凛たちが本堂裏手の洞窟に消えた。
足音が闇に吸い込まれ、やがて聞こえなくなった。境内に残ったのは二人だけだった。
アーチャーは干将莫耶を構え直した。刀身にひびが走っている。胸の傷から血が垂れ、石畳に赤い斑点を落としている。ライダーの庇護で心臓から三センチ逸れたとはいえ、致命傷であることに変わりはない。凛の令呪で消滅を免れているが、体は限界に近い。
ランサーは石畳に膝をついていた。左腕がない。肘から先をライダーの曲刀に切り落とされている。断面から血がまだ滲んでいるが、出血は止まりかけていた。英霊の肉体がかろうじて塞いでいる。
二人は向かい合った。
アーチャーは双剣を構えた。ランサーは右手一本で、石畳に転がっていた朱い槍を——まだ拾い上げていなかった。
「手負いの俺すら仕留められねぇのか」
ランサーが笑った。血まみれの顔で。歯を剥き出しにして。
「殺さないように手加減してやっているんだ。感謝しろ」
「ぬかせ」
ランサーの右足が跳ねた。
膝をついた姿勢から——蹴り。石畳を蹴って体を回転させ、右足の踵をアーチャーの脇腹に叩き込んだ。槍も使わず、腕も使わず、足だけの一撃。だが——ケルトの戦士の蹴りだった。クー・フーリンが戦場で編み上げた体術。片腕を失ってなお、残った四肢の全てが武器になる。
アーチャーの体がよろめいた。
干将莫耶で受けるはずだった。受けられなかった。蹴りが来ると思わなかった——いや、想定はしていた。だが胸の傷が反応を遅らせた。三センチ逸れた槍の傷口が、横方向の衝撃で裂けた。血が噴いた。
アーチャーは三歩下がって体勢を立て直した。脇腹を押さえ、歯を食いしばった。
「なぜ攻撃できる」
アーチャーの声に、純粋な疑問があった。
「令呪はお前に自害を命じたはずだ。あの神父の声を聞いた。『自害せよ、ランサー』——絶対命令。令呪に逆らって戦闘行動をとれるはずがない」
ランサーは石畳の上で体を起こした。右膝で立ち、右手を石畳について、体を支えている。
「そうさな」
ランサーは笑みを深くした。
「少し違う。アイツが言ってたのは、——『新たな贄として魂を捧げろ、自害せよ、ランサー』だ」
アーチャーの目が細くなった。
「"新たな"、か」
「そういうことだ。あの野郎はテメェが死んだと思って令呪を切った。つまり令呪の前提は『アーチャーが脱落した状態で、ランサーも退場しろ』ってことだ。ところがどっこい——」
ランサーがアーチャーを指差した。右手の人差し指。血に汚れた指先。
「テメェ、まだ生きてやがる」
アーチャーは沈黙した。
「てこたぁ、前提が崩れてる。アーチャーはまだ消えてねえ。令呪の命令は宙に浮いてる。完全に無効化されたわけじゃねえが——実行条件が満たされてねえ以上、俺の体は動く。テメェを殺るまでは俺の自由だ」
「……なるほど。理にかなっている」
アーチャーは苦笑した。血まみれの顔で。
令呪の命令は絶対だが、文言の解釈には余地がある。言峰がもっと単純に「死ね」とだけ命じていれば逃げようがなかった。だが言峰の令呪には意図が含まれていた。アーチャーの脱落を前提とした命令。その前提が崩れた以上、令呪の拘束力が弱まる。完全な自由ではない。だが——戦える程度には。
「て、わけで」
ランサーが右手を伸ばした。石畳に転がっていた朱い槍。朱い穂先が冬の月光を反射して鈍く光っている。
右手で柄を掴んだ。握り込んだ。片手で。左腕がないから、いつもの両手持ちはできない。だが——槍を持つ手は震えていなかった。
ランサーが立ち上がった。
「全霊で潰してやるよ」
アーチャーは干将莫耶を構え直した。ひび割れた双剣。白と黒。陰と陽。
「望むところだ」
---
二人が動いた。
ランサーが踏み込んだ。片腕の槍術。右手一本で朱い槍を操る。本来の技巧の半分も出せないはずだった。だが——半分のクー・フーリンは、並の英霊の全力を超える。
突き。横薙ぎ。返し。片手では回転が効かない分、直線的な攻撃が増える。だがその直線が速い。鞭のようにしなり、蛇のように軌道が変わる。
アーチャーは双剣で受けた。干将で弾き、莫耶で切り返す。二刀だから片腕の槍に対して手数で勝る——はずだった。だが胸の傷が動きを制限している。踏み込みが浅い。振りが遅い。
槍の穂先がアーチャーの頬を掠めた。血が飛んだ。
アーチャーが莫耶を投げた。ランサーの顔面を狙って。ランサーが首を傾けて回避する——その隙に、アーチャーは距離を取った。
莫耶を再投影。手の中に黒い剣が戻る。ひびが増えている。投影の維持にも限界がある。
三合。四合。五合。
剣戟の音が境内に響いた。月光の下で、二人の影が交差し、離れ、また交差した。
ランサーの槍がアーチャーの左腕を掠めた。アーチャーの干将がランサーの右肩に浅い切り傷をつけた。互いに削り合っている。少しずつ。少しずつ。
六合目で、ランサーが距離を取った。
槍を肩に担ぎ、息を整えた。荒い呼吸。右腕の筋肉が痙攣している。片腕で槍を振る負荷が、体に蓄積していく。
「気づいてるぜ、弓兵」
「何にだ」
「お前——あの坊主に何か縁があるな?」
アーチャーの手が僅かに止まった。僅かに。だがランサーの目はそれを見逃さなかった。
「何のことやら」
「とぼけるな」
ランサーの青い目が、アーチャーを射抜いた。
「あの坊主——衛宮士郎を見るお前の目は、初対面の目じゃねえ。嫌悪と、苛立ちと、あと何か——名前のつけられねえもんが混ざってる。一体どんな縁があるってんだ」
アーチャーは干将莫耶を構え直した。
「教える義理はないな」
「そらそうだ」
ランサーは笑った。深く追及しなかった。
二人はもう一度ぶつかった。
七合。八合。九合。
アーチャーの干将が砕けた。刀身が半ばから折れ、破片が石畳に散った。即座に再投影——だが形が歪んだ。刀身が微かに曲がっている。魔力が足りない。投影の精度が落ちている。
ランサーの槍が石畳を叩いた。狙いがずれた。右腕の感覚が鈍っている。出血と疲労で。
十合。十一合。
互いの息が荒くなっていく。冬の夜気が白い呼気を作る。二人の英霊が、満身創痍のまま、境内で撃ち合い続けている。
十二合目で——二人は同時に離れた。
間合いの外。槍の届かない距離。剣の届かない距離。
ランサーが槍を構え直した。右手一本。穂先を下に。踵を石畳に押しつけ、腰を落とした。
「そろそろ決着といこうか」
声が変わっていた。遊びが消えていた。
「死ぬって仕事も残ってるしな。令呪のおかげで力も十分だ」
そうだった。令呪の命令は宙に浮いているだけで、消えてはいない。アーチャーが消えれば——令呪が再起動する。ランサーの体を自害へ向かわせる。だがそれまでの間、令呪の魔力はランサーの体に蓄積されている。自害のために溜められた魔力を——今、戦闘に転用している。
皮肉な話だ。自分を殺すための力で、敵を殺そうとしている。
アーチャーは双剣を構えた。歪んだ干将莫耶。もう何度も投影を繰り返して、元の形を保てなくなりつつある。
「来い」
朱い槍に——魔力が集中した。
穂先が赤く輝いた。ルーン文字が刻まれた柄が脈動し、ランサーの右腕に赤い線が走った。令呪の魔力と、ランサー自身の魔力が、一本の槍に束ねられていく。
因果逆転。心臓を必ず穿つ呪いの槍。さっきアーチャーの胸を貫いた——あの一撃と同じもの。だが今度は、ライダーの庇護はない。あの宝具は事前に展開されていたものだ。今のアーチャーに、三センチの猶予はない。
ランサーが吼えた。
**「ゲイ・ボルク!!!」**
朱い閃光が奔った。因果が逆転する。結果が先に確定する。心臓を穿つ——その結末が、世界に刻まれた。
アーチャーの左手が動いた。
干将莫耶ではない。別のもの。投影魔術の全てを注ぎ込んだ、最後の一枚。
**「ロー・アイアス!!!」**
紅い花弁が咲いた。
七枚の花弁を持つ盾。トロイア戦争でアイアスが持った大盾の投影。光の花弁が幾重にも重なり、アーチャーの前に展開された。
朱い槍が紅い花弁に激突した。
一枚目が砕けた。
硝子が割れるような音。光の破片が散った。槍の穂先が突き進む。
二枚目が砕けた。
花弁が一枚ずつ剥がれていく。槍の勢いが——僅かに、鈍る。だが止まらない。因果逆転の呪いが花弁を食い破っていく。
三枚目。四枚目。五枚目。
立て続けに砕けた。光の破片が吹雪のように舞い、境内を照らした。
六枚目が——軋んだ。
砕けかけて、持ちこたえた。一瞬。ほんの一瞬。
七枚目に槍が届いた。最後の花弁。最も硬い中心核。
穂先が花弁に食い込んだ。亀裂が走った。花弁が——割れた。
七枚全てが砕け散った。
だが——。
朱い槍も、落ちた。
因果逆転の呪いが、七枚の花弁を貫通しきれなかった。正確には、貫通した。したが——貫通した先に残っていた運動エネルギーが、アーチャーの心臓に届く前に尽きた。
朱い槍が石畳に落ちた。からん、と乾いた音。
アーチャーは——立っていた。
ロー・アイアスの残骸が光の粒子になって散っていく。アーチャーの左手が下がっている。投影の反動で指が動かなくなっている。胸の傷から血が溢れている。体が揺れている。
立っているのが不思議なくらいだった。
ランサーも——立っていた。
右手が垂れている。槍を投げた反動で肩の筋肉が断裂したのだろう。右腕が使い物にならなくなっている。左腕はない。両腕を失った。
二人は向かい合った。
武器のない二人の英霊が、月光の下で。
ランサーが笑った。
「限界だって面してるぜ」
「お前のほうこそ」
アーチャーが笑い返した。
二人の体が揺れていた。風が吹けば倒れそうだった。立っているのは意地だけだった。