「——1週間よ」
遠坂凛は居間の卓に湯呑みを置いた。中身はとうに冷めている。
「1週間、学校に来てない。電話も出ない。間桐の屋敷にも人の気配がない」
衛宮士郎は向かいに座ったまま、黙っていた。黙っているが、箸が止まっている。夕食の支度をしていたはずの手が、もう十分以上動いていない。
「衛宮くん、聞いてる?」
「聞いてる」
聞いている。聞いているから、黙っている。桜が1週間来ない。それだけなら体調不良で済む。だが間桐の屋敷に気配がないのは別の話だ。
居間の隅で、セイバーが正座したまま目を閉じていた。眠っているのではない。屋敷の周囲に張り巡らせた感覚を研ぎ澄ましている。聖杯戦争は始まっている。夜ごとに魔力の残滓が街に散り、数日前にはキャスターと佐々木小次郎が一夜で消滅したという情報が入った。何者かに。遠坂は教会経由でそれを掴んだが、詳細は不明だった。
縁側の柱にもたれて、アーチャーが腕を組んでいる。霊体化を解いたまま、夜の庭を見ていた。
「間桐の小娘が消えた件と、キャスター脱落が同時期だ。関連を疑うのが自然だろう」
「わかってるわよ」凛は苛立ちを噛み殺した。「でも間桐桜にサーヴァントがいるなんて——」
「いないと断言できるのか?」
凛は答えなかった。
間桐桜は魔術師としては——少なくとも凛が知る限り——訓練を受けていない。間桐臓硯が何をしているかは凛の関知するところではなかったし、関知すべきでないと遠坂の家訓が囁いていた。だが令呪は血筋ではなく適性で宿る。あの子に宿らない保証は、どこにもない。
「桜が巻き込まれてるなら——」
士郎が口を開きかけた、そのとき。
セイバーの目が開いた。
「——シロウ」
低い声。だが居間の空気を一瞬で塗り替える声だった。セイバーはすでに立ち上がり、見えない剣の柄に手をかけている。
「サーヴァント。一騎。正面——門の前」
アーチャーの腕が解かれた。双剣はまだ投影していないが、魔力が右手の指先に集まっている。
「堂々としたものだな。霊体化もせず、正門から来るとは」
凛は立ち上がり、士郎の肩を押さえた。
「衛宮くん、下がってて」
「——いや」
「いいから。セイバー、出るわよ。アーチャー、屋根」
アーチャーが頷き、霊体化して消えた。屋根の上で実体化し、射線を確保するだろう。セイバーは無言で玄関に向かった。士郎もその後を追う。凛は舌打ちしたが、止めなかった。止めても聞かない男だと、もう知っている。
---
玄関を開けると、門の前に人影があった。
月明かりの下。
長身の男が、衛宮邸の門柱に手を触れもせず、三歩ほど手前に立っていた。鎖帷子の上に布を重ねた装い。兜はない。腰に曲刀を佩いているが、柄には手をかけていない。両手は自然に体の脇に下ろされている。
顔は——穏やかだった。
穏やかだが、隙がなかった。戦場を知る人間の穏やかさ。周囲を警戒しているのではなく、すでに警戒し終えた人間の立ち方だった。
琥珀色の瞳が、セイバーを捉えた。
「——剣の英霊か」
声は低く、落ち着いていた。敵意はない。だがセイバーはすでに踏み込んでいた。
「問答は後だ——!」
風王結界に包まれた不可視の剣が、横薙ぎに走る。正体不明のサーヴァントが門前に立っている。しかも霊体化せず、マスターの居場所を特定した上で正面から来た。それは宣戦か、あるいは罠だ。どちらであれ初撃で間合いを測るのが正しい。
鋼の悲鳴。
セイバーの剣が、空中で止まっていた。
男は腰に下げた曲刀を抜きもしない。
セイバーの目が見開かれた。
「——なぜ抜かない?」
受けたのではない。セイバーは直感で理解した。侮りではない。抜けば斬り合いになる。斬り合いにする意志がないから、抜かなかった。
つまりこの男は——最初から、戦いに来ていない。
「騎の英霊、ライダー」
男は鞘をセイバーの剣から外し、一歩退いた。距離を取ったのではなく、間合いを返した。セイバーが再び斬りかかれる距離を、自分から明け渡した。
「遠坂凛、マスターはお前の妹だ」
セイバーの剣が止まった。止めたのではない。「間桐桜」の名で、凛の息が詰まったのを聞いたからだ。
「——桜の?」
凛が玄関から踏み出した。ライダーの口角が少し上がる。
「なんで、そのことを知ってるわけ?」
「情報収集は私の得意とするところだ」
答えになっていない。が、凛はライダーの力量を認めないわけにはいかなかった。
「遠坂、妹って、どういうことなんだ?」
「はぁーー」遠坂が大げさに嘆息する。
「あの子は、私の妹なのよ。で、その桜のサーヴァントがどうやらアイツ。本当に、どうやって調べたんだか」
士郎はしばらく困惑顔でいたが、セイバーの前に出てライダーに向き合った。凛が腕を掴んだが、それも振り切って。
「桜は無事なのか」
「無事だ」
男は即答した。一切の修飾なく。
「私は1週間ほど前に召喚された。間桐の屋敷からは、その夜のうちに連れ出した。今は別の場所にいる」
「連れ出した——?」
「あの屋敷は人の住む場所ではない」
男の声に、初めて微かな感情が乗った。怒りではない。それよりもっと静かで、もっと深いもの。判決に似た響き。
凛の目が細くなった。
「間桐の屋敷を見たのね。地下も?」
「匂いでわかる」
「……そう」
凛は腕を組んだ。知っていた。知っていて、手を出さなかった。遠坂の当主として、間桐の内情に干渉しない。それが二つの家の不文律だった。この英霊は、召喚されて一分で——凛が十年かけて守った不文律を踏み越えたのだ。
「桜をどこに置いてるの」
「答える義理はない。少なくとも今は」
「……ずいぶん正直ね」
「信用されたいなら、言えないことを言えないと伝えるのが早い」
凛は内心で舌を巻いた。これは戦士ではない。いや、戦士ではあるが、それだけではない。交渉の場数を踏んでいる。膨大な場数を。
「で、話って何。わざわざサーヴァント二騎のいる屋敷に単身で来て。まさか全員の前で姉妹関係を暴露するためだけに来たんじゃないでしょうね」
「同盟の打診だ」
セイバーが剣を構え直した。アーチャーの殺気が屋根から降りてくるのを、士郎は肌で感じた。矢はもう番えているのだろう。
ライダーは動じなかった。
「条件を聞いてからでいい。断るなら今夜はこのまま退く。追わなくていい。追っても構わないが、得るものはない」
「条件」
「一つ目——互いのマスターに手を出さない。二つ目——民間人を戦闘に巻き込まない。三つ目——間桐臓硯を共同で排除する」
士郎の目が見開かれた。凛は表情を動かさなかったが、指先が僅かに震えた。
「臓硯を? あんた、自分のマスターの家長を——」
「あれは家長ではない」
男は断じた。
「あれは城壁の中に巣食う蟲だ。民を守る構造の中に棲みつき、構造そのものを腐らせる寄生者だ。あの娘がこれ以上あれの下に置かれるなら、聖杯戦争の勝敗など問う意味がない」
庭に風が吹いた。二月の夜風。男の布が揺れた。
士郎は——言葉が出なかった。桜をあの屋敷から出すべきだと思っていた。ずっと思っていた。だが言えなかった。桜が何も言わなかったから。桜が笑っていたから。桜が毎朝来てくれたから。その笑顔を壊す権利が自分にあるのかと——怖かったのだ。
ライダーは、怖がらなかった。召喚されて、一分で。
「……真名は」
凛が聞いた。
「明かさない。同盟が成立し、信頼が確認できた後に検討する」
「クラスはライダー。騎乗兵の英霊ね」
「…そうだ」
男はわずかに口元を緩めた。笑みとまでは言えない。だが戦闘の直後にこの表情ができる人間は、修羅場を潜り抜けた者だけだ。
「ただ一つだけ言っておく。この街の夜には——私以外にもう一騎、尋常でないものが出ている。数日前にキャスターを屠ったのは、そちらだ。私ではない」
セイバーとアーチャーの気配が、同時に鋭くなった。
「あんた、あの夜の下手人を知ってるの」
「知っている。そしてそれが私と同盟を結ぶべき、最も実際的な理由でもある」
ライダーは一拍置いて、続けた。
「あれは——"山の翁"だ」
「ハサンのことね。もちろん知ってるわよ、アサシンは必ずハサン・サッバーハが召喚される」
「今回現れたのは、初代だ」
凛の顔から、血の気が引いた。
セイバーは知らない名だった。だが凛は知っている。魔術師の家系なら知っている。暗殺者の語源。ハサン・サッバーハ。その名は聖杯戦争におけるアサシンのクラスそのものの由来だが——"山の翁"は、ハサンたちの上に立つ概念だ。初代。頂点。死そのもの。
「アサシンのサーヴァント——初代ハサンが召喚されているというの?」
「されている。マスターはわからん。魔力はあるが制御はできていないようだ。翁は夜の短時間しか活動できないが——その短時間で、キャスターを殺した。おそらくは弓兵の英霊であっても、夜の遭遇戦では生存が難しい」
「そんな、あり得ないわ!」
「ありえないって、どういうことだ?遠坂」
「初代ハサン・サッバーハはサーヴァントというより概念。死の概念なの。聖杯戦争で呼べるはずがない。なにか、あちらから来ようと思う理由でもないと…」
凛が何かに気づいたように顔を上げ、ライダーを見る。
「あなたが原因?」
「どうだろうな。なにせ情報が少ない。ただ…」
屋根の上の空気が変わった。アーチャーが何かを言いかけ、飲み込んだのが伝わってきた。
「……ただ?」
凛は声を絞り出した。
「私と翁の間には——事情があって手を出し合えない。だがそれはおまえたちには及ばない。翁は同盟も敵対も関係なく、夜に出会えば斬る。おまえたちだけでは、あの夜を越えられない」
「あんたと組めば越えられると?」
「越えられる可能性が生まれると言っている。確約はしない。できないことをできると言うのは同盟の作法ではない」
「それが本当なら、とんでもない情報よ。それをアッサリ話しちゃうなんて、とんだマヌケか、それとも嘘か」
「話したほうが得、そう判断しただけだ。言わずにお前たちが死んでは、俺は一人でどうしょうもない。臓硯の問題すら対処できないかもしれん。まずは同盟、それが先決だ」
沈黙が落ちた。
士郎はライダーの顔を見ていた。月明かりの下、ライダーの瞳は暗い琥珀色に沈んでいる。嘘を言っている顔ではなかった。だがそれ以上に——この男が桜を連れ出したという、その一点が、士郎の中の何かを掴んで離さなかった。
「桜は——本当に無事なんだな」
「俺の名にかけて」
名も明かしていない男が、名にかけてと言った。矛盾だった。だがその矛盾に、士郎は不思議と重さを感じた。明かせない名であっても、かけるに値する名だと——この男自身が信じている重さ。
「遠坂」
「……何よ」
「話、聞こう」
凛は士郎を睨んだ。だが睨みながら、自分も同じ結論に至りかけていることに気づいていた。
「——セイバー。剣を納めて」
「リン。しかし——」
「いいから。アーチャーもよ。降りてきなさい」
屋根から銀髪の弓兵が飛び降りた。弓は消えていたが、警戒は解いていない。セイバーも剣を下ろしたが、柄からは手を離さなかった。
凛はライダーに向き直った。
「中に入りなさい、ライダー。お茶くらいは出すわ。——衛宮くんのお茶だけど」
「構わない」
ライダーは初めて、明確に笑った。笑うと目尻の皺が深くなった。
「茶を出す相手を斬る者はいない。古今東西、それは変わらん」
その言葉に——セイバーが、かすかに目を見開いた。
騎士の礼節ではない。もっと古く、もっと広い、もっと乾いた土地の掟。客人に茶を出せば、その者は殺さない。殺させない。砂漠の民の不文律。セイバーの時代のブリテンにも、似た慣習はあった。食卓を共にした者は敵ではない。
ライダーは——まだ名乗ってもいないのに、自分が何者かを滲ませている。
士郎が玄関の戸を大きく開けた。
「上がってくれ。——スリッパ、出すから」
男は敷居の前で一瞬止まり——足元を見た。
日本式の家屋。靴を脱ぐ文化。八百年前の中東の王にとっては未知の慣習だったが、聖杯の知識が補完している。ライダーは砂混じりの長靴を脱ぎ、几帳面に揃えて上がった。
凛は照明の下で、華美ではものの威圧感と誇りを感じる装束をみて確信した。
この男は、王だ。
おそらく将軍でも戦士でもない。土地を治め、民を守り、敵と交渉し、文化の違う相手の作法を尊重する——統治者だ。
「こっちよ、ライダー。居間は奥」
凛が先導した。士郎が湯を沸かしに台所へ向かった。セイバーはライダーの背後に立ち、アーチャーは縁側に戻った。
四人と二騎が、衛宮邸の居間に収まった。
聖杯戦争は——この夜から、形を変え始める。