で、ずっと」

 

セイバーは言葉を切った。その先は言わなかった。

 

「シロウは人として、正しいことをしようとしている。あの坂道でライダーの曲刀を叩き落としたのは、王の判断ではなく、人の判断でした。私は——それが正しいと思います」

 

士郎は汗を拭いた。

 

「ありがとう、セイバー」

 

「いいえ」

 

夕日が沈みかけている。庭に長い影が伸びている。士郎は木刀を置き、立ち上がった。

 

「今日は何が食べたい?」

 

セイバーの目が——ほんの僅かに、光った。

 

「クフタのトマト煮込みを」

 

「……セイバー。それ、ライダーが作ってたやつだろ」

 

「はい。先日ライダーの拠点でいただきました。肉団子を香辛料で煮込んだ中東の料理です。非常に美味でした」

 

「すっかりライダーの食べ物に影響されてるな」

 

「影響ではなく、純粋な評価です。あの料理は私の舌に合います」

 

「じゃあ作るけど——クミンとかあったかな」

 

「昨日ライダーが置いていったスパイスの袋が台所にあります」

 

「置いていった?」

 

「衛宮邸を出る際に、台所の棚に袋を一つ残していきました。中にクミン、コリアンダー、ターメリック、パプリカが入っていました」

 

士郎は台所に行き、棚を開けた。

 

小さな布袋があった。口を縛った紐に、メモが挟まれている。ライダーの字だった。聖杯の知識で補正された日本語。だが筆圧が独特で、どこか右から左に流れるような癖がある。アラビア語の書き手の癖だ。

 

メモにはこう書かれていた。

 

『クフタの配合。肉二百グラムに対しクミン小さじ一、コリアンダー小さじ半、塩少々。トマトは完熟を使うこと。煮込み時間は四十分。セイバーには多めに』

 

士郎はメモを読んで——笑った。

 

あの男は、敵になってからも——飯のことを考えている。

 

「セイバー。作るよ」

 

「はい。楽しみにしています」

 

台所に立ち、鍋を火にかけた。クミンの香りが立ち上った。乾いた、温かい、砂漠の香り。

 

冬木の夕暮れに、中東の香辛料が混じった。

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