アインツベルン城。
凛が正門をくぐると、メイドのホムンクルスが二人、ハルバードを手に出迎えた。前回と同じだ。だが今回は——刃を向けなかった。
「遠坂凛です。イリヤスフィールに面会を求めます」
「お嬢様にお伝えします。お待ちください」
凛は門の内側で待った。冬の森は静かだった。鳥の声もない。木々の枝が風に揺れる音だけが、石壁に反響している。
五分ほどで、メイドが戻ってきた。
「お通しします」
城の中。廊下を歩き、階段を上がり、三階の東の塔。前回言峰が通された部屋と同じだ。
扉が開いた。
イリヤは窓辺の椅子に座っていた。カーテンは開いている。冬の日差しが白い髪を照らしている。前回とは違う。部屋は片づいていた。本棚の本は整頓され、寝台のシーツは整えられ、暖炉に火が入っている。
「ずいぶん仲良くなったものね。私たち敵なのよ?」
イリヤの声は軽かった。軽いが、目は笑っていない。赤い瞳が凛を測っている。
「でも通してくれたじゃない」
「通さなかったら、門の前で凍えるでしょ。殺すほどの用事じゃないなら、入れたほうがお互いのためだもの」
凛は椅子を勧められ、座った。
メイドが茶を運んできた。ハーブティー。アインツベルン流の調合だろうか、香りが独特だった。凛はカップを受け取り、一口飲んだ。
イリヤを見ながら、凛は自分が安心していることに気づいた。
不思議だった。敵の城にいる。バーサーカーのマスターの前にいる。なのに——安心している。なぜだろう。
ライダーの前では、安心と同時に底知れなさがあった。善意が本物すぎて、逆に不安になった。言峰の前では、常に裏を読む緊張があった。
イリヤの前では——どちらでもなかった。
わかりやすすぎない。わかりにくすぎない。怒るときは怒る。泣くときは泣く。嘘をつくときは下手な嘘をつく。あの坂道で「大嫌い」と叫んだのは本心だった。バグラヴァを齧って黙り込んだのも本心だった。
理性的な人間なのだ。百年の悲願を背負い、十年の孤独を抱えて——それでも壊れずに、自分の頭で考えている。怯えて過ごした日々、助けてくれなかった人々、そういったものに触れてこないけれど、かといって善意を拒絶するわけでもない。
王ではなく。計略家でもなく。ただの——人。
だから安心できるのかもしれない。
「で、何を話したいわけ?」
イリヤがカップを置いた。
「言っておくけど、私がアインツベルンの知識に触れることは簡単じゃないわ。おじいさまたちは必要なことしか教えてくれない。ライダーが求めてること——聖杯のメカニズムがどうとか——は私もわからないし、知っていたとしても教えるとは限らない」
「それでいいわ」
凛は真っ直ぐにイリヤを見た。
「聖杯のメカニズムは後回しでいい。それより聞きたいのは——桜のことよ」
イリヤの目が僅かに動いた。
「桜?」
「桜の体に異常がある。臓硯の蟲蔵の影響だけじゃない、もっと深い場所に——何かが繋がっている。聖杯に関連するものだと思う。あんたに見てほしい」
「ふーん」
イリヤはカップを手に取り、ハーブティーを啜った。
「その桜は?」
「私の家にいるわ。工房で検診した後、休ませてる」
「あなたの。敵の工房に行けと?」
「そうなるわね」
沈黙が落ちた。
イリヤの赤い瞳が凛を見ている。計算している。敵の拠点に足を踏み入れるリスク。バーサーカーを連れていけば安全は確保できるが、遠坂の工房に大英雄を入れるのは凛が許さないだろう。かといって一人で行くのは——。
「……いいわ」
イリヤは立ち上がった。
「支度するから待ってなさい」
---
凛は待った。
三十分。一時間。二時間。
城の客間で、メイドが淹れてくれた二杯目のハーブティーを飲み干し、三杯目を断り、窓の外の森を眺め、指を組んで天井を見つめ、宝石の在庫を頭の中で確認し——。
三時間が経った。
「お待たせ」
イリヤが客間に入ってきた。服を着替えていた。紫のコートの代わりに、白いワンピースに薄手の上着。帽子を被っている。足元は白いブーツのまま。
「三時間は長いわよ」
「支度に時間がかかるの。髪を整えて、服を選んで、バーサーカーに留守番を言い聞かせて」
「言い聞かせるって——狂化してるのに通じるの?」
「通じないわよ。だから三時間かかったの」
凛は何も言わなかった。
---
遠坂邸。工房。
桜は術式陣の中央に座っていた。凛が出ていってから数時間。ライダーが傍についていた。
工房の扉が開き、凛が入ってきた。その後ろに——イリヤが続いた。
桜が目を見開いた。
「イリヤさん——」
「こんにちは、桜。具合悪いんだって?」
イリヤの声は事務的だった。だが工房に入った瞬間、赤い瞳が鋭くなった。魔術師の目。アインツベルンのホムンクルスとしての感覚が、桜の体から発せられる魔力の異常を即座に捉えている。
「凛。桜に触れていい?」
「どうぞ」
イリヤは桜の前に立った。小さな手を桜の胸の前にかざした。触れてはいない。数センチの距離。目を閉じた。
ライダーは壁際で腕を組み、黙って見ていた。
三十秒。一分。
イリヤの目が開いた。赤い瞳が——揺れていた。
「驚いた」
「何がわかった?」凛が踏み込んだ。
「聖杯に繋がってるわ。この子」
桜の体が強張った。
「魔術回路の最深部に接続点がある。大聖杯に繋がる管のようなもの。サーヴァントの魂が流れ込む経路が——この子の体を経由するように組まれてる」
「経由——?」
「擬似的な小聖杯ね」
凛の顔が青ざめた。
イリヤは続けた。声は冷静だったが、手が微かに震えていた。
「小聖杯は本来、私の役割よ。サーヴァントの魂を受け止めて、大聖杯に注ぐ器。私の体はそのために設計されてる。でもこの子の体には——同じ機能が、後から組み込まれてる。設計じゃなくて改造。無理やり、力づくで」
「臓硯が——」
「たぶん。蟲蔵で魔術回路を開いたとき、同時に接続点を埋め込んだんでしょう。回路を開くのは表向き。本当の目的はこっちだったのかもしれない。何年もかけて、少しずつ接続を太くして——」
イリヤは手を下ろした。
「今は細い管。サーヴァントが二騎しか脱落してないから、流れ込む魔力も少ない。いいえ、もしかしたら一騎分かも。翁が大人しく燃料になるとは思えないし。とにかく、だから桜の体は保ってる。でも——脱落が増えたら。四騎、五騎と魂が注がれたら——」
「桜の体が持たない」凛が呟いた。
「持たないどころじゃないわ。大聖杯との接続が強まれば、桜自身が聖杯の一部になる。私と同じ——いいえ、私より悪い。私は最初から器として設計されてるから、ある程度の容量がある。桜は改造された普通の人間よ。容量が足りない。溢れたら——」
イリヤは言葉を切った。
桜が自分の胸に手を当てていた。そこに何かがあると——今、はっきり自覚している顔だった。
凛は両手を卓に叩きつけた。
「対処法は。切り離す方法は」
「二つ。一つは柳洞寺でやった方法の応用。あの子供からアサシンを切り離したときと同じ要領で、桜と大聖杯の接続を断つ。キャスターの術式残骸がまだ使えるなら——可能性はある」
「もう一つは」
「大聖杯そのものを壊す」
凛の手が止まった。
「接続先を消せば、接続も消える。管がどれだけ太くなっても、流れ込む先がなくなれば——桜は解放される」
大聖杯を壊す。
凛は自分の手を見た。遠坂の当主の手。令呪を刻む手。二百年の悲願を受け継いだ手。
大聖杯を壊す。それは——遠坂の悲願を自分の手で終わらせるということだ。父が守り、祖父が繋ぎ、曽祖父が築いた二百年。根源への道。魔術師として最高の到達点。
それを壊す。
妹のために。
凛は目を閉じた。三秒。目を開けた。
「……柳洞寺のほうで行けるなら、そっちが先よ。大聖杯を壊すのは最終手段」
「そうね。それが妥当だと思う」
イリヤは頷いた。
凛の顔色が悪いことに気づいていた。大聖杯を壊すという選択肢が、凛にとって何を意味するか——アインツベルンの当主であるイリヤには、痛いほどわかっていた。
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同じ頃。冬木教会。
ライダーは教会の正門を叩いた。
門が開き、ランサーが立っていた。朱い槍を肩に担ぎ、片目を細めてライダーを見た。
「おいおい。敵のサーヴァントが正面から来るかよ」
「英雄王に用がある」
「用だと? あの王様は寝てるぜ。つーか寝てるしかできねえ」
「知っている。だからこそ来た」
ランサーは槍を構え直した。通すわけにはいかない。ここは言峰の拠点で、ギルガメッシュは言峰の切り札だ。敵のサーヴァントを地下に通すなど——。
教会の奥から、声がした。
くぐもった、かすれた声。だが傲岸さだけは損なわれていない声。
「通せ、ランサー」
「おい、本気か」
「我が言っている。通せ」
ランサーは肩をすくめた。
「しゃーねえな。——通んな、ライダー。なんならそのままこの煩い王様を退場させてくれてもいいんだがな」
ランサーが軽口を叩く。
「今日は少なくとも、その時ではないな」
ライダーは教会の中に入り、礼拝堂を抜け、地下への階段を降りた。
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教会の地下。
ギルガメッシュは長椅子に横たわっていた。
包帯に覆われた体。蝋のように白い肌。赤い瞳だけが闇の中で光っている。前回遠見で見たときと変わらない——いや、少し悪くなっている。頬がこけ、唇がひび割れている。
ライダーは階段を降り、長椅子の傍に立った。
ギルガメッシュの赤い瞳が、ライダーを見上げた。
「——何の用だ」
一拍。
「いや。何を差し出す?」
声が切り替わった。用を聞くのではなく、対価を問う。王の交渉。ここに来たからには何かを持ってきたはずだ、と。
ライダーは手に持っていた紙袋を開いた。ティーポット。茶葉の缶。そして——布に包まれた焼き菓子。バグラヴァ。ナッツとシロップの中東の菓子。
「ひとまず、茶と菓子を」
ギルガメッシュの赤い瞳が、紙袋の中身を見た。
「くだらんな」
声は冷たかった。だが——視線が、菓子から離れなかった。
ライダーは地下の隅にあった給湯設備を見つけ、湯を沸かした。言峰が使っているのだろう、電気ケトルがあった。茶葉をポットに入れ、湯を注ぎ、蒸らす。カップを二つ。ギルガメッシュの分には砂糖を入れなかった。この王の好みはわからない。だが——。
「砂糖は」
「入れん。我は甘い茶を好まん」
ライダーは自分の分にだけ砂糖を二杯入れた。
カップをギルガメッシュの手が届く場所に置いた。バグラヴァを一つ、皿に乗せて添えた。
ギルガメッシュは動かなかった。動かなかったが——目が菓子を見ていた。
「くだらん」
もう一度言った。だが声に力がなかった。
ギルガメッシュは右手を持ち上げた。包帯に巻かれた手。震えている。カップに手を伸ばし、持ち上げ——一口飲んだ。
飲んだ瞬間、赤い瞳がほんの僅かに見開かれた。
茶が旨かった。
この地下室で言峰が出すのは麻婆豆腐だけだった。あの男は客人に茶を出す習慣を持たない。持っていたとしても、言峰の淹れる茶に期待はできない。ギルガメッシュが口にしてきたのは、宝物庫の美酒か、言峰の麻婆か、その二択だった。
麻婆豆腐は——もう食べ飽きていた。いや、飽きたというより、あの灼けるような辛さを受け付ける体力がなかった。翁の傷で衰弱した体には、言峰の麻婆は拷問に等しかった。正直、嫌がらせじゃないかと疑っている。
バグラヴァを一つ取った。齧った。
甘い。非常に甘い。ナッツの香ばしさとシロップの甘さ。薄い生地がほろりと崩れる。粗野な菓子だ。宝物庫の至高の菓子には遠く及ばない。だが——今の体には、これくらいがちょうどいい。
ギルガメッシュはバグラヴァを飲み込み、茶をもう一口飲んだ。
「——で、本題は何だ。菓子を持ってきただけではあるまい」
ライダーは自分の茶を啜った。
「傷を癒せるかもしれない」
ギルガメッシュの目が鋭くなった。
「我にもできんものを、おまえにできると?」
「おまえにできないのではない。おまえの宝物庫には治療の宝具があるはずだ。万薬も、不老の霊草も、あるいはもっと高度なものも。だが——それを使う体力がない。違うか」
ギルガメッシュは沈黙した。
ライダーは続けた。
「翁の刃は死の概念を刻む。概念そのものを薬で消すことはできない。だが——概念の上に肉体が再生することを阻害しているものがある。おまえの体力の低下だ。体力がないから高度な治療宝具を起動できない。起動できないから回復しない。回復しないから体力が戻らない。悪循環だ」
「ならばどうする」
「循環を断つ。最初の一歩だけ、外から力を入れる。私の——かつての侍医の技術を、少しだけ使える」
ギルガメッシュの目が動いた。
「ユダヤの賢者か」
ライダーは僅かに目を細めた。
マイモニデス。モーシェ・ベン・マイモーン。十二世紀の大学者にして医師。ユダヤ人でありながらサラディンの宮廷に仕え、サラディンとその家族の侍医を務めた。人類史上最も偉大な医師の一人。
「ライダーのクラスで召喚された私に、医術の専門スキルはない。だがマイモニデスの教えの一端は——身についている。彼の診療を傍で見ていた年月は長い。最低限の処置ならできる」
ライダーは懐から布に包まれた小瓶を取り出した。
「体力を底上げする薬を調合した。マイモニデスが私の熱病を治したときの処方を元にしている。万能ではないが、衰弱した体に最初の足がかりを作る。ここから先は——おまえ自身が宝物庫の治療具を使って治せばいい」
ギルガメッシュはライダーを見つめた。
長い沈黙。
「なぜだ」
「なぜとは」
「なぜ敵を治す。おまえにとって、我が衰弱しているのは好都合だろう。英雄王が動けないまま戦争が終われば、おまえの脅威が一つ減る。にもかかわらず治すと言う。理由を聞いている」
「敵の病人に医者を送ったことがある。かつて。リチャード、獅子心王と呼ばれる男が熱病で倒れたとき、侍医と氷と果物を送った」
ギルガメッシュの目が細くなった。
「それは聞いた。おまえの逸話の中で最もくだらん話だ」
「くだらんか」
「くだらん。敵は敵だ。弱っている敵を治してやる道理がどこにある」
「道理はない。だが——」
ライダーは小瓶を長椅子の脇に置いた。
「王が病の床に臥せているのを見て、何もせずに帰る気にはなれん。それだけだ」
ギルガメッシュは天井を見つめた。
赤い瞳に、いくつもの感情が浮かんでは消えた。侮蔑。興味。苛立ち。
「治ったとして——我が最初にやることは、おまえを殺すことかもしれんぞ」
「かもしれない。だがそれはそのとき考える」
ギルガメッシュは——笑った。
小さく、かすれた笑い。唇が裂けて血が滲んだ。だが拭わなかった。
「くだらん。くだらん男だ、おまえは」
ギルガメッシュは小瓶を手に取った。蓋を開け、匂いを嗅いだ。薬草と蜂蜜の香り。宝物庫の万薬の精緻さとは比べ物にならない。素朴な、原始的な調合。
だが——この体にはこれくらいが丁度いいことを、ギルガメッシュは理解していた。
小瓶の中身を飲み干した。
苦い。そして甘い。喉を通り、胃に落ち、体の奥に広がる。微かな温もり。炎ではなく、陽光のような穏やかな熱。
「……ふん」
ギルガメッシュは目を閉じた。
しばらく黙っていた。薬が体に馴染むのを待っている。
やがて——右手が持ち上がった。空間に裂け目が開いた。王の財宝。小さな裂け目。以前は維持すらできなかったそれが——今は、少しだけ安定している。
裂け目から、金色の小瓶が滑り出た。宝物庫の治療薬。ギルガメッシュ自身が「使えなかった」高度な薬。
足がかりができた。最初の一歩を外から押してもらったことで、自力で次の一歩を踏み出せるようになった。
---
「サラディン」
「何だ」
ギルガメッシュは目を開けた。赤い瞳の奥に、何か——測るような光が浮かんでいた。宝物庫の治療薬を手にしたまま、飲もうとしない。
「聖杯について教えてやろう——と言いたいところだが、その前に一つ答えろ」
「何だ」
「己の欲望はなんだ」
ライダーの手が止まった。
「それがわからぬなら教えん。菓子と薬の対価ではない。我は王の目でおまえを見ている。王が王を見るとき、見るべきは能力でも徳でもない。欲望だ。おまえの中にある、おまえだけのもの。聖杯にかける願いではない、お前がアレを否定していることは知っている。純粋な、己がもつ欲望、それを聞かせろ」
ライダーは沈黙した。
五秒。十秒。
「——欲はない」
ライダーの声は静かだった。いつもの統治者の声。穏やかで、揺るぎなく、嘘のない声。
「私は生まれてより、行政官である父から教えられてきた。敬虔なる信徒たれ。清廉なる武人たれ。政務に長けた智者たれ。父はナジュムッディーン・アイユーブ。ザンギー朝の行政官。実務の人間だった。私はその教えに倣い、スルタンになったあとも良き統治者を体現せんとした。民のために。秩序のために。イスラームの理念のために。欲は——ない」
ギルガメッシュの赤い瞳が——凍った。
温度が消えた。茶を飲んだときの僅かな和みも、バグラヴァを齧ったときの興味も、全てが瞳の奥から消え去った。残ったのは——原初の王の視線だった。
「——欲がない、と」
声が変わった。かすれた病人の声ではなかった。王の財宝を開く時と同じ声。万象を裁く者の声。
「この我の前で虚を述べるか。人の王よ」
地下室の空気が重くなった。ライダーの肌が粟立った。
「おまえが何者であろうと、我の前で己を偽ることは許さん。欲がないだと? 欲のない王がなぜ聖地を奪い返した。欲のない人間がなぜリチャードに医者を送った。欲のない統治者がなぜ葬式代も残さず死んだ。そのすべてに欲があったからではないか」
ライダーは——動かなかった。動けなかった。
ギルガメッシュの赤い瞳が、横たわったまま、ライダーの霊基を射抜いている。病に臥せた体で。包帯に巻かれた手で。それでもなお——この男は英雄王だった。
「民のため、秩序のためと嘯くか。ならば問おう。民を救ったとき、おまえの胸に何も湧かなかったか? 条約を結んだとき、何も感じなかったか? その菓子を焼いたとき、茶を淹れたとき、あの小娘を蟲の屋敷から連れ出したとき——何も、なかったか?」
ライダーの喉が詰まった。
「それでもなお欲がないと申すか」
ライダーは口を開いた。
「——ない。私は王として正しいことをした。それは欲ではない」
瞬間——。
ギルガメッシュの赤い瞳に、刃のような光が走った。
**「侮るなよ、雑種」**
空間が裂けた。
教会の地下室に——黄金の裂け目が、十。二十。三十。長椅子に横たわったまま、ギルガメッシュが王の財宝を展開した。衰弱した体では維持すらできなかったはずの宝物庫が——怒りで開いた。
ライダーの周囲を、宝具の穂先が取り囲んだ。
剣。槍。斧。弓。見たこともない形状の武器。全てが黄金に輝き、全てがライダーの体を向いている。あと一寸で刃が触れる距離。三十を超える宝具が、万華鏡のように回転しながら、ライダーの首筋と胸と腹と腕と脚を狙っている。
**「次に戯言を申せば——二度と陽のもとに立てぬものと知れ」**
ギルガメッシュの声が地下室を震わせた。包帯に巻かれた体から、それでもなお絶対の王権が溢れ出している。衰弱していてもギルガメッシュはギルガメッシュだった。怒りが体力の枯渇を一瞬だけ凌駕している。
ライダーの背筋に、冷たいものが走った。
焦り——が、一瞬だけ浮かんだ。
翁の大剣を首元に突きつけられたとき、ライダーは動じなかった。あのときは覚悟があった。死を受け入れる覚悟。だが今は違う。ギルガメッシュの怒りは死の予告ではない。嘘を許さないという宣告だ。死ぬことより——暴かれることへの恐怖が、ライダーの胸を突いた。
次の瞬間——思考が切り替わった。
交渉モード。ライダーの脳が自動的に起動する生存回路。翁のときもそうだった。バーサーカーのときもそうだった。危機に際して、感情を切り離し、盤面を読み、最善手を打つ。
状況分析。ギルガメッシュは衰弱している。宝物庫の展開は一時的。怒りによる瞬間的な出力。長くは保たない。だが今この瞬間、三十の宝具に囲まれている。回避不能。防御不能。庇護の宝具を展開する余裕もない。
交渉の余地。ギルガメッシュは情報を渡す意思を示していた。聖杯について教えると言った。つまり対話を求めている。殺意ではなく——真実を求めている。ならば交渉の糸口は——。
——止まった。
思考が、止まった。
ライダーは——自分の思考回路を、見てしまった。
危機に際して感情を切り離す。盤面を読む。最善手を打つ。交渉モード。生存回路。
これだ。
これが——空洞の正体だ。
ライダーは一生をかけて、自分の感情を抑圧してきた。王として。統治者として。交渉者として。感情は判断を鈍らせる。怒りは政を歪める。悲しみは軍を弱める。だから切り離した。切り離して、役割の言葉で覆って、正しい判断を積み重ねてきた。
桜と——同じだった。
桜は蟲蔵で感情を殺された。ライダーは王座で感情を殺した。方法は違う。理由も違う。だが結果は同じだ。自分の言葉を持たない。自分の感情を知らない。役割の言葉が自分の言葉だと誤認してきた。
ギルガメッシュの問いが——今、初めて意味を持った。
己の欲望はなんだ。
感情を切り離した人間に、欲望などわかるはずがない。わからないから「ない」と答えた。嘘ではなかった。嘘ではなかったが——真実でもなかった。「ない」のではなく「見えない」のだ。分厚い王の仮面の下に、何かがある。あるはずだ。桜を連れ出したとき。モクモクさんの話を聞いたとき。おんぶして泣かれたとき。あのとき胸に湧いたものは——王の義務感だけだったか?
違う。
違うはずだ。
だが——それが何なのか、ライダーにはまだわからなかった。
宝具の穂先に囲まれたまま、ライダーは——交渉モードを、切った。
意図的に。自分の生存回路を、手動で停止した。
盤面を読むのをやめた。最善手を探すのをやめた。ギルガメッシュの怒りを分析するのをやめた。
そして——王の顔を、脱いだ。
「……あえて言うなら」
声が変わった。統治者の声が剥がれて、その下にある——何か。生の声。言葉を探す声。
「そうか。言葉が欲しかったのかもしれん」
ギルガメッシュの眉が動いた。宝物庫の裂け目が——僅かに、揺れた。
「言葉」
「私の言葉だ」
ライダーは天井を見上げた。教会の地下の暗い天井。石造りの冷たい空間。宝具の穂先が首筋を向いている。だがもう気にしていなかった。
「私は父の言葉で育った。クルアーンの言葉で生き、預言者の言葉で戦った。条約の言葉で国を治め、使者の言葉で敵と渡り合った。だが——私自身の言葉を、私はよく知らない」
ギルガメッシュは黙って聞いていた。宝物庫の裂け目が——一つ、また一つと、閉じ始めていた。
「王として語る言葉はある。統治者として、指揮官として、庇護者として。それらは私の口から出るが、私の言葉ではない。役割の言葉だ。正しい。正しいが——」
ライダーは苦笑した。目尻の皺が深くなるあの笑いではなく、もっと——不格好な笑いだった。
「はは。桜に何と言おう」
ギルガメッシュの瞳が僅かに動いた。
「あの子に——言わなくても繋がっていればいい、と言った。それは真実だ。言えないことがあっても一緒にいられる。それは嘘ではない」
ライダーの声が、低くなった。
「だが、私自身がそれを信じきれていなかったな」
沈黙が落ちた。
宝物庫の最後の裂け目が閉じた。宝具の穂先がライダーの周囲から消えた。黄金の光が薄れ、地下室にただ茶の湯気だけが残った。
ライダーは——初めて、王の顔をしていなかった。この聖杯戦争で、同盟の場でも、決裂の夜でも、翁との対峙でも、常に王であった男が。ギルガメッシュの前で——一人の人間の顔をしていた。
言わなくても繋がっていればいい。桜にそう言った。それは正しい。正しいが——ライダー自身が、自分の言葉を持っていない。役割の言葉で人を導き、役割の言葉で人を守り、役割の言葉で茶を淹れてきた。
桜に——自分の言葉で、何を言えるのだろう。
モクモクさんの話を聞いた。おんぶをした。ムニエルを作った。全て正しかった。全て王として、庇護者として、正しいことをした。だがそこに——ライダー自身の言葉はあったのか。
言えないことがある、と桜は言った。ずっと言えないと思う、と。
ライダーは「待つ」と答えた。「いつまでも待つ」と。
正しい答えだった。だが——それはライダーの言葉だったのか、それとも庇護者の台詞だったのか。境目がわからない。わからないことを、アーチャーに指摘されたことがある。自分の言葉がどこまで計算でどこまで本心か、境目が見えなくなっている、と。
あのとき——笑って認めた。
だが今、ギルガメッシュの宝具に囲まれて、その空洞がはっきりと口を開けた。交渉モードを切った瞬間に——空洞の底が、見えた。
「くだらんな」
ギルガメッシュが言った。
だが——声の質が変わっていた。先ほどまでの「くだらん」とは違った。侮蔑ではなく、何か別のもの。
「くだらんが——正直ではある。最初からそう言えば宝物を抜く手間もなかったものを」
ギルガメッシュは金色の小瓶を飲み干した。宝物庫の治療薬が体に流れ込む。
「いいだろう。おまえの欲望は未完だ。言葉が欲しいと言いながら、まだ見つけていない。だが——見つけようとしている。それだけで十分だ。未完の欲望は、完成した徳よりよほど面白い」
ギルガメッシュは目を開けた。赤い瞳の奥に、何か——決定のようなものが浮かんでいた。
「一つ、教えてやろう。対価ではない。おまえが菓子と薬と——己の空洞を見せたから、我も一つ差し出す。王として」
ライダーは黙って待った。
「聖杯は汚染されている」
ライダーの目が動いた。
「第三次聖杯戦争で——アインツベルンが反則を犯した。通常ではあり得ない英霊を召喚した。この世全ての悪。アンリマユ。名前だけの、中身のない呪い。それが聖杯に取り込まれた」
「取り込まれた——」
「聖杯の中身が汚染された。万能の願望機は——もはや万能ではない。汚染された聖杯が願いを叶える方法は一つだけだ。破壊。全ての願いを、最悪のかたちで実現する。平和を願えば——人類を滅ぼして平和にする。そういう構造になっている」
ライダーの手が握りしめられた。
「前回——第四次で、聖杯は一度起動しかけた。溢れ出したのは呪いの泥。冬木の大火。数百人が死んだ。あれが聖杯の本性だ。今回も同じことが起きる。いや——今回はもっと酷いかもしれん」
「なぜ今まで黙っていた」
「言う理由がなかった。我にとって聖杯は娯楽だ。中身が汚れていようと、戦争が面白ければそれでいい。だが——」
ギルガメッシュはバグラヴァの最後の欠片を口に入れた。
「おまえの菓子は悪くなかった。茶も。薬も。くだらんが——くだらんなりに、筋は通っている。筋を通す相手には、筋を通す。それが王というものだ」
ライダーは立ち上がった。
「英雄王。感謝する」
「感謝はいらん。菓子をもう一度持ってこい。次はもう少し上等なものを期待する」
「承知した」
ライダーは階段を上がった。
---
礼拝堂を抜け、教会の門を出た。冬の空を見上げた。
聖杯は汚染されている。
願いを叶える器ではない。呪いの器。破壊の器。起動すれば——冬木が焼ける。前回のように。あるいはそれ以上に。
ライダーの直感は——正しかった。
万能を謳う器には裏がある。何の代償もなく願いが叶うことはあり得ない。あり得ないどころか——叶えてはならないものだった。
そして桜の体に繋がっているものが、この汚染された聖杯だとすれば——。
ライダーは走り出した。
遠坂邸に向かって。
走りながら——ギルガメッシュの問いが、まだ胸に残っていた。
己の欲望はなんだ。
言葉。私の言葉。
走りながら、ライダーは笑った。不格好な笑い。あの地下室で見せたのと同じ。宝具に囲まれて初めて気づいた——自分は、危機に際して感情を切り離す。桜が蟲蔵で声を殺したのと同じように、自分は王座で感情を殺してきた。
桜に——なにか言えるだろうか。いや、言えまい。私は私の責務を果たす。自分の言葉を持たなかった。自分の言葉を持ちたかった。まるで外面の言葉が、自分の言葉であるかのように誤認していた。まったく、桜と同じだ。
「そうか。それが本当の桜との縁か」
城塞の石という触媒。そして、同じ空虚を抱えるという縁。それらが、ライダー・サラディンを間桐桜のもとに引き寄せた。
ライダーは走った。冬木の夜を。冬の風を切って。
自分の言葉は、まだ見つからない。見つからないが——見つけようとしている。それがギルガメッシュにとって「面白い」のだとすれば。
桜にとっても——きっと、意味がある。
まだ見つからなくても。まだ言えなくても。見つけようとしていること自体が。
走りながら、ライダーは思った。
帰ったら——桜に、茶を淹れよう。王としてではなく。何を話すかはわからない。わからないまま、淹れてみよう。
それが——きっと、最初の一歩だ。