術式陣の光が収束した。
接続点が——断たれた。大聖杯との管が切れ、魔力の流れが止まり、桜の体が桜だけのものに戻った。右手の令呪はまだ残っている。それが、未だに桜がこの戦争の当事者であることを告げている。凛はそれを苦々しく見つめた。
桜は術式陣の中央で、ゆっくりと目を開けた。
「——軽い」
それが最初の言葉だった。
体の奥底にあった重さ——自分では気づかなかった、ずっとそこにあった異物の重さが、消えていた。
「成功よ」凛が膝をついた。宝石を使い切った手が震えている。「接続、完全に断てた」
イリヤが桜の背中から手を離した。小さな手が汗ばんでいた。
「大聖杯側からの再接続もない。完全に切れてる」
士郎が桜の肩を支えた。桜が士郎を見上げて、微笑んだ。小さな、けれど膜のない笑み。
全員が息を吐いた。
アーチャーは本堂の柱にもたれて座り込んでいた。胸の傷から血が流れている。凛の令呪で消滅は免れたが、瀕死だ。呼吸が浅く、顔色が蒼白い。虫の息。
英雄王がどうなったかは——わからない。教会の地下で最後の宝物を使い切ろうとしている、と言峰は言った。もう数分前の話だ。すでに消滅しているかもしれない。まだ持ちこたえているかもしれない。
だが考えている暇はなかった。
「すぐに大聖杯のところへ向かうぞ」
ライダーの声が本堂に響いた。
「切り離しは終わった。だが大聖杯は生きている。英雄王の魂が流れ込めば、汚染された聖杯が起動に近づく。その前に壊す」
「場所は——」凛が立ち上がった。「柳洞寺の地下。この山の洞窟にある。キャスターが拠点にしていたのは、大聖杯の直上だったからよ」
「行くぞ。全員——」
ライダーが言いかけて、止まった。
境内に組み伏せられたランサーを見た。セイバーがまだ押さえている。ランサーは抵抗していないが、令呪の命令は宙に浮いたまま残っている。槍を手にすれば、再び自害を試みるかもしれない。
「誰かがランサーを止めておく必要がある」
凛が頷いた。
「全員で行きたいけど——ランサーを放置するわけにはいかない。自害されたらもう一騎分の魂が聖杯に流れ込む」
ライダーが一歩前に出た。
「俺が残ろう。バーサーカーとセイバーが大聖杯の破壊に向かうべきだ。大聖杯の防衛機構がどうなっているかわからない。物理的な破壊力が要る。バーサーカーの斧剣とセイバーの聖剣——この二騎なら、何が出てきても対応できる」
正しかった。破壊に必要なのは圧倒的な火力だ。ライダーの曲刀は技の剣であって、力の剣ではない。バーサーカーの蛮力とセイバーの聖剣こそが、大聖杯を砕くのに最適な戦力だった。
だが——凛が眉を寄せた。
「ここで司令塔を欠くのは……」
大聖杯の破壊は未知の領域だ。何が起きるかわからない。判断を下す人間が必要になる。凛自身がその役を担えるが、魔術的な判断と戦術的な判断を同時に処理するのは荷が重い。ライダーがいれば——。
凛が迷った。二秒。三秒。
「——俺が残る」
声は本堂の柱の陰から聞こえた。
アーチャーが立ち上がっていた。
柱に手をついて、片膝をついた姿勢から、ゆっくりと。胸の傷から血が垂れている。顔は蒼白だ。だが——立った。
そしてランサーの前に歩み出た。
全員が凍りついた。
「アーチャー——心臓を——」
凛が駆け寄ろうとした。
アーチャーは胸の傷を手で押さえ——離した。
血が出ていた。傷は確かにあった。だが——位置が違った。心臓の真上ではない。左胸の、心臓から三センチほどずれた場所。肋骨の間。致命傷には違いないが、即死ではない。心臓を外れている。
「逸れてた——? ゲイ・ボルクが——?」
凛の目が見開かれた。因果逆転の槍。心臓を必ず穿つ呪い。結果が先に確定する宝具。それが——外れるはずがない。
アーチャーはライダーを見た。
「やっと種明かしかね、王よ」
ライダーの目が——僅かに動いた。
「気づいていたか」
「気づかんわけがないだろう。槍が心臓に届く瞬間、何かが俺の体を押した。物理的な力ではない。もっと抽象的な——概念に近い力が、俺の体を三センチだけずらした。あの距離で、あの速度で、心臓を外すことは——人間の技では不可能だ」
凛がライダーを見た。
「ライダー。何をしたの」
ライダーは一拍置いて、答えた。
「宝具だ」
「宝具——」
「慈悲の城塞(ラフマ・バスティオン)。俺の民を守る宝具。翁との不可侵条約は生前の縁によるものだが——これは条約と庇護の力、私の紛うことなき宝具だ。物理的な死から民を守護する」
「因果逆転の槍にも効くの?」
「因果逆転は心臓を穿つ呪い。だがこの力は確定した死を回避する。完全には防げない。だが——三センチ逸らす程度のことはできる」
凛は絶句した。
因果逆転。運命を捻じ曲げる呪いの槍。それすらも——完全には通さない。
「事前に展開していたのだな」アーチャーが言った。
「ああ。言峰がランサーを連れて待ち構えていることは想定していた。宝具をまともに受ければ誰かが死ぬ。だから——柳洞寺に入る前に、宝具を展開した」
「誰に、と問うべきではないかな?全員の死を防げるほどの宝具、申し訳ないがそれほどの力をアンタが持つとは思えん」
「…アーチャー、セイバーだ。1回限りの奇襲を打つなら、まずサーヴァントを狙う」
「マスターを狙うこともあるだろう」
「それは無い。マスターは一箇所に全員集め、サーヴァントで囲っていたからな。セイバーとバーサーカーの反応速度は折り紙付きだ。それに俺は防衛に特化したサーヴァントだ。それで守られたマスターを狙えば、それこそ二兎を追って一兎すら得られない。そう考えれば、なるべく孤立した、守られる立場でない者を狙うだろう」
アーチャーは——苦笑した。血まみれの顔で。
「まったく、最初から最後まで抜け目のない男だ」
「こういう性分でな」
「想定が対軍宝具でなく対人、とくにゲイ・ボルクのような宝具を前提にした推測なのが気になるが。知っていたのか?」
「おや、そのとおりだな。いやはや思い込みというのは恐ろしい。うまくいってよかったよ」
ライダーが苦笑してみせる。
アーチャーはランサーの前に立った。双剣を投影した。干将莫耶。刀身にひびが入っている。万全ではない。だが立てる。戦える。
「行け、凛。俺がランサーを見ている。自害はさせない」
「アーチャー——体が——」
「三センチずれた心臓の傷だ。すぐには死なん。ランサーも片腕だ。互いにボロボロだ。お似合いだろう」
ランサーが地面から顔を上げた。
「弓兵。生きてたか」
「生きてるとも。貴様の槍は甘い」
「け、ぬかせ」
ランサーが笑った。血まみれの顔で。アーチャーも笑った。血まみれの顔で。
二人の傷だらけの英霊が、境内で向かい合った。
凛はアーチャーを見つめた。三秒。アーチャーが頷いた。凛は——走り出した。
「全員、大聖杯へ!」
士郎が桜の手を引いて走った。セイバーが先行した。ライダーが殿を務めた。イリヤがバーサーカーに抱えられて跳んだ。
本堂の裏手。山の斜面に洞窟の入り口がある。キャスターが拠点にしていた柳洞寺の地下。その奥に——大聖杯がある。
凛たちは洞窟に駆け込んだ。
背後で、干将莫耶と朱い槍が噛み合う音が響いた。
次は明日18時投稿です。
残りは本編2つ、エピローグ複数の、
計2回の投稿になります。