桜「中東のライダー?」   作:ヤシの木の里

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反抗期

 

九月。冬木の残暑はまだ厳しかったが、朝晩には秋の気配が混じり始めていた。

 

桜は穂群原学園に通い、放課後はたまに衛宮邸で夕食を作り、イリヤと一緒に遠坂邸に帰る。凛が時々合流する。そういう日常が、もう当たり前になっていた。

 

間桐慎二が入院している場所が分かったのは、九月の半ばだった。面会謝絶になっていたせいで、今日まで見つけることができなかったのだ。

 

凛が調べてきた。冬木中央病院。個室。面会制限あり。病名は——公式には原因不明の全身衰弱。

 

本当の原因を、桜は知っていた。

 

間桐臓硯が優希を地下に監禁し、アサシンを召喚させた。山の翁。あの存在が間桐の屋敷に顕現したとき、屋敷全体に死の気配が満ちた。概念に近い暗殺者の霊圧。それを日常的に浴び続けた慎二の体が——壊れた。

 

慎二には霊的な防御手段がなかった。臓硯は蟲で自身を守り、桜は擬似的な小聖杯としての耐性があった。だが慎二には何もなかった。ただの人間の体で、死の概念を浴び続けた。

 

結果、全身の神経系統が損傷した。四肢の感覚が鈍り、時折痙攣が起きる。回復の見込みは——ある。あるが、長い時間がかかる。

 

---

 

「行くの?」

 

凛が聞いた。衛宮邸の居間。放課後。

 

「はい」

 

「行かなくていいわよ。あいつのことは病院に任せておけばいい。あんたが行く義理はない」

 

「義理じゃないです」

 

凛は桜を見た。何か言いかけて——やめた。

 

士郎が口を開いた。

 

「俺が代わりに行くよ。慎二とは同級だし、見舞いくらい——」

 

「先輩。ありがとうございます。でも、大丈夫です」

 

士郎は言葉を切った。桜の目を見て、それ以上は言わなかった。

 

イリヤは何も言わなかった。

 

ソファに座ってバグラヴァを齧りながら、桜を見ていた。赤い目が、まっすぐに。何も言わず、止めもせず、励ましもせず。ただ——見ていた。

 

桜はイリヤを見た。

 

「イリヤさん。一緒に来てもらえますか」

 

凛と士郎が少し驚いた顔をした。なぜイリヤなのか。桜自身にも——はっきりとした理由はわからなかった。

 

ただ、「行かなくてもいい」と言う凛でもなく、「俺が代わりに」と言う士郎でもなく。何も言わずに桜を見据えていたイリヤに——ついてきてほしかった。

 

イリヤはバグラヴァの最後の欠片を口に入れて、立ち上がった。

 

「いいわよ」

 

---

 

冬木中央病院。五階。個室病棟。

 

廊下は静かだった。リノリウムの床に、二人の足音だけが響いている。桜のローファーと、イリヤのスニーカー。窓から午後の光が差し込んでいる。消毒液の匂い。どこかでナースコールが鳴っている。

 

五〇三号室。

 

扉の前で、桜は立ち止まった。

 

引き戸だった。銀色の取っ手。すりガラスの小窓。向こう側に、人影が見える。ベッドに横たわっている影。

 

桜の手が、取っ手に伸びた。

 

止まった。

 

指先が取っ手に触れたまま、動かない。

 

この扉は——蟲蔵の扉?

 

違う。病院の扉。白い壁。明るい廊下。消毒液の匂い。蟲の匂いじゃない。地下の湿った空気じゃない。ここは病院で、あそこじゃない。

 

わかっている。頭ではわかっている。

 

でも手が動かない。

 

指が震えていた。取っ手に触れたまま。押すことも引くことも離すこともできない。体が——覚えている。この種類の扉を開けたあとに何が待っているか。暗闇。蟲。慎二の声。お爺様の笑い。あの匂い。あの温度。あの——。

 

「どうするの?」

 

横でイリヤが言った。

 

「帰る?」

 

問いかけだった。判断を委ねていなかった。帰ってもいいし、開けてもいい。どちらでもイリヤは隣にいる。ただ——桜が決めろ、という声だった。

 

「大丈夫です」

 

大丈夫じゃなかった。手が動かない。怖い——いや、怖いのとは違う。感情よりもっと根源的な何かだった。恐怖は頭にある。これは体にある。十一年かけて刻まれた条件反射。慎二のいる部屋の扉を開ける。その動作そのものが、体の回路を凍らせている。

 

まるで縛られたように、手が動かない。

 

ガラッ。

 

音を立てて、扉が開いた。

 

桜は目を見開いた。自分が開けたのではない。

 

イリヤが開けたのだ。

 

小さな手が、桜の手の横から伸びて、取っ手を掴んで、引いた。何の躊躇もなく。引き戸が開いて、病室の空気が廊下に流れ出した。

 

イリヤが桜を見上げた。

 

「頼っていいのよ」

 

赤い目がまっすぐだった。

 

「それを学んだんでしょ」

 

桜の胸の奥で——何かが動いた。

 

あの雑居ビルの一室で。モクモクさんと過ごした日々で。おんぶされて泣いた日で。オムライスを作った日で。言いたいことがある、でも言えない、と声を絞り出した日で。

 

頼ることを——学んだ。

 

イリヤの手が桜の手を取った。小さくて、少し冷たい手。ホムンクルスの体温。でも今は——その冷たさが、桜の凍りついた手を解かした。

 

一歩。

 

踏み出した。病室の敷居を越えた。リノリウムの床から、病室の床に。

 

二歩。

 

ベッドが見えた。白いシーツ。窓から光が差している。点滴のスタンド。心電図のモニター。

 

三歩、四歩。

 

ベッドの横に着いた。

 

---

 

慎二は桜を見るなり——苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

痩せていた。頬がこけて、目の下に隈がある。髪は伸び放題で、病衣の襟元から鎖骨が浮いている。両手はシーツの上に投げ出されていて、指先が微かに震えている。神経損傷の後遺症。

 

「……何しに来たんだよ」

 

声はかすれていた。だが——あの刺すような調子は変わっていなかった。

 

「嬉しいだろ。僕がいなくなって」

 

桜は何も言えなかった。

 

「衛宮は喜んでたか? ああ、そうだろうな。邪魔者がいなくなって、さぞ清々してるだろうさ。あいつ、お前にはいい顔するもんな。それだけが取り柄だもんな」

 

慎二の目がイリヤに移った。

 

「何だそのガキ。お前、子連れで見舞いか? 衛宮も罪なヤツだな。自分の妹みたいなの連れてきて。ハハ。ハハハ」

 

笑い声が引き攣っていた。体が動かないから、顔だけで笑っている。目が笑っていない。目は——怯えている。

 

桜の頭の中で、思考が回り始めた。

 

兄さんも辛いんだ。

 

間桐の家で、魔術回路を持たない長男として生まれた慎二。魔術師の家系で、才能のない子供として育った慎二。後から来た養子の妹のほうが「使える」と臓硯に評価されて、自分は何もないまま放り出された慎二。

 

大変だったんだ。

 

こう言わないと自分を保てない人だから。悪態をつくことでしか、自分の場所を主張できない人だから。八つ当たりでしか感情を表現できない人だから。

 

わかっている。わかっているから——耐えよう。この人の言葉を受け止めて、理解して、許して——。

 

イリヤの手が、桜の手を強く握った。

 

ぎゅっ、と。小さな指に、力が込もった。

 

桜はハッとした。

 

また——思考の中に囚われていた。「兄さんも辛い」「仕方ない」「耐えよう」——あの蟲蔵で身につけた生存戦略。相手を理解し、相手の苦しみを引き受け、自分の感情を殺す。そうすれば傷つかない。そうすれば嵐が過ぎるのを待てる。

 

十一年間、そうやって生きてきた。

 

イリヤの赤い目が、桜を見ていた。言葉はなかった。ただ目が問いかけていた。

 

帰る?

 

桜は——目を閉じた。

 

暗闇の中に、モクモクさんがいた。

 

モクモクさんは苦しんでいた。

 

薄紫の小さな塊が、体を震わせて、涙を流して——拳を振り上げていた。何かを殴っている。暗闇の中で、何かに向かって、もこもこした小さな拳を叩きつけている。何度も。何度も。涙を流しながら。

 

慎二を殴っていた。

 

桜は目を開けた。

 

そうか。

 

怒ってるんだ。

 

モクモクさんは——怒っていた。悲しみでも恐怖でもなく。あの赤い色。最初に見たときの赤い色が、モクモクさんの中に戻ってきていた。叫びたかった声。言葉にならない大きな声。あのときは聞くことしかできなかった。

 

でも今は——。

 

「わ、わたしは」

 

声が喉を通った。小さかった。掠れていた。でも——出た。

 

慎二が桜を見た。

 

「何だよ」

 

言え。

 

胸の奥で、モクモクさんが拳を振り上げている。

 

「……わたしはぁ……」

 

言うんだ。

 

『無理はしなくていい。だが、君が言いたいことがあると言うなら尊重しよう』

 

左手首のブレスレットの石が——温かくなった気がした。

 

小さな黄色い石。カラクかアジュルンかの、八百年前の欠片。もう光らない。もう魔力はない。ただの石。でも——温かい。エジプトの太陽を浴びた温もりが、まだ残っているかのように。

 

あの声が聞こえた。あの穏やかな、琥珀色の声。

 

桜は息を吸った。

 

「静かに——してくだ、さい!!」

 

声が病室に響いた。

 

慎二の目が見開かれた。

 

「あなたは——わたしは——わたしがどんなに辛かったか!」

 

言葉が溢れた。

 

「わ、わたしは——わたしは——辛かった!!」

 

せきを切ったように。

 

「兄さんが嫌い!!」

 

慎二の顔が凍りついた。

 

「嫌いじゃない!!」

 

叫ぶ声が止まらない。

 

「ゆるせない!!」

 

声が——叫びになっていた。桜が叫んでいた。十一年間、一度も出したことのない声で。蟲蔵で殺した声で。路上で出てこなかった声で。

 

慎二が、イリヤが、ポカンとしていた。

 

慎二の口が開いたまま閉じない。桜が——あの桜が——叫んでいる。俯いて、黙って、何を言われても「はい」としか言わなかった桜が。

 

もう止まらなかった。

 

考えることはしなかった。言葉を選ばなかった。正しい言葉も、ライダーにふさわしい言葉も、先輩を傷つけない言葉も、何も考えなかった。ただ喉を通るままに言葉を吐いた。

 

蟲蔵のこと。夜のこと。体のこと。お爺様のこと。学校で笑えなかったこと。先輩の家の台所で手が震えたこと。帰りたくなかった夕暮れのこと。全部。全部。十一年分の全部を、順番もなく、文脈もなく、ただ喉から押し出した。

 

言葉と言葉の間に涙が混じった。鼻水も混じった。呼吸が乱れて、途切れ途切れになって、それでも止まらなかった。

 

慎二はしばらく黙っていた。

 

黙って、桜の叫びを聞いていた。顔が白くなり、赤くなり、また白くなった。唇が震えていた。指先がシーツを掴んでいた。動かない体で、シーツだけを握りしめていた。

 

そして——。

 

「嫌なら嫌って言えよ!!」

 

慎二が叫んだ。

 

体が動かない。ベッドから起き上がれない。でも声は出た。枯れた喉で、引き攣った顔で。

 

「僕が辛くなかったっていうのか!? 自分ばかり被害者みたいな顔しやがって!!」

 

「知ってます!!」

 

桜が叫び返した。

 

「辛いのも!! 何もかも!!」

 

「知ってるんだったら——!」

 

「でも許せないんだもん!!」

 

「——っ」

 

「辛かったんだもん!! 嫌だったんだもん!!」

 

「僕だって好きでやったんじゃない!! あの家で——あの爺に——僕は——!!」

 

「わかってる!! わかってるけど——それとこれとは違う!! 兄さんがしたことは兄さんのことだもん!!」

 

「うるさい!! お前に何がわかる!! お前のほうから——」

 

慎二の顔が歪んだ。歯を剥き出しにした。目が血走っていた。動かない体の、声だけが刃物のように鋭くなった。

 

「お前のほうから求めてきたくせに!!」

 

桜の声が——止まった。

 

口が開いたまま、音が消えた。喉が凍りついた。頭が真っ白になった。

 

求めてきた。

 

その言葉が——桜の中の何かを、切断した。

 

思考が消えた。反論が消えた。怒りも悲しみも消えた。言葉というものが、すべて消えた。

 

残ったのは——体だけだった。

 

「うわああああああ!!!」

 

声ではなかった。言葉ではなかった。ただの——叫び。意味のない、原始的な、腹の底から絞り出された音。

 

桜がベッドに掴みかかった。

 

慎二の病衣を掴んだ。両手で。爪が立つほど強く。細い指が白い布を引き千切らんばかりに握り締めた。慎二の体が引きずられてベッドの端に寄った。点滴のスタンドがガタンと揺れた。

 

「う——あああ——!!」

 

桜は叫んでいた。慎二を掴んで、揺すって、叫んでいた。何を言っているのかわからなかった。自分でもわからなかった。言葉じゃない。モクモクさんが最初に叫んでいた、あの声。言葉にならないことを、大きな声で叫んでいた、あの声と同じもの。

 

慎二の顔に——恐怖が浮かんだ。

 

桜の目が、あの桜の目が、見たことのない色をしていた。涙と怒りと、もっと深い何かが全部混ざった、名前のつけられない目。

 

「やめ——桜、やめろ——!」

 

慎二がもがいた。動かない体で。腕が少しだけ上がって、桜の手首を掴もうとしたが、指に力が入らなかった。

 

心電図のモニターが激しく警告音を鳴らした。隣の部屋のドアが開く音がした。足音が廊下を走ってきた。

 

「何をしているんですか!!」

 

看護師が二人、飛び込んできた。男性看護師が桜の肩を掴み、引き剥がした。女性看護師がベッドの慎二を押さえ、点滴のラインを確認した。

 

「離して——離して——!!」

 

桜はまだ叫んでいた。看護師に腕を掴まれたまま。慎二の病衣を握っていた手が引き剥がされて、空を掴んだ。

 

イリヤが桜の手を取った。

 

小さな手。冷たい手。でも——しっかりした手。

 

「桜。行くわよ」

 

桜の体から——力が抜けた。

 

看護師が桜を解放した。イリヤが桜の手を引いた。ぐい、と。小さな力。でも迷いのない力。

 

病室を出る瞬間、桜は振り返った。

 

慎二がベッドの上で肩を上下させていた。目が赤かった。泣いてはいなかった。泣いてはいなかったが——目が赤かった。

 

引き戸が閉まった。

 

---

 

廊下。

 

桜の膝が折れた。

 

壁に背をつけて、そのまま床にずり落ちた。リノリウムの冷たさが脚に伝わった。体中の力が抜けていた。手が震えている。足も震えている。呼吸が浅い。過呼吸になりかけている。

 

「——すって、はいて」

 

イリヤの声が聞こえた。小さな手が桜の肩に置かれた。

 

「すって。はいて。ゆっくり」

 

桜は目を閉じて、息を吸った。吐いた。吸った。吐いた。少しずつ、少しずつ、呼吸が戻ってきた。

 

「頑張ったわね」

 

イリヤの声が——穏やかだった。

 

いつもの皮肉な口調ではなかった。評価でもなかった。ただ——事実を言った。頑張った、と。

 

桜は壁にもたれたまま、天井を見上げた。病院の白い天井。蛍光灯の光。

 

しんどかった。

 

本当にしんどかった。体中の力が出ていってしまった。声を出しすぎて喉が痛い。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。心臓がまだ速い。手の震えが止まらない。

 

きっと、今日はもう動けない。今日の出来事を消化するのに——何日かかるだろう。一週間。一ヶ月。もしかしたらもっと。

 

でも——。

 

スッキリした気もした。

 

不思議だった。体はぼろぼろなのに、胸の中の泥が——少し、減っている。あの灰色の塊。ずっと抱えていた泥の塊が、全部ではないけれど、一部が流れ出ていった。叫び声と一緒に。涙と一緒に。

 

全部言えた。

 

蟲蔵のことも、体のことも、辛かったことも、嫌いだということも、嫌いじゃないということも、許せないということも。全部を、慎二の顔の前で、叫んだ。

 

そして——兄さんも全部言ってくれた。

 

好きでやったんじゃない。あの家で。あの爺に。僕は。

 

あの最後の言葉も。あの——求めてきたくせに、という言葉も。慎二は——あれが本心なのか、自分を守るための嘘なのか、それすら自分でわかっていないのだろう。わからないまま、叫んだ。桜と同じだった。二人とも、何もわからないまま、ただ叫んだ。

 

許し合えたわけじゃない。理解し合えたわけでもない。ただ——叫んだ。お互いに。お互いの顔を見て。

 

桜は目を閉じた。

 

モクモクさんを探した。

 

モクモクさんは——ぺしゃんこになっていた。

 

薄紫の小さな塊が、暗闇の中で、べたっと地面に張りついている。力を使い果たしたように。もこもこした形が潰れて、薄く広がって、呼吸だけしている。さっきまで慎二を殴っていた拳は——力なく投げ出されている。泣き疲れて、叫び疲れて、殴り疲れて。

 

桜と同じだった。ぼろぼろ。くたくた。

 

喉の奥を探った。あの石。あの、ずっとそこにあった石。

 

——見つからなかった。

 

疲れすぎて、ぼんやりしていて、石がどこにあるのか感じ取れない。消えたのか。砕けたのか。まだあるのか。わからなかった。頭がぼうっとしていて、体の中の感覚が全部ぼやけている。

 

きっと帰ってくる、と桜は思った。

 

あの石は消えない。十一年かけて積み上がったものが、一日の叫びで消えるはずがない。次に慎二のことを思い出したとき、あの言葉を思い出したとき——石は戻ってくるだろう。喉の奥の、いつもの場所に。

 

でも——兄さんに吐き出したから。あれだけ叫んだから。

 

少しは、きっと、小さくなってると思う。

 

それでいい。今は、それでいい。

 

桜の意識が薄れかけていった。病院の廊下で、壁にもたれて。

 

ぼんやりと——気づいたことがあった。

 

あ、そうか。

 

私——反抗期がなかったんだ。

 

普通の子供には反抗期がある。親に反発する。兄弟と喧嘩する。嫌なものは嫌と言う。理不尽に怒る。泣く。叫ぶ。掴みかかる。そうやって、自分と他人の境界線を引く。自分の感情を知る。自分が何を嫌いで、何が許せなくて、何を求めているかを、反発することで学ぶ。

 

桜にはそれがなかった。

 

五歳で間桐に来てから。蟲蔵で反抗の芽を摘まれてから。声を上げれば蟲が増える。嫌だと言えば罰が来る。だから——声を殺した。反抗を殺した。自分の境界線を引くことを、十一年間、一度もできなかった。

 

今日——初めてやった。

 

兄に向かって叫んだ。嫌いと言った。許せないと言った。辛かったと言った。掴みかかった。看護師に止められた。十七歳の反抗期だった。遅れてきた、不格好な、病室で看護師に止められる反抗期。

 

遅い、と思った。遅すぎる。普通は中学生くらいでやることだ。

 

でも——遅くても。不格好でも。

 

やれた。

 

薄れていく意識の端で——モクモクさんが、ぺしゃんこのまま、僅かに動いた気がした。潰れた体で、小さくもこもこ呼吸している。生きている。疲れ果てているけど、生きている。

 

イリヤの声が遠くから聞こえた。

 

「桜。寝るの? ここで?」

 

「……すみません……少しだけ……」

 

「仕方ないわね。ちょっと待ってなさい。士郎に電話するから」

 

イリヤの声が遠くなった。

 

桜は病院の廊下で、壁にもたれて眠りかけていた。膝を抱えて。左手首のブレスレットの石に、指が触れていた。

 

石は——温かかった。

 

---

 

その夜、衛宮邸。

 

桜は客間の布団で眠っていた。藤ねえが車で迎えに来て、病院から連れ帰ってくれた。桜は車の中でほとんど意識がなかった。

 

イリヤが凛に報告した。何があったかを。凛は黙って聞いて、最後に一言だけ言った。

 

「そう。よくやったわね、あの子」

 

士郎は台所で夕飯を作った。桜が起きたときに食べられるように。

 

桜は翌朝まで眠った。

 

目が覚めたとき——体はまだ重かった。喉が痛かった。目が腫れていた。

 

喉の奥を探った。石が——あった。帰ってきていた。予想通りだった。

 

でも——少し、小さくなっている気がした。

 

気がしただけかもしれない。気のせいかもしれない。でも——昨日より、ほんの少しだけ、呼吸が楽だった。

 

台所から匂いがした。落ち着く匂い。

 

桜は布団から起き上がった。

 

体が重い。まだ重い。でも——起き上がれた。

 

台所に向かった。

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