ロンドン。時計塔。
コツコツコツコツ。
遠坂凛のヒールが石の廊下を叩く音は、もはや時計塔の名物になりつつあった。
入学して半年。東洋の小娘と侮られたのは最初の一週間だけだった。二週目には講義で教授の理論の矛盾を指摘し、三週目には実技で上級生を抜き、一ヶ月目には上級講座への編入を認められた。遠坂の名前は伊達ではない。
だが——忙しかった。
尋常ではなく忙しかった。
凛は廊下を歩きながら、頭の中で三つのタスクを同時に回していた。
一つ目。講義。今学期の課題は「第二魔法の理論的再構成」。ゼルレッチの並行世界論を遠坂の宝石魔術の観点から再解釈するという、まともに取り組めば三年かかるテーマを、凛は半年で形にしようとしていた。教授陣が「無謀」と言ったのを「見てなさい」で跳ね返した手前、後に引けない。
二つ目。自身の研究。遠坂家の魔術刻印の最適化。父から受け継いだ刻印の出力効率を、あと三パーセント上げたい。三パーセント。数字にすれば小さいが、宝石魔術においては攻撃力の臨界点を左右する差だ。
三つ目。イリヤの延命。ライダーの魂が植えた種は安定しているが、恒久的な延命策にはまだ届いていない。アインツベルンのホムンクルス技術は独自体系で、時計塔の文献にも断片しかない。凛は関連する論文を片端から漁り、仮説を立て、検証プランを組んでいる。次の定期検診は来月。それまでに新しいアプローチを一つは用意しておきたい。
三本同時進行。どれも手を抜けない。
自分の研究は後回しで——と一瞬思った。
脳内に、父の顔が浮かんだ。
遠坂時臣。遠坂の当主。二百年の悲願を背負い、第四次聖杯戦争に臨んだ男。魔術師として常に己の研鑽を最優先とし、家名の矜持を何よりも重んじた父。
脳内の父が——愕然とした顔をしている。
自身の研究を後回し。遠坂の当主が。魔術の探求を。他者のために。後回し。
はーーーーーーー。
凛は長いため息をついた。廊下に反響するほど長い。
わかってる。わかってるわよ、お父様。魔術師として自分の研究を後回しにするなんて三流のすることです。根源への到達が遠坂の悲願で、それを疎かにして他人の延命に奔走するなんて、魔術師の風上にも置けない。
でも——大聖杯は壊した。二百年の悲願は自分の手で終わらせた。あの洞窟で、一秒の迷いもなく「壊すわよ」と言った。
お父様。ごめんなさい。でも——後悔はしてません。
凛はため息の余韻を引きずりながら、廊下の角を曲がった。
ドン。
「あ、すみません」
ぶつかった。
書類の束が廊下に散らばった。凛の書類ではない。ぶつかった相手の。黒いコートの長身の男。癖のある黒髪。鋭い目。
ロード・エルメロイⅡ世。
時計塔の講師にして、現代魔術科の主任。凛は直接の指導を受けてはいないが、廊下ですれ違うことはある。
「失礼しました」
凛は散らばった書類を拾い集め、エルメロイに差し出した。さっさと立ち去ろうとした。三つのタスクが頭の中で回っている。講義の資料をまとめなければ。イリヤの検査データを整理しなければ。刻印の実験の準備を——。
「遠坂」
足が止まった。
「聖杯戦争に参加していたらしいな」
凛は振り返った。エルメロイが書類を受け取りながら、凛を見ていた。鋭い目。だが敵意はない。学究的な関心。
「はい。してましたが」
「ふむ。極東の儀式ではあるが——気になるところはある」
「はぁ」
凛は内心で構えた。時計塔で聖杯戦争の話をされるのは、あまり好まない。嫌な思い出も多い。というか悲願を自分で壊したのだから。
「どんなサーヴァントがいた」
質問は端的だった。
「王が二人。セイバーとライダーでした。あとランサーと、キャスターと——それからハサン・サッバーハ」
「ハサン・サッバーハ」
エルメロイの眉が動いた。アサシンのクラスにハサンが召喚されること自体は通例だが、何か引っかかるものがあったのだろう。凛は詳細を語らなかった。山の翁のことは——簡単に話せる内容ではない。
「ライダーの王か。どんな奴だった」
凛は一拍置いた。
ライダー。サラディン。あの男のことを、一言で説明する言葉が——なかなか見つからない。
「まさに王——という在り方でした」
それしか言いようがなかった。
エルメロイは腕を組んだ。少しだけ——遠い目をした。
「王は燦然と輝き、民を率いる。それ自体は美しいものだ。だが——愚かにもそれに憧れる少年が、それに従軍できるような気になったりする」
エルメロイの声にほんの微かな自嘲が混じった。
「変な憧れは抱かんようにな」
凛は目を瞬いた。
「憧れ……ですか」
あの男に、憧れ。
一瞬——衛宮邸の居間が浮かんだ。ライダーが茶を淹れている。砂糖二杯。セイバーの分は少し多め。台所で大根を切っている。味噌汁の出汁を取っている。買い物袋を提げて商店街を歩いている。インテリア雑誌に付箋を貼っている。
「いえ。ライダーは——燦然と輝くどころか、とても質素で」
凛は少し首を傾げた。
「むしろ民家で料理をするような男でした。味噌汁の塩加減を気にして、アーチャーに昆布の取り方を教わって、買い物袋を提げて商店街を歩いてました。バグラヴァっていう中東の菓子をやたらと焼いてたし、茶は常に砂糖二杯だし」
エルメロイの眉が上がった。
「なに?」
「憧れはないです。むしろ——いつ寝首をかかれるかと。善意で同盟を組まれて、善意で情報を共有されて、善意で茶を出されて。裏を読もうとしたけど裏がない。裏がないのが一番厄介なんです。あの男と対峙してる間、私のストレスの半分はあの男の善意の処理でした」
エルメロイは黙って聞いていた。
「でも——学ぶところはありました。盤面の把握。兵站の管理。同盟の構築と維持。敵味方の距離の取り方。あの男は全部、お茶を淹れながらやってました。嫌になるくらい自然に」
「……そうか」
エルメロイの声が少しだけ柔らかくなった。
「はい」
「君自身のサーヴァントは?」
「アーチャーでした」
凛の声が——ほんの少し、変わった。自分でも気づかないくらい、微かに。
「最後まで真名はわかりませんでした。皮肉屋で、口が悪くて、ムカつくところもあって。こっちが戦略を練ってるときに横から茶々を入れてくるし、士郎に——衛宮士郎っていう同盟者のマスターなんですけど——なぜか異様に辛辣だし。扱いにくいサーヴァントでした」
「だが?」
「でも——彼が一番、合ってたと思います」
凛は廊下の窓を見た。ロンドンの灰色の空。
「一番、サーヴァントとしてやりやすかった。指示を出せば的確に動くし、私が見落としたところを補完してくれるし。最後の最後まで——信頼できました。心臓を刺されてもまだ戦ってたし。あの人は——」
凛は言葉を切った。
「……不思議な人でした」
エルメロイは書類を脇に抱え直した。
「……では」
それだけ言って、歩き去った。黒いコートの背中が廊下の向こうに消えていく。
凛はその背中を見送った。
アーチャー。
あの赤い外套の男。真名は最後までわからなかった。英霊の座に戻った今、もう確かめる術はない。だが——不思議だった。サーヴァントという感じがしなかった。使い魔。召喚された兵器。そういう存在には思えなかった。
すごく対等だった。
生意気で。皮肉屋で。こちらの指示に従いながらも、どこかで自分の判断を持っていて。令呪で縛らなくても動いてくれたし、令呪で縛ろうとしても多分あの男は聞かなかった。
そして——信頼できた。
あの境内で、心臓を刺されて、血まみれで立ち上がって、「行け、凛」と言ったあの声を——まだ覚えている。
あの人がアーチャーでよかった。
凛は首を振った。感傷に浸っている暇はない。三つのタスクが待っている。
凛は歩き出した。コツコツコツ。ヒールが石の廊下を叩く。
ああ——もうこんな時間。
廊下の時計を見て、凛は足を速めた。そういえば今日は——カレーだ。
士郎が作ってくれるのだ。
聖杯戦争のあと、士郎はスパイス料理に目覚めた。サラディンが残したスパイスの袋から始まって、クフタのトマト煮込みを皮切りに、中東料理のレパートリーを増やし、気づけばその足をインド料理にまで伸ばしていた。
カルダモン。クローブ。シナモン。クミン。ターメリック。フェヌグリーク。スパイスの瓶がアパートの台所の棚を侵食している。ミントと同じだ。侵略的植物。あのときライダーに言ったことが、まさか士郎経由で実現するとは。
スパイスに嵌まる男像を、衛宮士郎は完全に体現していた。この前は近所のインド食材店で店主と意気投合して、ガラムマサラの自家調合を教わってきた。目を輝かせて帰ってきた士郎の顔が——少しだけ、あの男に似ていた。似ていると言ったら怒るだろうけど。
今日のカレーはチキンティッカマサラ。士郎が三日前から仕込んでいる。ヨーグルトに漬け込んだ鶏肉。スパイスの配合表をノートに几帳面に書き込む字は、サラディンの右から左に流れる筆跡とは正反対の、真っ直ぐな字だった。
さっさと帰らないと冷める。
凛は廊下を駆け出した。ヒールの音が加速する。コツコツコツコツコツ。時計塔の廊下に反響する音が、少しだけ——弾んでいた。