ライダーが去って、三十分が経っていた。
士郎が淹れ直した茶が、四つの湯呑みに注がれている。セイバーだけは茶に口をつけず、正座のまま目を閉じていた。屋敷の外周に張った感覚を、ライダーが完全に離れるまで緩めるつもりはないのだろう。
「——行ったわね」
凛が湯呑みを両手で包んだ。指先が冷えている。二月の夜だからではない。
「遠坂。どう思う」
「正直に言う?」士郎に向き直り、凛は眉を寄せた。「あのサーヴァント、今回の戦争で当たった中で一番厄介よ。バーサーカーより」
「厄介って——敵としてか?」
「味方としても。あの男、交渉の全部を自分のペースで回してた。こっちはセイバーとアーチャーの二騎がいて、それでも主導権を一度も渡さなかった。真名を伏せたまま同盟を成立させるなんて」
アーチャーが縁側から口を挟んだ。
「だが、条件自体は悪くなかった。マスターの不可侵、民間人の保護、臓硯の排除。どれもこちらに不利益がない。むしろ——」
「そう。こっちが出すべき条件を、向こうから提示してきた。だから呑んだ。呑まされた、とも言えるけど」
「桜のことがなければ、呑まなかったか?」
士郎の問いに、凛は少し黙った。
「——呑んだと思う。悔しいけど。あの男が言った通り、翁の問題がある以上、単独で夜を凌ぐのは無理よ。キャスターを一晩で片づけた存在が街にいるのに、同盟を断る理由がない」
「"山の翁"——ですか」
セイバーが目を開けた。
「私はその名を知りません。ですがライダーの語り方には実感があった。伝聞ではなく、知っている者の話し方だった。ライダーと翁の間に手を出し合えない事情があると言っていましたが——」
「それが本当なら、ライダーの真名を絞る手がかりになるわ」凛は指を組んだ。「初代ハサンと不可侵の関係にある英霊。中東の……」
凛の声が、途切れた。
途切れたのではない。
途切れさせられた。
居間の灯りが——消えた。揺れていない。風もない。温度も変わっていない。なのに、空間の質が変わった。まるで部屋そのものが、一枚の紙の上に描かれた絵になったかのような——薄さ。
セイバーが立ち上がった。
弾かれたように、ではない。彼女の全反射神経が同時に発火し、立ち上がるという動作を最短で実行した。剣はすでに手の中にある。だが——構えが、定まらない。
「——どこだ」
セイバーの声に、初めて動揺が混じった。
気配がない。殺気がない。魔力反応がない。だが「何かがいる」という確信だけが、脊髄を焼いている。方向がわからない。上か。下か。背後か。全方位であり、どこでもない。
アーチャーが双剣を投影した。縁側から居間に踏み込み、凛の前に立つ。
「凛、離れろ——」
その声の、最後の一音節が聞こえなかった。
**居間の灯りが消えた。**
消えたのではない。灯りはついている。だが闇が、灯りの上に重なった。光を塗りつぶす闘ではなく、光があることを無意味にする闇。蝋燭が燃えているのに暗い洞窟。そういう種類の暗さだった。
そして——音。
ひとつだけ。
布が擦れるような音。あるいは大きな鳥が翼を畳むような音。そのどちらでもなく、そのどちらでもある音が、居間の中央——士郎たちのちょうど真ん中——で鳴った。
士郎の目が、闇に慣れるより先に、それを見た。
**骸骨の面。**
黒い外套に包まれた巨躯。その高さが天井に届くのか届かないのか、判断がつかない。存在の輪郭が曖昧なのだ。闇の中に闇が立っている。ただ、面だけが——白い髑髏の面だけが、闇の中で確かに浮かんでいた。
そして、右手に大剣。
セイバーが斬りかかった。
全力だった。直感が告げていた。全力以外に意味がないと。風王結界を解く余裕はない。不可視のまま、最速の横薙ぎ。首を狙う。英霊の首を刎ねれば、いかなる存在であれ——
剣が、触れた。触れて、通った。通ったのに——手応えが、ない。
蝋燭の炎を斬ったのと同じだった。刃は確かにその体を通過した。だが、肉を断つ感触がない。骨を断つ感触がない。何もない。セイバーの剣は、あの黒い外套の中に存在するはずの肉体を、何ひとつ損なわなかった。
翁は——振り向きもしなかった。
大剣が動いた。
セイバーは見えなかった。見えたのは結果だけだった。自分の腹から、赤いものが噴いた。痛みすらなかった。斬られたという認識が脳に届く前に、膝が折れた。
「セイ——」
士郎の声が途切れた。途切れたのは、自分の胸に黒い刃が触れたからだった。触れた。それだけだった。突き刺されたのでも、斬られたのでもない。刃が胸の中央に触れて——体の中の何かが、止まった。
心臓ではない。心臓はまだ動いている。だが体の中のもっと根源的な何か——生きているという前提そのもの——に、「止まれ」という命令が書き込まれた。
士郎は膝から崩れた。
同時に、二つの音。
アーチャーが干将莫耶を交差させ、大剣を受けていた。受けていた、という表現は正確ではない。干将と莫耶が同時に砕け、その破片が宙に散る間に、アーチャーの体が壁まで吹き飛んだ。壁に叩きつけられた体が、ずるりと崩れ落ちる。
凛は——何もできなかった。
宝石を握る暇がなかった。令呪を切る暇がなかった。思考そのものが追いつかなかった。凛が認識したのは、自分の視界が横倒しになったことだけだった。立っていたはずの体が倒れている。痛みはない。血も出ていない。なのに体が動かない。指一本動かない。
死んでいる——と凛は思った。
自分はもう死んでいる。死んでいるのに意識がある。これが、"山の翁"か。死を与えるのではなく、死を「確定」させる。生きている状態から死んでいる状態へ、過程なく移行させる。斬撃はその通告にすぎない。
視界の端で、セイバーが倒れているのが見えた。アーチャーも。士郎も。四人が——二騎の英霊と二人の魔術師が——十秒と経たずに、床に伏している。
闇が、少しだけ薄くなった。
翁が動いたのだ。居間の中央から、縁側へ。去ろうとしている。用は済んだと言わんばかりに。
そのとき。
翁の動きが——止まった。
止まったのは、一秒にも満たない。だがその一秒の中で、翁は何かを感じ取ったようだった。倒れた四人の体に、かすかに、本当にかすかに——何かが残っている。死が確定したはずの体に、呼吸が残っている。心音が残っている。
死を刻んだ。だが、死が定着しない。
翁の髑髏の面が、僅かに傾いた。
倒れた四人を見下ろし——それから、縁側の向こう、ライダーが去った方角を見た。
凛の意識が遠ざかっていく。
視界が暗くなる。音が遠くなる。体の感覚が指の先から消えていく。走馬灯のようなものが見えるかと思ったが、何も見えなかった。ただ、暗い。冷たい。重い。
その暗闇の底で——声が聞こえた。
聞こえた、というのも正確ではない。鼓膜が拾ったのではない。意識の最も深い層に、直接、刻まれた。
低く、重く、底のない声。
砂と岩と、千年の死を踏み越えてきた声。
**「——アイユーブの王か」**
それだけだった。
感情はなかった——ように聞こえた。だが凛は、意識が完全に途絶える寸前に、その声の中にあるものを聞いた気がした。
懐かしさ、ではない。
敬意、でもない。
もっと正確に言えば——確認。
知っている名を、知っている場所で、再び聞いた者の確認。八百年前に城壁を挟んで対峙した者の気配を、異国の小さな屋敷の中に見つけた者の——静かな確認。
闇が、凛を呑んだ。
---
朝の光が、瞼を叩いた。
凛は居間の床に倒れていた。体が動く。指が動く。首が動く。心臓が動いている。
生きている。
横を見ると、士郎が床に転がったまま目を開けていた。生きている。セイバーが壁にもたれて座っている。傷がない。アーチャーが縁側に仰向けになっている。干将莫耶は消えている。だが——生きている。
四人が、生きている。
凛は自分の体を見下ろした。傷がない。血もない。服も破れていない。だが昨夜の記憶は鮮明だ。斬られた。死んだ。確実に死んだ。
「——遠坂」
士郎の声が掠れていた。
「ああ、俺も覚えてる」
「覚えてるのね」
「全部」
セイバーが、ゆっくりと目を開けた。その瞳に、凛がこれまで見たことのない感情が浮かんでいた。屈辱ではない。恐怖でもない。もっと根源的な困惑。自分の剣が何の意味も持たなかったという事実への、騎士としての困惑。
「私は——確かに斬られました。致命傷でした。なのに」
「庇護よ」
凛は天井を見つめたまま言った。
「ライダーの——あの男の庇護。同盟を結んだ者は確殺を回避できると、そういう能力がある。あの男が去った後に翁が来た。つまりあの男は——これを、知っていた?」
知っていたのか。知っていて、同盟を結び、去り、翁が来ることを——予測していたのか。
あるいは予測ではなく、確信していたのか。翁が必ず来ると。そして同盟の庇護が、その死を留保すると。
「アイユーブの王」
凛は呟いた。翁が最後に言った言葉。意識の底に刻まれた声。
アイユーブ——アイユーブ朝。十二世紀。エジプトからシリアにかけて版図を広げたイスラムの王朝。その創始者にして最も名高い王は——
「……あり得るのは」
「遠坂?」
凛の顔は腕を組み、思案の末に答えを出した。
「——サラディン」
名前が、居間の空気を変えた。
「ライダーのサーヴァントは——サラーフッディーン。アイユーブ朝の建国者。エルサレムを奪還した王。十字軍と戦い、リチャード獅子心王と対峙し——そしてハサン教団と停戦協定を結んだ、あの」
士郎は凛の言葉を聞きながら、昨夜の男の姿を思い出していた。門前に立ち、剣を抜かず、鞘で受け、茶を出す相手は斬らないと笑った男。
桜を連れ出し、名にかけてと言った男。
あの男が——十字軍の時代にイスラム世界を束ね、キリスト教徒の騎士たちからすら敬意を受けた、あの王か。
「ハサン教団と停戦の縁がある。だから手を出し合えない。そして同盟者には庇護が及ぶ——それが、昨夜起きたことの正体よ。でも…」
「どうしたんだ遠坂」
「停戦協定は後世のハサンと組んだのであって、初代とじゃない。でも、詳しいことは分からないけど、その縁が初代、山の翁も縛ってるみたいね」
凛は起き上がり、頭を抱えた。
「あの男、全部わかってた。同盟を結べば庇護が発動する。翁が来ても私たちは死なない。だからその前に同盟を成立させた。戦いじゃない。これは——統治よ。あの男は戦争をしてない。冬木を統治しようとしてる」
「統治って、どういうことだ?」
「つまり、翁という"異常"に対して、同盟を組むことで安定化を図ろうとしてるってことよ」
「…いい奴ってことか?」
「だといいんだけど、分からないわ。普通に考えれば、場が荒れるのは誰にとっても困るものだから。単に動きやすくするため、というより戦争を安定的に遂行するための調整と考えたほうがしっくりくるわね」
士郎は床に座ったまま、左手を見た。令呪はまだある。セイバーとの契約は切れていない。
だが昨夜、あの闇の中で、令呪など何の意味もなかった。
意味があったのは——門前で交わされた同盟だけだった。
セイバーが立ち上がった。よろめきもしなかった。だがその目は、昨夜とは違うものを見ていた。
「シロウ。私は——」
「ああ」
「あの翁に、私の剣は届きませんでした」
「ああ」
「ですが——あのライダーは、門前で剣を抜かなかった。あれは侮りではなく、斬り合いにしないという意思表示だった。それをできる者は——」
セイバーは窓の外を見た。朝日が差している。冬木の朝。穏やかな、何も起きていないかのような朝。
「——盤面を見る者です」
かつて自分がそうであったものを、セイバーは門前の一合で見抜いていた。
凛はため息をついた。深く、長く。
「……茶、淹れ直すわ。衛宮くん、台所借りるわよ」
「俺がやる」
「いいから座ってなさい。あんた顔色最悪よ」
「おまえもだろ」
二人は台所に向かった。
何かが昨夜で決定的に変わった。それが何かを正確に言語化することは、まだ誰にもできなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
あの翁に斬られて、生きている。
その事実の重さが——「アイユーブの王」の庇護の重さが——同盟の意味を、契約書の文面よりもはるかに深く、四人の体に刻み込んでいた。
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