桜「中東のライダー?」   作:ヤシの木の里

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大聖杯

洞窟の奥は広かった。

 

天然の空洞を魔術で拡張したのだろう。天井は十メートル以上あり、壁面にはキャスターの術式の痕跡が焼きついている。紫の紋様。ギリシャ系の魔術文字。すでに機能を停止しているが、残滓が微かに光っている。道中、崩れかけた結界や停止した防衛術式がいくつもあったが、どれも主を失って眠っていた。難なく、来られた。

 

そして——空洞の中央に、それはあった。

 

大聖杯。

 

巨大な魔法陣が床面に刻まれ、その中心から天井に向かって光の柱が伸びている。光は白く、純粋に見える。だがその奥に——黒い脈動があった。白い光の芯を、黒い何かが這っている。蛇のように。蟲のように。

 

見ればわかる。

 

神々しくも、禍々しい。

 

聖杯とはこれだ。二百年の悲願。御三家の執念。その結晶が——汚染された光を放って、洞窟の奥で脈動している。

 

凛は大聖杯を見上げた。遠坂の当主として、初めて見る大聖杯。父が求め、祖父が繋いだもの。

 

美しかった。そして——おぞましかった。

 

「壊すわよ」

 

凛の声に迷いはなかった。

 

セイバーが前に出た。不可視の風が解ける。黄金の剣が姿を現した。聖剣エクスカリバー。星の光を束ねた最強の幻想。

 

「士郎。令呪を」

 

「ああ」

 

---

 

士郎は右手を掲げた。三画の令呪が赤く輝いている。

 

「令呪をもって命じる——セイバー、全力を」

 

一画が消えた。魔力がセイバーに流れ込む。

 

「令呪をもって命じる——聖剣の真名解放を」

 

二画目が消えた。聖剣が輝きを増す。

 

「令呪をもって命じる——大聖杯を、砕け」

 

三画目が消えた。士郎の手の甲から、令呪の紋様が完全に消滅した。

 

イリヤが右手を掲げた。

 

「令呪をもって命じる——バーサーカー、大聖杯を壊して」

 

一画。巨人の体に魔力が奔流する。

 

「令呪をもって命じる——全ての力で」

 

二画。バーサーカーの肌が赤黒く脈動する。斧剣が振りかぶられる。

 

「令呪をもって命じる——最後まで、私のために」

 

三画目が消えた。イリヤの小さな手の甲から、紋が消えた。

 

バーサーカーが吼えた。言葉のない咆哮。洞窟が震えた。天井から岩片が落ちた。

 

桜は士郎の隣に立っていた。

 

右手の甲に、三画の令呪がまだ残っていた。切り離しの際に消えかけたが——完全には消滅しなかった。桜とライダーの繋がりは、聖杯の接続点とは別の場所に根を張っていた。あの雑居ビルの一室で。モクモクさんと過ごした日々で。おんぶされて泣いた日で。オムライスを作った日で。蟲蔵の扉の代わりに温かい扉を開けてくれた日々で。

 

令呪は——残っていた。薄く、微かに、桜の手の甲に。

 

桜はライダーを見た。

 

ライダーは曲刀を鞘に収めたまま、一歩退いていた。様子を見る姿勢。セイバーとバーサーカーの全力が大聖杯に叩きつけられる。それで足りるかどうかを見極める。いつもの王の判断。

 

だが——桜は知っていた。

 

足りないかもしれない。大聖杯は二百年の結晶だ。汚染されたアンリマユの呪いが根を張っている。聖剣と斧剣で砕けるかもしれない。砕けないかもしれない。

 

桜は右手を掲げた。

 

「桜——」ライダーが振り返った。

 

令呪が光った。薄い光。士郎やイリヤの令呪ほど強くない。だが——光っていた。

 

「令呪をもって命じる——ライダー、みんなを守って」

 

一画が消えた。魔力がライダーに流れ込んだ。桜の魔力。少なくて、弱くて、でも温かい魔力。

 

「令呪をもって命じる——あなたの城塞で」

 

二画目が消えた。ライダーの体に紋様が浮かび上がった。鎖帷子の上に、金色の文字が走った。アラビア語の碑文。かつてカイロの城壁に刻まれた言葉。

 

「令呪をもって命じる——みんなの力を、押し上げて」

 

三画目が消えた。桜の手の甲から、令呪が消えた。

 

ライダーは目を閉じた。

 

三画分の魔力が体を巡っている。桜が全てを注ぎ込んだ。守って。城塞で。押し上げて。桜の願いが、令呪の力に乗って、ライダーの霊基に刻まれていく。

 

ライダーは目を開けた。

 

曲刀を抜いた。鞘から滑り出した鋼が、洞窟の薄闇の中で光を帯びた。金色の光。聖剣のそれとは違う。もっと温かい。城壁の石と、砂漠の陽光と、八百年の祈りの色。

 

ライダーが曲刀を天に掲げた。

 

口が開いた。

 

声が——響いた。

 

「我が名はサラーフッディーン・ユースフ・イブン・アイユーブ。イスラムの剣。エジプトとシリアのスルタン。聖地を奪還し、十字軍を退け、民を守りし者」

 

声が洞窟の壁に反響した。石壁が振動した。天井から砂が落ちた。

 

だが——声は洞窟に向けたものではなかった。

 

誰に向けたものでもなかった。いや、全員に向けたものだった。セイバーに。バーサーカーに。士郎に。凛に。イリヤに。桜に。そしてここにはいないアーチャーとランサーに。この戦争を戦った全ての者に。

 

「我が城塞は民を守るために建てられた。敵を退けるためではない。中にいる者の力を集め、束ね、高みに押し上げるために。我が城壁は石ではない。信頼だ。我が砦は鉄ではない。絆だ」

 

曲刀の光が膨らんだ。

 

金色の光が曲刀の刀身から溢れ、広がり、洞窟の空間を包み始めた。光は壁を作った。城壁を。天井を。塔を。門を。ライダーを中心に、巨大な城塞の輪郭が光で描かれていく。

 

「——我が城塞に在る者よ。恐れるな。退くな。おまえたちの剣は、おまえたちだけの剣ではない。背中を預けた者の分まで、重い」

 

光の城塞が完成した。

 

**「慈悲の城塞——ラフマ・バスティオン」**

 

洞窟全体が、金色の城壁に包まれた。

 

壁はなかった。実体のある壁は。だが——そこに、あった。光の壁。温もりの壁。ライダーが生涯をかけて築いた城塞の概念。カイロのシタデル。ダマスカスの城壁。カラクの砦。アジュルンの塁。八百年の石が、光になって、全員を包んだ。

 

セイバーの体が輝きを増した。

 

金色の髪が逆巻いた。聖剣の光が——さらに強くなった。二倍。三倍。令呪三画の全力に、城塞の押し上げが重なった。体の内側から力が湧き上がる。疲労が消えるのではない。疲労を超えて、もう一段高い場所に押し上げられる。

 

背中に城壁がある。その確信が、剣を振る腕に力を与えた。

 

バーサーカーの咆哮が——もう一段、低くなった。深くなった。腹の底から。大地の底から。斧剣が赤黒い光を帯び、巨人の筋肉が限界を超えて膨張した。令呪の全力に、城塞の力が上乗せされている。

 

セイバーが聖剣を頭上に掲げた。刀身が太陽のように輝く。洞窟全体が白い光に満たされた。光の城塞と、聖剣の光が重なり、洞窟が昼のように明るくなった。

 

セイバーが叫んだ。

 

**「エクス——カリバー!!!」**

 

聖剣が振り下ろされた。星の光を束ねた一撃が、白い奔流となって大聖杯に叩きつけられた。

 

同時にバーサーカーが斧剣を振り下ろした。ギリシャ最大の英雄の全力が、聖剣と並んで大聖杯に激突した。

 

光と力が、大聖杯に激突した。

 

---

 

まばゆかった。

 

白い光が洞窟を呑み込んだ。金色の城壁が白い光と溶け合い、二つの力が一つになった。聖剣の星の光と、城塞の陽光と、斧剣の蛮力と。三つの力が束ねられて、大聖杯に叩きつけられた。

 

黒い脈動が悲鳴を上げるように暴れた。白い光と絡み合い、拮抗し——拮抗しきれなかった。城塞に押し上げられた力が、汚染の抵抗を上回った。

 

砕けた。

 

大聖杯の魔法陣に亀裂が走った。中心から外縁へ、一気に。光の柱が揺らぎ、傾き、崩れ始めた。黒い脈動が光とともに霧散していく。汚染された魔力が空気に溶け、薄れ、消えていく。

 

砕け散る音がした。硝子が割れるような、氷が裂けるような、澄んだ音。

 

大聖杯が——砕けた。

 

二百年の悲願が、粉々になって洞窟の床に散らばった。

 

金色の城壁が薄れていく。光の城塞が、役目を終えて、消えていく。最後に——城門の輪郭が一瞬だけ浮かんで、消えた。カイロのシタデルの門。八百年前の門。

 

光が引いていく。闇が戻る。だが先ほどまでの禍々しい闇ではない。ただの、洞窟の暗がり。何の魔力も帯びていない、ただの闇。

 

凛は膝をついた。

 

砕けた大聖杯の破片を見つめた。手を伸ばしかけて——やめた。拾う必要はない。拾っても、もう何も戻らない。

 

終わったのだ。

 

---

 

セイバーの体が光り始めた。

 

足元から、微かに。金色の粒子が舞い上がるように。大聖杯が砕け、聖杯戦争の枠組みが崩壊し、サーヴァントを現世に繋ぎ止める力が消えていく。

 

「セイバー——」

 

士郎が振り返った。

 

セイバーは聖剣を下ろしていた。刀身の光は消え、ただの鋼の剣に戻っている。金色の髪が光の粒子に溶けかけている。足元が透け始めている。

 

だがセイバーは——穏やかだった。

 

穏やかな顔をしていた。かつて王であった頃には見せなかった、あるいは見せられなかった、静かな表情。

 

「シロウ」

 

「セイバー。待ってくれ、まだ——」

 

「いいのです」

 

セイバーは微笑んだ。

 

「王でないあなただからこそ——できることが、ありました」

 

士郎の目が揺れた。

 

「先ほど、ランサーの槍を叩き落としたとき。あなたは王の判断ではなく、人の判断をした。全員を生かすという、王には難しい判断を。私は——王であったがゆえに、多くのものを切り捨てた。切り捨てなければ国を守れなかった。でもあなたは——切り捨てなかった」

 

セイバーの体が、さらに透けていく。

 

「それは甘さかもしれない。アーチャーはそう言うでしょう。でも私は——あなたのその甘さに、救われました。王ではない人間が、王にはできないことをする。それが——」

 

セイバーは聖剣を地に刺した。最後の、鋼の音。

 

「正しかったのだと、思います」

 

士郎は手を伸ばした。セイバーの手を掴もうとした。指が——光をすり抜けた。

 

「セイバー——」

 

「さようなら、シロウ。あなたの食事は——とても、おいしかった」

 

光の粒子が舞い上がった。セイバーの姿が薄れ、溶け、消えた。洞窟に金色の光が一瞬だけ満ちて——消えた。

 

士郎の手は空を掴んでいた。

 

---

 

イリヤの泣き声が、洞窟に響いた。

 

堪えていたのだろう。ずっと。城の塔で毛布にくるまっていたときも、教会で八時間眠ったときも、坂道でバグラヴァを齧ったときも。ずっと堪えていた。

 

堪えきれなくなった。

 

バーサーカーの体が光り始めていた。巨人の灰色の肌が、端から透けていく。斧剣が光の粒子に溶けていく。盲いた目が——何も映さないまま、天井を見上げている。

 

イリヤはバーサーカーの脚にしがみついた。

 

「やだ——やだよ——まだ——」

 

巨人の肌に触れた。

 

固くて、冷たかった。いつもと同じだった。城の中庭で触れたときと、何も変わらなかった。

 

バーサーカーは何も言わなかった。

 

何も言えなかった。狂化のクラスは言葉を奪う。理性を奪う。ギリシャ最大の英雄から、人間としての全てを奪って、ただの兵器にする。

 

でも——。

 

巨人の手が動いた。

 

大きな、温もりのない手が。イリヤの頭の上に、そっと置かれた。

 

指が不器用に動いた。撫でようとしているのか。それとも——最後に一度だけ、触れようとしているのか。

 

イリヤは泣いた。声を上げて泣いた。百年の悲願も、十年の孤独も、アインツベルンの使命も、全部忘れて、ただの子供のように泣いた。

 

巨人の手が光に溶けた。体が透けた。輪郭が薄れた。

 

最後に——盲いた目が、一瞬だけ、イリヤを見たように見えた。

 

見えただけかもしれない。見えなかったかもしれない。

 

バーサーカーは消えた。

 

何も言わなかった。

 

それでよかった。

 

言葉がなくても。温もりがなくても。最後に頭に置かれた手の重さだけが——残った。

 

イリヤは洞窟の床に座り込んで、泣き続けた。

 

---

 

境内。

 

アーチャーとランサーは向かい合っていた。

 

双剣はくだけ、朱い槍は地に落ちたまま。互いに片膝をついたまま、動かない。動く力が残っていない。アーチャーは胸の傷から血を流し続けている。ランサーは左腕がない。

 

洞窟の方角から、光が溢れた。白い光。それが収束し、消えた。

 

ランサーが空を見上げた。

 

「……消えたな。聖杯」

 

「ああ」

 

「体、軽くなってきた。お前も?」

 

「ああ。足元が透けてきている」

 

二人は互いの足元を見た。光の粒子が舞い始めている。聖杯が砕け、サーヴァントを現世に繋ぐ力が失われていく。

 

ランサーの右手が槍に触れた。

 

「なあ、弓兵。続けるか?」

 

「何を」

 

「戦い。聖杯は消えた。だが俺たちには単独行動スキルがある。すぐには消えん。数時間は保つ。その間に——決着をつけるか?」

 

アーチャーは双剣を見つめた。干将莫耶。砕け散った刀身。

 

「ごめんだな」

 

「おう」

 

「最後くらいゆっくりさせてくれ」

 

ランサーが笑った。

 

「同感だ」

 

二人は同時に——座った。

 

座ったというより、崩れ落ちた。ランサーは石畳に尻もちをつき、アーチャーは柱にもたれて座り込んだ。

 

「いい戦争だったか?」ランサーが聞いた。

 

「最悪だ。翁に殺され、ライダーに茶を出され、マスターに振り回され、挙句の果てに心臓を刺された」

 

「俺もだ。翁に怯えて引きこもり、片腕を斬られ、自害を命じられ、坊主にパイプで殴られた」

 

二人は顔を見合わせた。

 

笑った。

 

血まみれの顔で。ボロボロの体で。満身創痍の英霊が二人、冬の境内で笑い合った。

 

「ま——悪くはなかった」ランサーが空を見た。「最後に戦えたからな」

 

「ああ。悪くはなかった」

 

「決着はおあずけだ」

 

ランサーの体が光に溶けた。青い髪が散り、赤い瞳が薄れ、最後に——槍の穂先が一瞬だけ輝いて、消えた。

 

アーチャーは柱にもたれたまま、空を見上げた。冬の星が出始めている。

 

「衛宮士郎」

 

誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「……まあ、悪くないんじゃないか」

 

赤い外套が光に溶けた。銀の髪が散った。干将莫耶が光の粒子になって、夜風に吹かれていった。

 

境内に、誰もいなくなった。

 

---

 

洞窟。

 

イリヤは泣き止んでいなかった。

 

桜がイリヤの隣に座り、肩を抱いていた。何も言わずに。自分もまた、ライダーがいなくなることが怖かった。でも今は——この子のそばにいる。

 

凛は壁にもたれて目を閉じていた。大聖杯の破片が足元に散らばっている。二百年が終わった。遠坂の悲願が終わった。胸に穴が空いたような感覚がある。だが——後悔はなかった。

 

士郎はセイバーがいた場所に立っていた。何もない空間。金色の光の残滓すら、もう消えている。

 

ライダーが歩み出た。

 

曲刀を鞘から抜いた。だが構えるのではなく——鞘ごと、地面に置いた。

 

そしてイリヤの前に膝をついた。

 

「イリヤ」

 

泣き声が止まった。赤い目が、涙で滲んだ目が、ライダーを見上げた。

 

「手を」

 

ライダーが右手を差し出した。

 

イリヤは——迷った。一秒。二秒。

 

小さな手が、ライダーの手に置かれた。

 

ライダーの手は大きくて、温かくて、乾いていた。バーサーカーの手とは全く違った。バーサーカーは固くて冷たかった。この手は——人の手だった。

 

「遠坂。魔力のバックアップを頼む」

 

凛が目を開けた。

 

「……いいわ。残った魔力、全部使って」

 

凛がイリヤの背中に手を当てた。魔術回路を通じて魔力を流し込む。凛の魔力がイリヤの体に入り、ライダーの手を通じてライダーの魂と接続する。

 

ライダーは目を閉じた。

 

締結。

 

それがライダーの在り方だった。条約を結び、条約を守り、条約を解く。結ぶことも解くことも——同じ力の表裏。

 

今、ライダーは結ぶ。

 

自分の魂と、イリヤの命を。英霊の魂が持つ膨大な魔力を、イリヤの体に流し込む経路を。一方通行の、不可逆の、最後の条約を。

 

ライダーの体が光り始めた。

 

足元から。セイバーやバーサーカーと同じ光の粒子。聖杯が砕けた影響だ。現世に留まる力が失われていく。だがライダーは——その消滅の過程を、イリヤへの魔力供給に変えていた。

 

消えゆく魂を、燃料にするのではない。魂を解きほぐし、魔力に還元し、イリヤの魔術回路に定着させる。イリヤの体が自律的に魔力を生成できるようになるまでの——種を、植える。

 

「締結する。我が魂の残滓を、アインツベルンの小聖杯——イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの生命維持に充てる。この条約は不可逆であり、破棄はない。私の魂が尽きるまで、効力を持つ」

 

光がイリヤの手を通じて体に流れ込んだ。温かかった。バーサーカーの冷たさとは違う。ライダーの茶の温度。バグラヴァの甘さ。朝の日差しの温もり。そういうものが全部、魔力と一緒にイリヤの体に染みていく。

 

イリヤの涙がまた溢れた。

 

「なんで」

 

「なぜとは」

 

「なんで——私のために。バーサーカーの命を奪った翁を呼んだのはあなたなのに。許さないって言ったのに。大嫌いって——」

 

「嫌われていることは承知している」

 

ライダーの声が穏やかだった。光に溶けかけている体で、声だけは変わらなかった。

 

「だが——嫌われているから助けないという道理はない。王は民を選ばない。好かれていようが嫌われていようが、守る範囲にいる者は守る。おまえは——俺の剣が届く範囲にいた。それだけだ」

 

イリヤの手を握る力が、少しずつ弱くなっていく。

 

ライダーの体が透けていく。鎖帷子が光に溶け、琥珀色の目が薄れていく。

 

ライダーは——ふと、その薄れゆく目でイリヤの顔を見つめた。

 

小さな顔。白い髪。赤い目。泣き腫らした頬。十歳の外見に百年の悲願を押し込められた少女。種は植えた。数年の猶予は作れるはずだ。だがその先は——。

 

「……一つだけ、心残りがある」

 

声が掠れていた。光に溶けかけた声帯で、最後の思いを紡いでいる。

 

「この子の行く先を——見届けられんことだ」

 

イリヤが目を見開いた。

 

ライダーは凛を見た。士郎を見た。

 

「種は植えた。だが種だけでは育たん。水がいる。土がいる。日の光がいる。俺はもう——」

 

言葉が途切れた。途切れたのではない。言い淀んだのだ。

 

王が——言い淀んだ。

 

あの坂道で茶にしないかと言い放ち、凛の計略論を笑い流し、英雄王に菓子を差し出した男が。言いたい言葉は見つからなかった。どこにあるのか分からず、口を閉じた。

 

数年の猶予。うまくいけば十年。だがうまくいかなければ——もっと短い。恒久的な延命策が見つかる保証はない。見つからなければイリヤは消える。ライダーの種が尽きたとき、イリヤの体は止まる。

 

その間、誰がこの子の傍にいるのか。

 

城に帰れば長老たちがいる。だが彼らはイリヤを器としか見ない。衛宮邸には士郎がいる。だが士郎は——まだ子供だ。凛はこの子の面倒を見るだろう。だが凛には凛の人生がある。

 

ライダーは目を閉じかけた。

 

「任せてください」

 

声が聞こえた。

 

ライダーの目が——もう一度、開いた。薄れかけた琥珀色が、声のほうを見た。

 

桜が立っていた。

 

洞窟の薄闇の中に、桜が立っていた。

 

イリヤの隣から立ち上がっていた。両手を体の横に下ろして、真っ直ぐにライダーを見ていた。涙は流れていなかった。声は震えていなかった。

 

あの桜ではなかった。

 

蟲蔵から連れ出された夜の桜ではなかった。定食の塩味が合わないと言えなかった桜ではなかった。喉の奥に石を抱えて路上にうずくまっていた桜ではなかった。

 

「任せてください。イリヤさんのこと」

 

声が出ていた。

 

喉の奥の石を飲み込むのではなく、石の横をすり抜けて、言葉が出てきていた。

 

「一生懸命考えますから。延命の方法も、アインツベルンのことも、私にはまだ全然わからないけど——調べます。姉さんと一緒に。先輩と一緒に。全部わからないなりに、一生懸命」

 

ライダーは桜を見つめた。光に溶けかけた目で。

 

「絶対、私が——私たちが、一緒にいますから」

 

私が。

 

私たちが。

 

桜は「私」を先に言った。「私たち」の前に。先輩でも姉さんでもなく、まず自分が。

 

それがどれだけのことか——ライダーには、わかっていた。

 

あの雑居ビルの一室で、モクモクさんと過ごした日々を知っている。カーテンに隠れたがっていたモクモクさん。膝に乗りたがっていたモクモクさん。自分の頭を千切ろうとしていたモクモクさん。声が出なくて路上にうずくまった日。食べたいものを言えなかった日。言いたいことがある、でもずっと言えないと思う、と掠れた声で告げた日。

 

あの桜が——「私が」と言った。

 

誰かに委ねるのではなく。誰かの後ろに隠れるのではなく。自分の意志で、自分の言葉で、自分の足で立って。

 

「水はあげます。土も、日の光も。ライダーが植えてくれた種を——私が育てます」

 

桜の声は大きくなかった。洞窟に反響するような声ではなかった。ただ——まっすぐだった。一本の線のように。折れそうで、でも折れていない、細い線。

 

イリヤが桜を見上げた。

 

涙で滲んだ赤い目が、桜の顔を見ていた。桜は——自分より少しだけ年下の、やせた少女。蟲蔵で壊されかけた少女。自分と同じように、誰かの道具にされた少女。

 

その少女が、自分の傍にいると言っている。

 

自分で決めて。自分の言葉で。

 

ライダーの目尻の皺が——深くなった。

 

あの笑い方だった。茶を淹れるとき、桜が笑うとき、朝の庭でセイバーと剣を交わしたとき。温かい、穏やかな、八百年変わらない笑み。

 

だがいつもと少しだけ違っていた。全てを見通している王ではない、人としての笑み。今の笑みには——安堵があった。安堵と、驚きと、誇りと。

 

「……そうか」

 

声は掠れていた。もう声帯がほとんど光に溶けている。

 

「ありがとう」

 

それは王の言葉ではなかった。

 

条約でも命令でも庇護でもなかった。ただの——頼みだった。消えゆく一人の人間が、残る一人の人間に、大切なものを託す言葉。

 

桜は頷いた。

 

大きく。一度だけ。

 

「はい」

 

イリヤの手の中で、ライダーの指が最後の力で握り返した。イリヤではなく——桜に向けて。おまえに任せる、という意味の。

 

そして桜を見た。凛を見た。士郎を見た。イリヤを見た。

 

四人の顔を見て——目を閉じた。

 

満足、だった。

 

種を植えた。水をやる人間がいる。土がある。日の光がある。

 

それなら——大丈夫だ。

 

「桜」

 

「はい」

 

「俺はこの街を守れただろうか」

 

最後の問い。声はもうほとんど聞こえなかった。唇が動いているだけ。光の粒子が口元から散っていく。

 

桜は口を開いた。閉じた。もう一度開いた。

 

言葉を探していた。正しい言葉を。ライダーにふさわしい言葉を。でも——見つからなかった。正しい言葉なんてなかった。だから、ただ本当のことを言った。

 

「街のことは——わかりません」

 

ライダーの目が僅かに動いた。

 

「でも——私を守ってくれました。あの夜、あの地下室から連れ出してくれました。温かい場所を作ってくれました。お茶を淹れてくれました。クッキーを焼いてくれました。先輩と姉さんのところに繋いでくれました」

 

桜の声が震えた。だが途切れなかった。

 

「モクモクさんに会わせてくれました」

 

その一言で——声が詰まった。喉の奥の石が動いた。でも今回は、石に塞がれたのではなかった。石の向こうから、涙が溢れてきたのだ。

 

「私にとって、ライダーは——この街を守った王じゃなくて。私を助けてくれた人です。それだけで——十分です」

 

ライダーの手がイリヤの手から離れた。

 

光の粒子が舞い上がった。鎖帷子が消え、曲刀が消え、琥珀色の目が——最後に、桜を見た。

 

桜の中のモクモクさんが——見えた気がした。

 

薄紫の小さな塊。もう灰色ではない。もう震えていない。もうカーテンの陰に隠れていない。桜の胸のあたりで、まっすぐに、立っている。小さいけれど、立っている。

 

ライダーは微笑んだ。

 

「君のサーヴァントで良かった」

 

光が散った。

 

洞窟に静寂が戻った。

 

桜の左手首のブレスレットが揺れた。小さな黄色い石。カラクかアジュルンか——サラディンの城塞の、八百年前の欠片。

 

石は光らなかった。もう、光る理由がなかった。

 

ただの石に戻っていた。

 

桜はそれを握りしめた。

 

温かくはなかった。でも——手の中にあった。確かに。

 

桜はイリヤの隣にしゃがんだ。

 

イリヤは洞窟の床に座り込んだまま、泣いていた。声を出さずに。涙だけが流れ続けている。バーサーカーがいた場所と、ライダーがいた場所を、交互に見ている。

 

桜はイリヤの肩に手を置いた。

 

「イリヤさん」

 

イリヤは桜を見上げた。

 

「一緒に帰りましょう」

 

それだけ言った。長い言葉は要らなかった。約束は——もうした。

 

イリヤの小さな手が、桜の手を掴んだ。

 

冷たい手だった。バーサーカーほどではないけれど、冷たかった。ホムンクルスの体温。桜はその手を両手で包んだ。温めるように。

 

「……うん」

 

イリヤの声が、小さく聞こえた。

 

---

 

教会の地下。

 

言峰綺礼が階段を降りたとき、ギルガメッシュはまだ長椅子に横たわっていた。

 

包帯だらけの体。蝋のような肌。だが——赤い瞳は開いていた。天井を見つめている。呼吸は浅く、不規則で、体の端から光の粒子が漏れ始めている。聖杯が砕けた。サーヴァントを現世に繋ぐ枠組みが消えた。受肉していたギルガメッシュの体にも、その影響が及んでいる。

 

「しぶといな」

 

言峰が笑った。

 

ギルガメッシュの赤い瞳が、言峰を見た。

 

言峰の胸に——剣が突き立っていた。

 

いつの間に。王の財宝。最後の裂け目。そこから滑り出た一振りの剣が、言峰の心臓を正確に貫いていた。

 

言峰は笑みを崩さなかった。膝が折れ、石床に崩れ落ちていく最中にも、笑っていた。

 

「やはり——おまえは、退屈しないな」

 

ギルガメッシュは天井を見つめたまま言った。

 

「後始末くらいしておかねば、我の格が落ちるだろう」

 

声はかすれていた。もう、あの傲岸な声量は残っていなかった。だが——最後の一語まで、王の声だった。

 

剣が光に溶けた。宝物庫の裂け目が閉じた。最後の宝物を、最後の一撃に使い切った。

 

ギルガメッシュは目を閉じた。

 

赤い瞳が閉じ、金色の髪が光の粒子に溶け、包帯に覆われた体が薄れていく。最後に——唇の端が僅かに上がったように見えた。笑っていたのか。満足していたのか。退屈だったのか。

 

誰にもわからない。

 

光が散った。

 

教会の地下に、二つの体が残された。やがて一方は完全に消え、もう一方だけが、冷たい石床の上に横たわっていた。

 

---

 

洞窟の外に出ると、夜だった。

 

冬の空に星が広がっていた。冬木の街が眼下に見えた。街灯が点り、家々の窓に明かりが灯っている。煙突から白い煙。車のヘッドライト。人々の暮らし。何も知らない人々の、平穏な夜。

 

四人は石段に座った。

 

士郎と凛と桜とイリヤ。サーヴァントは誰もいない。ただの人間が四人、冬の夜の石段に並んで座っている。

 

誰も口を開かなかった。

 

しばらくして——イリヤが、ぽつりと言った。

 

「……おなかすいた」

 

凛が吹き出した。

 

士郎が笑った。

 

桜が微笑んだ。

 

「うちに来いよ。飯、作るから」

 

「何を作るの」

 

「クフタのトマト煮込み。スパイスが残ってるんだ」

 

イリヤは首を傾げた。

 

「何それ」

 

「中東の料理。肉団子をトマトで煮込んだやつ。ライダーが——」

 

士郎は言葉を切った。

 

一拍。

 

「——ライダーがレシピを残してくれた」

 

「私も手伝います」

 

桜が言った。

 

当たり前のように。自然に。考えるより先に。

 

「台所、二人で使いましょう、先輩」

 

「ああ——もちろん」

 

士郎は少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。

 

四人は石段を降り始めた。

 

冬木の夜。二月の風。冷たいが、澄んでいる。

 

聖杯のない街。英霊のいない街。ただの街。

 

桜はイリヤの手を繋いだまま、石段を降りていた。イリヤの手はまだ冷たかった。でも——さっきより少しだけ、温かくなった気がした。

 

四人の足音だけが、石段に響いていた。




あとはエピローグです。
明日18時投稿です。
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