桜「中東のライダー?」   作:ヤシの木の里

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墓前

グラストンベリー。

 

イングランド南西部。サマセットの平野に、崩れかけた修道院の遺構が立っている。

 

十一月のイングランドは冷たかった。空は灰色で、風が強い。芝生は湿っていて、靴底から冷たさが伝わってくる。観光客の姿はまばらだった。季節外れ。平日の午後。修道院の廃墟を訪ねる人間は多くない。

 

士郎は遺構の奥を歩いていた。

 

崩れた壁。アーチの残骸。かつて天井があった場所には空が広がっている。八百年前——いや、もっと前。ここは修道院だった。祈りの場だった。そして——伝説の王が眠る場所だった。

 

墓標があった。

 

芝生の中に、平たい石板が埋め込まれている。文字が刻まれている。風雨に削られて読みにくいが——「アーサー王の墓」と記されている。観光用の案内板もある。「一一九一年、修道士たちがこの場所で棺を発見したと伝えられる」。歴史学的には真偽不明。考古学的な裏づけはない。伝説と観光と信仰が混ざり合った、曖昧な場所。

 

でも——士郎にとっては、ここだった。

 

墓標の前に座った。芝生の上に、あぐらをかいて。冷たかったが、構わなかった。リュックサックから水筒を出して、紅茶を注いだ。砂糖は入れていない。セイバーの好みに合わせた。

 

カップをもう一つ出して、紅茶を注ぎ、墓標の横に置いた。

 

「——来たよ」

 

声が白い息になって散った。

 

「遠坂に場所を教えてもらった。グラストンベリー修道院。アーサー王の墓。本物かどうかは知らないけど——凛が言うには、ここが一番縁が深いらしい」

 

墓標は何も答えなかった。当たり前だ。石板だ。

 

「……何から話せばいいかな」

 

士郎は紅茶を啜った。

 

「まず——みんな元気だよ」

 

---

 

「遠坂は時計塔にいる。ロンドンの。魔術協会の本部。あいつ、こっちに来てからすごいよ。一年目で上級講座に上がって、教授連中に目をつけられてる。遠坂の名前は伊達じゃないって——本人は当然みたいな顔してるけど、たまに夜遅くまで工房に籠もってるから、楽じゃないんだろうな」

 

風が吹いた。修道院の壁の隙間を抜けて、低い音を立てた。

 

「桜は日本にいる。穂群原学園の三年生。卒業したら大学に行くらしい。何を学ぶかはまだ決めてないって言ってたけど、この前の電話で——福祉に興味がある、って言ってた。あの子らしいよ。自分がされたことを知ってるから、同じ目に遭ってる人を助けたいんだと思う」

 

士郎は墓標を見つめた。

 

「慎二のところにも見舞いに行ったんだ。大喧嘩したらしい。看護師に止められるくらい。桜が怒鳴ったんだって。信じられるか? あの桜が。嫌いだって。許せないって。辛かったって——全部叫んだらしい」

 

少しだけ笑った。

 

「桜は強いよ。あの子は——最初から強かった。俺が気づいてなかっただけで」

 

紅茶を一口。冷め始めている。

 

「イリヤは藤ねえと一緒に、冬木の家にいる。元気だよ。すごく元気。桜と二人で商店街を練り歩いて、毎日なにか買ってきてる。この前はタコ焼き器を買ってきた。タコ焼き。イリヤがタコ焼き焼いてるの、想像できるか? できないよな。でも焼いてるんだ。わりとうまい」

 

士郎は空を見上げた。灰色の空。イングランドの空はいつもこうだ。冬木の冬の空に似ている。

 

「ライダーが植えた種——魂の種。あれがちゃんと根づいてる。遠坂が定期的に検査してるけど、魔力の自律生成が安定してきたって。猶予は伸びてる。最初は数年って言われてたのが、今は十年以上いけるかもしれないって。その間に恒久的な方法を見つける。遠坂がそう言った。あいつが言うなら——たぶん、見つかる」

 

墓標の横に置いたカップから、湯気が細く立ち上っている。

 

「あと——藤ねえのこと」

 

士郎の声が少し柔らかくなった。

 

「藤ねえ、ずっと入院してたんだ。聖杯戦争の間、ずっと体調が悪くて。原因不明の衰弱。医者にもわからなかった。でも——たぶん、翁の影響だったんだと思う。あの山の翁が冬木にいた間、街全体に死の気配が漂ってた。普通の人間にはわからないはずなんだけど、体は感じてたんだろうな。藤ねえだけじゃない。商店街のおじさんたちも、学校の先生たちも、なんとなく体調が悪いって人が多かった」

 

士郎は紅茶のカップを両手で包んだ。

 

「聖杯戦争が終わって——しばらくしたら、みんな良くなった。藤ねえも退院した。今はまた学校で暴れてる。元気すぎるくらいだ。先月、衛宮邸に来て、勝手に冷蔵庫開けて、イリヤと取り合いになってた。タコ焼きの残りを」

 

笑った。小さく。

 

「よかった」

 

その一言に——いろいろなものが詰まっていた。

 

---

 

風が止んだ。

 

修道院の遺構が、束の間の静けさに包まれた。

 

「俺のことも話すよ」

 

士郎は姿勢を正した。あぐらから正座に変えた。なんとなく——セイバーの前では、ちゃんと座りたかった。

 

「今は魔術を学んでる。遠坂に師事してる形になるのかな。時計塔には正式には入ってない。遠坂の弟子、という立場で出入りしてる。固有結界……は、まだ使えない。投影魔術も——アーチャーの真似をしてみることがあるんだけど」

 

士郎は右手を見た。

 

「できないんだ。似た力だと思ったんだけど。あの聖杯戦争の間、アーチャーの戦い方を見ていて——あれは俺の延長線上にある力だと思った。でも実際にやってみると、投影は形にならない。遠坂は『あんたの魔術特性は強化であって投影じゃない。似てるけど違う。まずそこを理解しなさい』って言ってた。強化が関の山だ。今のところは」

 

石板を見つめた。

 

「それでいいのかって——悩むこともある。魔術師になることが、俺のやりたいことなのか。正義の味方になりたいって言ったのに、今やってるのは魔術回路の開発と、強化の精度を上げる訓練。それが誰かを助けることに繋がるのか、まだよくわからない」

 

士郎は息を吐いた。白い息。

 

「でも——魔術を捨てるつもりもない。桜を苦しめたのは魔術だ。間桐の蟲。臓硯の五百年の術。刻印虫。全部、魔術。イリヤを苦しめたのも魔術だ。アインツベルンのホムンクルス技術。聖杯の器。十年の孤独。全部、魔術が作った檻だった」

 

士郎の声が強くなった。

 

「でも——桜を救ったのも魔術だ。遠坂の宝石。イリヤの聖杯の知識。柳洞寺での切り離しの術式。全部、魔術がなければできなかった。イリヤを救ったのもそうだ。ライダーの魂を種にして、イリヤの魔術回路に定着させた。あれだって魔術だ」

 

石板の文字を指でなぞった。風雨に削られた文字。八百年の時間。

 

「魔術は——道具だ。使う人間次第で、檻にもなるし、鍵にもなる。俺は鍵のほうを使いたい。誰かを閉じ込めるためじゃなく、誰かを解放するために」

 

---

 

「それとは別に——イングランドにいる間に、いろいろやってる」

 

士郎は少しだけ照れた顔をした。墓標に向かって照れている。

 

「ボランティア。児童養護施設。障害者の生活支援。精神疾患のデイケア。週に何回か顔を出してる。英語はまだ下手だけど——遠坂に叩き込まれてるから、日常会話くらいはできるようになった。施設の子供たちと遊ぶのに、そんなに言葉は要らないし」

 

風がまた吹いた。芝生が波打った。

 

「それから——勉強もしてる。魔術とは別に。政治学。政治哲学。経済学。片手間だけど。図書館に通って、本を読んで。こっちの大学の公開講座にも顔を出してる」

 

士郎は苦笑した。

 

「魔術師が政治学を学んでるなんて、遠坂に言わせると俗っぽいんだって。魔術師は根源を目指すべきで、俗世の学問に現を抜かすのは三流だ、って。でも——俺は遠坂みたいな魔術師にはなれない。なるつもりもない」

 

墓標を見つめた。

 

「ライダーから学んだことがある」

 

ライダー。あの名前を口にすると——今でも、スパイスの匂いがする気がする。

 

「盤面を知ることの重要性。あの人は常に全体を見ていた。同盟の構造。敵の配置。マスターの性格。サーヴァントの能力。街の地理。教会の思惑。全部を把握した上で、一手を打っていた。あれは——ただの戦術じゃない。世界の仕組みを理解するということだ」

 

士郎は右手を握った。開いた。

 

「俺にはあれはできない。ライダーみたいに盤面全体を操ることは、俺にはたぶん一生できない。あの人は王だから。俺は王じゃない」

 

「でも——盤面を知ることはできる。操るんじゃなくて、知る。世界がどう動いているか。法律がどう作られているか。福祉の制度がどうなっているか。貧困がなぜ生まれるか。虐待がなぜ止められないか。魔術の世界だけじゃなく、普通の世界の仕組みを——知りたいと思った」

 

「ライダーが教えてくれたのは、それだ。盤面を知れ。兵站を整えろ。食料を確保しろ。味噌汁の出汁を取れ。全部——同じことだったんだと思う。世界を知って、その上で手を動かせ、と」

 

---

 

「そして——セイバー。あなたが教えてくれたことがある」

 

士郎の声が変わった。静かになった。

 

「人として行うことの重要性」

 

風が止んだ。修道院の遺構が沈黙した。

 

「あなたは王だった。ブリテンの王。国を背負って、民を守って、騎士を率いて。全部、王として。王の判断で。王の責任で」

 

石板を見つめた。

 

「でもあなたは——王と人のあいだで悩んでいた。俺にはわかった。あの短い日々の中で。あなたが朝の庭で素振りをしているとき。ウチの食卓でごはんを食べているとき。ライダーと剣を交わしたとき。あなたの顔には——王の顔と、人の顔があった」

 

「王として正しいことと、人として正しいことは、違う。あなたはそれを知っていた。知っていて——王を選んだ。民のために。国のために。自分の人としての感情を殺して、王であり続けた」

 

「でも最後に——あなたは俺に言ってくれた。王でないあなただからこそできることがあった、と。人の判断をした、と。それが正しかった、と」

 

士郎の目が潤んだ。拭わなかった。

 

「俺は——その言葉を、ずっと抱えてる。あなたが王として悩んだから。王と人の狭間で苦しんだから。だから俺は——自分の立つ場所を見つけられた」

 

「俺は人だ。王じゃない。盤面を操る力もない。聖剣もない。令呪も使い切った。ただの——衛宮士郎だ」

 

「でも、人として、人を助けることはできる。パイプで槍を叩き落とすことはできる。折り紙を折ることはできる。ごはんを作ることはできる」

 

「盤面を知って——人として手を伸ばす。ライダーが教えてくれたことと、あなたが教えてくれたこと。その両方を——しっかり抑えていきたい」

 

士郎は深く息を吐いた。

 

「世界の仕組みを知って、人として人を助ける。衛宮士郎として。正義の味方として。——遠坂に言わせると、そんな俗っぽい目標は魔術師らしくないらしい」

 

少し笑った。

 

「俗っぽくていいよ。俺は根源なんか目指してない。あいつは呆れてるけど——でも、嫌な顔はしてない。たぶん」

 

---

 

士郎は立ち上がった。

 

膝の芝生を払った。墓標の横に置いたカップを回収した。紅茶はすっかり冷めていた。

 

「また来るよ。次は桜も連れてくるかもしれない。イリヤも。遠坂はロンドンにいるから——四人で来られたらいいな」

 

リュックサックを背負った。

 

「あ、そうだ。一つ忘れてた」

 

士郎はリュックサックのポケットから、小さなタッパーを取り出した。蓋を開けた。中には——バグラヴァが二つ。ナッツとシロップの中東の菓子。

 

「ライダーのレシピで作った。俺が。まだあいつほどうまくは作れないけど——」

 

タッパーから一つ取り出して、墓標の上に置いた。

 

「セイバーは甘いもの好きだったから」

 

風が吹いた。バグラヴァの甘い匂いが、修道院の廃墟に漂った。

 

士郎は墓標に向かって、小さく頭を下げた。

 

「ありがとう。セイバー。あなたに会えてよかった」

 

背を向けた。歩き出した。修道院の遺構を抜けて、芝生の道を歩いて、門に向かって。

 

振り返らなかった。

 

振り返る必要はなかった。セイバーは——もういない。でも、あの言葉は残っている。あの笑顔は残っている。あの最後の頷きは——ずっと、残っている。

 

士郎は門を出て、バス停に向かった。ロンドンに戻る。凛の工房で魔術の訓練。明日の午前は児童養護施設。午後は図書館で政治哲学の本を読む。夕方はスーパーで買い物。夜はクフタのトマト煮込みを作る。

 

スパイスの配合はもう覚えた。メモを見なくても作れる。

 

冬木から持ってきたスパイスの袋は、ロンドンの小さなアパートの台所の棚にある。右から左に流れる癖のある筆跡のメモが挟まったまま。

 

あの男の字。あの男の味。あの男の——在り方。

 

士郎は歩いた。

 

グラストンベリーの灰色の空の下を。イングランドの冷たい風の中を。

 

一人で。でも——一人じゃなかった。

 

胸の中に、二人分の教えがある。王の教えと、騎士の教え。盤面と、人。

 

衛宮士郎は歩いた。

 

正義の味方に、なるために。

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