三月になった。
冬木の街に春の気配が混じり始めていた。朝の空気はまだ冷たいが、日差しに柔らかさがある。街路樹の枝先に、小さな芽が膨らんでいる。
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朝。七時半。衛宮邸。
「士郎ーー! 遅れるーー!!」
藤村大河が廊下を走っていた。ブラウスの第二ボタンが留まっていない。髪はかろうじてまとめてあるが、寝癖が一房跳ねている。
「藤ねえ、無理すんなって。まだ病み上がりなんだから」
「病み上がりなのよぉ~。わかってるなら起こしてくれればよかったじゃないの~」
「起こしたよ。三回」
「三回じゃ足りないのよ私は! 最低五回!」
士郎は玄関で靴を履きながら、藤ねえの姿を見ていた。
元気だった。うるさいくらい元気だった。
藤村大河は一月の終わりから二月いっぱい、冬木中央病院に入院していた。原因不明の全身倦怠感と悪夢。医師は過労とストレスと診断したが、本当の原因を士郎は知っている。
翁——山の翁の気配だ。
間桐の屋敷に顕現した初代ハサンの霊圧は、屋敷の周囲にも影響を及ぼしていた。衛宮邸は間桐家からそれほど遠くない。死の概念を含んだ霊圧が、魔術回路を持たない一般人の体を蝕んだ。慎二と同じだ。程度は軽かったが、藤ねえは二週間ほど寝込んだ。
だが今は——元気だ。走っている。叫んでいる。ボタンが留まっていない。いつもの藤ねえだ。
「先行くぞー!」
「待って待って待ってーー!」
ばたばたと靴を履く音。ドアが閉まる音。二人の足音が通学路に響いた。
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同じ頃。遠坂邸。
桜は洗面台で顔を洗っていた。
間桐の屋敷はもうない。聖杯戦争の序盤——凛たちは間桐邸を破壊した。蟲蔵が潰れ、一階の床が陥没し、居住不能になった。公的には老朽化による倒壊として処理されている。凛が手を回した。
桜は今、遠坂の家にいる。
姉の家。実の姉の家。五歳のときに離れた、本来の家。
まだ慣れない。広い廊下も、磨き上げられた床も、魔術の道具が並ぶ書斎も。でも——居心地は悪くなかった。蟲の匂いがしない。地下がない。それだけで十分だった。
桜がリビングに行くと、凛がテーブルに突っ伏していた。
「……姉さん?」
「んー……」
凛が顔を上げた。
桜は——思わず、口元を押さえた。
遠坂凛。穂群原学園の優等生。学年主席。常に姿勢正しく、服装に乱れなく、朝から完璧な笑顔を浮かべる「学園のアイドル」。
その凛が——目がしょぼしょぼだった。
髪がぼさぼさだった。パジャマのボタンがずれていた。頬にシーツの跡がついていた。
「……なに見てんのよ」
「いえ、あの——おはようございます、姉さん」
「おはよ……コーヒー……」
凛がゾンビのようにキッチンに向かった。
桜は後ろ姿を見ながら、小さく笑った。
姉さんはいつもしっかりしていると思っていた。学校でも、聖杯戦争のときも、同盟の交渉のときも。いつも凛として背筋が伸びていて、判断が速くて、声に迷いがなかった。
でも今朝の寝起きは——しょぼしょぼで、ぼさぼさで、なんだかおかしかった。人間だったのだ。当たり前のことだけれど。姉さんも朝は弱いのだ。
桜はコーヒーを淹れた。凛の分にはミルクを少し。自分の分には砂糖を少し。
「はい、姉さん」
「……ん。ありがと」
凛がコーヒーを啜った。三口目で、ようやく目が開いた。
「……行くわよ。支度して」
「はい」
桜が制服に着替えて玄関に向かうと、リビングのソファにイリヤがいた。白いパジャマに赤いカーディガン。膝にクッションを抱えて、テレビを見ている。朝のワイドショー。
イリヤも遠坂邸にいる。衛宮邸と遠坂邸を行き来しているが、最近は遠坂邸にいることが多い。凛の検診が定期的に必要なのと——桜がいるから。
「じゃあ行ってくるわね、イリヤ」
凛が声をかけた。
「いってらっしゃい」
イリヤはテレビから目を離さずに答えた。
桜が玄関で靴を履きながら、振り返った。
「イリヤさん。今日——五時頃、学校に来ませんか?」
イリヤがようやくテレビから顔を上げた。
「学校? 何しに」
「見てほしいところがあるんです」
イリヤは桜を見た。赤い目が、少しだけ興味を示した。
「気が向いたらね」
桜は微笑んだ。イリヤの「気が向いたら」は、だいたい来る。
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通学路。八時。
坂道の途中で、桜と凛は士郎と合流した。
「おはよう、衛宮くん」
「おう、遠坂。桜もおはよう」
「おはようございます、先輩」
三人が並んで歩いた。士郎が左、桜が真ん中、凛が右。いつもの配置。いつもの朝。
「今日藤ねえがさ、三回起こしたのに起きなくて」
「藤村先生、退院してから前より元気じゃない? リミッター外れた感じ」
「ほんとそうなんだよ。朝から全力疾走してた。病み上がりとは思えない」
桜は笑った。藤村先生は士郎の保護者で、穂群原の英語教師で、いつも賑やかな人だ。入院していたと聞いたときは心配したけれど——元気になってよかった。
坂道を登りながら、三人は談笑していた。昨日のテストの話。今日の弁当の中身の話。春休みの予定の話。何でもない会話。何でもない朝。
坂道の向こうから、子供たちの声が聞こえてきた。
小学生の一群だ。ランドセルを揺らして、きゃあきゃあと笑いながら歩いている。五人か六人。女の子が多い。
その中に——一人、見覚えのある子がいた。
桜の足が、一瞬だけ鈍った。
優希。
短い髪。華奢な体。でも——前とは違っていた。
服装が違う。前に見たときは、どこか地味な、体を隠すような服を着ていた。今は——花柄のスカートに、ピンクのカーディガン。女の子らしい、明るい色の服。ランドセルにはキーホルダーがいくつもぶら下がっている。友達と並んで、何かの話をして笑っている。
笑っていた。
桜は歩みを止めなかった。三人はそのまますれ違った。
優希は桜を見なかった。目を合わせなかった。桜たちの横を通り過ぎて、同級生と一緒に坂道を降りていった。笑い声が遠ざかっていく。
覚えていないのだ。令呪も、翁も、蟲蔵も。あの雑居ビルの一室も、折り紙の兜も、ぐにゃぐにゃに切った豆腐も。何も。
それでいい、と桜は思った。
覚えていないほうがいい。あの夜のことは、何も。その代わりに——花柄のスカートを履いて、友達と笑って、ランドセルにキーホルダーをつけて。それでいい。
「桜? どうした?」
「いえ——何でもないです、先輩」
桜は微笑んだ。今度は、薄い膜のない笑みだった。
三人は校門に向かって歩いた。
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昼休み。
士郎は弁当を半分食べたところで席を立った。
「ちょっと職員室行ってくる」
「先輩?」
桜が顔を上げた。凛も箸を止めた。
「すぐ戻る」
士郎は教室を出て、階段を降り、一階の職員室に向かった。
ノックして、戸を開けた。昼休みの職員室は半分ほどの教師がいて、残りは食堂か外に出ている。弁当の匂いとコーヒーの匂いが混じっている。
「失礼します。間桐慎二の担任の先生はいらっしゃいますか」
「ああ、衛宮くん。何か用?」
中年の男性教師が、眼鏡を押し上げながら振り返った。机の上に弁当の蓋が開いている。
「間桐の容態を聞きたくて。最近どうですか」
先生の顔が曇った。弁当の箸を置いて、士郎のほうに向き直った。
「まだ退院できないんだよ。いつになるか——正直、見通しが立たない。全身の神経がどうとか、原因不明の衰弱だとか」
「面会は」
「それがねえ」
先生は頭を掻いた。
「どこの病院かも教えてもらえないんだ。お祖父様の意向で、って言われてたんだけど——そのお祖父様も亡くなったらしくて」
士郎は黙った。間桐臓硯。あの老人が死んだことを、学校側は「老衰による急逝」として把握しているのだろう。
「もうややこしいやら心配やらでね。後見人がいなくなった生徒の入院先もわからない。教育委員会にも報告してるんだけど、間桐の家は古い家柄だとかで、あちこちに話が通ってて。こっちから動こうにも——」
先生はため息をついた。
「衛宮くん、間桐くんとは同級だったよね。何か知ってることがあったら教えてほしいんだけど」
「すみません。俺も——最近は会えてなくて」
嘘ではなかった。慎二の入院先は凛が調べているが、まだわかっていない。正直、行くべきなのかもしれない。でも——何を言えばいいのかわからなかった。
「そうか。まあ、何かわかったら教えてくれ。こっちも引き続き調べるから」
「はい。ありがとうございます」
士郎は頭を下げた。
顔を上げたとき——職員室の奥に、目が止まった。
窓際の机。倫理と社会の教科書が積まれている。その前に、背筋のまっすぐな男性教師が座っていた。無表情。短い黒髪。無駄のない姿勢。弁当ではなく、教材に目を落としている。
葛木宗一郎。
葛木先生も休んでいたのだ。二月の初めから、二週間ほど。理由は体調不良とだけ聞いていた。藤ねえと同じ時期だった。
士郎は葛木がキャスターのマスターだったことを知らない。キャスターが柳洞寺を拠点にしていたことは知っているが、マスターが誰だったかは——翁が処理したあと、凛も詳しくは調べていなかった。葛木は聖杯戦争の終結とともにマスターの資格を失い、令呪が消え、キャスターの残した魔術的影響から解放された。体調を崩したのは、キャスターが翁に襲撃されたときに近くにいたことで、死の気配にあてられたからだろう。
士郎はそんなことは知らなかった。ただ——葛木先生がいつも通りの姿勢で教材を読んでいるのを見て、元気そうでよかった、と思った。
「失礼しました」
士郎は職員室を出た。
廊下に——桜がいた。
壁にもたれて立っていた。弁当箱を持ったまま。士郎が出てくるのを待っていたのだ。
「桜」
「先輩。兄さんのこと、聞きに行ったんですね」
隠す理由はなかった。
「ああ。まだ退院できないってさ。いつになるかもわからない。病院がどこかも、先生たちには教えられてないらしい。お祖父さんの意向で伏せてたのが、お祖父さんも亡くなったから——宙に浮いてるみたいだ」
桜は廊下の窓を見た。三月の日差しが差し込んでいる。中庭の桜の木はまだ蕾が固い。
「そうですか」
桜はさみしく笑った。
さみしく、だった。悲しく、ではなく。怒りでもなく。ただ——さみしく。
「先輩」
「うん」
「私——いつか、行こうと思います。お見舞い」
士郎は桜を見た。桜の目は穏やかだった。決意とも覚悟とも違う、もっと静かなもの。
「そうか。——何かあったら言ってくれ」
「はい」
二人は廊下を並んで歩いた。教室に戻る。残りの弁当を食べる。午後の授業が始まる。
いつもの昼休み。いつもの廊下。いつもの日常。
でも——少しずつ、変わっている。
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放課後。午後五時。穂群原学園・校門。
桜が校門を出ると——イリヤがいた。
白いコートに赤いマフラー。校門の柱にもたれて、退屈そうに空を見上げている。気が向いたら、のイリヤが——ちゃんと来ていた。
「イリヤさん」
「五時って言ったでしょ。五時ちょうどよ。待ったんだから」
「すみません、ちょっとホームルームが長引いて」
「で、何を見せたいの」
桜はイリヤの手を取った。小さくて、少し冷たい手。ホムンクルスの体温。でも——もう、この冷たさは怖くなかった。
「こっちです」
桜はイリヤの手を引いて、校舎の裏手に回った。渡り廊下を抜け、体育館の横を通り——弓道場にたどり着いた。
引き戸を開けた。
畳の匂い。蝋の匂い。弦の張った弓が壁にかけてある。的場の向こうに、藁の的が並んでいる。数人の部員が練習していた。
「桜!」
声が飛んできた。弓道着の少女。ポニーテール。日に焼けた肌。鋭い目。弓道部主将——美綴綾子。
「久しぶり! 元気してたの??」
美綴が駆け寄ってきた。桜の両手を掴んで、上下にぶんぶん振る。
「は、はい、元気です、美綴先輩」
「心配したんだからねー。ずっと休んでて、家のことがどうとかって聞いたけど」
「いろいろありまして……。でも、もう大丈夫です」
美綴の目がイリヤに向いた。
「ていうかその子は誰?」
イリヤが桜の後ろに半分隠れている。白い髪、赤い目。穂群原の制服ではない。明らかに小学生くらいの外見。
「親戚の子です。イリヤといいます。弓道に興味があるみたいで、見学させたいんですけど——」
美綴はイリヤを見た。イリヤも美綴を見た。
白い髪に赤い目のイリヤ。どう見ても血縁には見えなかった。見えなかったが——美綴は深く追及しなかった。
「まあ、いいけど。邪魔しないでね」
「はい。ありがとうございます」
桜はイリヤを弓道場の見学席に座らせた。イリヤは興味なさそうな顔で——でも目だけは、部員たちの動きを追っていた。弓を引き、矢をつがえ、呼吸を整え、放つ。的に当たる音。外れる音。
「ねえねえ」
二年生の部員が一人、イリヤに声をかけた。にこにこしている。
「やってみます? 体験、できますよ」
「いい。やらない」
イリヤは即答した。
「えー、せっかく来たのに? 簡単なのでいいから!」
「やらないって言ってるでしょ」
「弓、軽いのありますよ。持つだけでもーー」
「だからーー」
気づいたときには、イリヤは弓を持たされていた。
小さな体に合わせた練習用の弓。それでもイリヤの身長には大きすぎて、弓の下端が畳についている。部員が後ろから手を添えて、構え方を教えている。
「はい、右手で弦を引いて——ここに矢をかけて——」
イリヤの目が据わっていた。やらないと言ったのに。言ったのに持たされている。この感じは——バグラヴァを食べろと言われたときに似ている。
矢をつがえた。弦を引いた。小さな体で、ぎりぎりまで引いた。
放った。
矢は——的の遥か上を飛び、壁に当たって跳ね返り、畳に転がった。
「あー、惜しい! もうちょっと下を狙って——」
「初めてだから仕方ないでしょ」
イリヤは仏頂面だった。
もう一本。今度は的の左に逸れた。三本目は右に。どれも的に当たらない。
部員たちが「初めてだもんね」「筋はいいよ」と声をかけている。イリヤの不機嫌が増していく。
四本目をつがえたとき——部員たちが的場の後ろで矢を拾いに行っていた。桜も美綴と話をしていた。
誰も、イリヤを見ていなかった。
イリヤの赤い目が光った。
左手——弓を持つ手に、ほんの微かに魔力が流れた。アインツベルンの魔術。物質に干渉する錬金術の系譜。矢の軌道を微調整する程度のことは——息をするより簡単だった。
放った。
ドッ。
音が違った。
矢は的の中央を射抜いた。射抜いたどころか——的を貫通し、藁の向こう側に突き出し、背後の土壁に深々と突き刺さった。練習用の弓で、練習用の矢で。それがありえない深さまでめり込んでいる。
弓道場が静まった。
矢を拾いに行っていた部員が振り返った。的を見た。貫通した矢を見た。
「えっ——」
「嘘——」
「的、突き抜けてない……?」
ざわめきが広がった。部員たちが的場に駆け寄っていく。
桜は振り返った。イリヤの顔を見た。
イリヤは弓を下ろして、すまし顔をしていた。何事もなかったかのように。
桜は一瞬で理解した。
「イリヤさん! 行きましょう!」
桜はイリヤの手を掴んで、弓道場から引きずり出した。引き戸を閉め、渡り廊下を走り、校舎の角を曲がった。背後で「えっ、あの子どこ行った?」「すごくない今の?」という声が聞こえたが、振り返らなかった。
校舎裏の植え込みの陰で、二人は足を止めた。
桜は息を切らしていた。イリヤは平然としていた。
「イリヤさん……魔術は、だめですよ……」
「何のことかしら」
「貫通してました。完全に」
「初心者の幸運ってやつよ」
桜はイリヤを見た。イリヤは桜を見た。
二人は——同時に噴き出した。
笑った。校舎裏の植え込みの陰で。三月の夕暮れの中で。
笑いが収まったあと、イリヤが言った。
「楽しそうね」
「え?」
「弓道。あの人たち、楽しそうだった。的に当たっても外れても、きゃあきゃあ言って」
「美綴先輩は厳しいですけど、みんな仲がいいんです」
「ふうん」
桜はイリヤを見た。
「イリヤさんも楽しかったですか?」
イリヤは前を向いたまま、少し間を置いた。
「……そうね」
それだけ言った。でも——口元が、ほんの僅かだけ緩んでいた。
---
午後六時。衛宮邸。
玄関の戸を開けた瞬間——。
「いらっしゃーい!!」
藤村大河がエプロン姿で飛び出してきた。正確には、エプロンをつけただけで何も作っていない。台所には何の気配もない。大河は料理をしない。するとろくなことにならない。
「藤ねえ、おかえりじゃなくていらっしゃいなのか」
「桜ちゃんとイリヤちゃんにはいらっしゃいでしょ! ちゃぶ台! ちゃぶ台用意したわよ!」
居間のちゃぶ台には、すでに箸と皿と取り椀が並んでいた。四人分ではない。五人分。凛の分も含めて。大河の段取り力は、料理以外の場面では異常に高い。
「士郎ごはーん!!」
大河がちゃぶ台をばんばん叩いた。箸が跳ねた。
「まだ作ってないよ! 今から!」
「早く早く! お腹ぺこぺこなの!」
「藤ねえは座ってろ。桜、悪いけど手伝ってくれるか」
「はい、先輩」
桜は台所に入った。エプロンを着けた。衛宮邸の台所。何度も立った場所。何百回もここで料理をした。この包丁も、このまな板も、この鍋も、桜の手に馴染んでいる。
冷蔵庫を開けた。白菜、豆腐、豚バラ肉、長葱、キムチ。
「今日は何を?」
「キムチ鍋。遠坂に連絡した。もうすぐ来ると思う」
「キムチ鍋! いいですね」
桜は白菜を切った。士郎が豚肉を切った。二人で台所に立つ。並んで。士郎の方が背が高いから、桜は少し見上げる形になる。
「先輩、キムチはもう少し後で入れたほうがいいですよ。最初から入れると辛くなりすぎます」
「そうか? 藤ねえは辛いの好きだぞ」
「イリヤさんは辛いの苦手かもしれないから、取り分けてからキムチを足す方式にしましょう」
「なるほど。さすが桜だ」
居間から声がした。
「何その嬉しそうな声ーー! 聞こえてるわよ士郎ーー!」
「うるせえ藤ねえ! 料理の話だよ!」
「イリヤちゃん、士郎ってば桜ちゃんの前だとデレデレなのよ」
「知ってる」
「イリヤ!」
桜は笑った。鍋の湯気が立ち上って、台所が温かくなっていく。白菜と豆腐と豚肉が鍋に入って、出汁の匂いが広がっていく。
棚のスパイスの袋が、桜の視界の端に入った。クミン、コリアンダー、ターメリック、パプリカ。サラディンが残したもの。メモも挟まったまま。右から左に流れる癖のある、あの筆跡。
今日はキムチ鍋だから使わない。でも——明日は、クフタのトマト煮込みにしようか。
玄関のチャイムが鳴った。
「はーい!」
大河が飛び出していく足音。玄関の戸が開く音。
「お邪魔します」
凛の声が聞こえた。
「 いらっしゃーい! 鍋よ! キムチ鍋!」
「ありがとうございます、藤村先生。……あ、いい匂い」
凛が居間に入ってきた。制服のままだったが、コートは脱いでいた。手には紙袋——商店街の和菓子屋の袋。
「デザートに草餅買ってきたわ。五個入り」
「気が利くーー!」
「姉さん、こっちに座ってください。鍋、もうすぐできます」
「ありがと、桜」
五人がちゃぶ台を囲んだ。士郎と大河と桜とイリヤと凛。鍋が中央に置かれ、湯気が立ち上り、白菜と豆腐がぐつぐつ煮えている。
「いただきまーす!」
大河が真っ先に箸を伸ばした。豚肉を取り皿に山盛りにする。
「藤ねえ、取りすぎ」
「病み上がりだから栄養がいるのよ!」
「それ三回目の言い訳」
イリヤが豆腐を取った。キムチの入っていない方の鍋から。桜がよそってあげた。
「辛くないですか?」
「大丈夫。おいしい」
凛が白菜を食べながら、ちゃぶ台の周りを見渡した。五人。騒がしい食卓。鍋の湯気。藤村先生の笑い声。士郎の呆れ声。桜の柔らかい声。イリヤの短い言葉。
凛は草餅を一つ取って、皿に置いた。
「先輩、おかわりいりますか?」
「ああ、頼む。白菜多めで」
「はい」
桜がおたまで鍋をかき混ぜた。湯気が顔にかかった。温かかった。
左手首のブレスレットの石が、湯気の中で揺れた。小さな黄色い石。もう光らない。ただの石。
でも——温かい気がした。
鍋の湯気のせいかもしれない。あるいは——。
桜は笑った。
ちゃぶ台の上に、鍋と取り皿と草餅。五人分の箸と五人分の笑い声。サーヴァントはいない。英霊はいない。ただの人間が五人、冬の夜に鍋を囲んでいる。
冬木の街に、春が来ようとしていた。