凛は衛宮邸の居間に書物を広げていた。
聖杯戦争の資料ではない。歴史書だ。遠坂の書庫から引っ張り出した中東史の概説書、図書館で借りた十字軍関連の文献。インターネットは…こわれた。サラーフッディーン・ユースフ・イブン・アイユーブ。西洋名サラディン。アイユーブ朝の創始者。
朝から六時間、凛は読み続けた。
士郎とセイバーは翁のマスターの捜索に出ている。ライダー曰く、マスターは魔力を持った一般人だろうということだった。士郎は「俺も桜に会いに行きたい」と粘ったが、凛が「捜索と面会を同時にはできないでしょう。桜には私が会うから、あんたは翁の問題を先に動かしなさい」と押し切った。士郎は三度食い下がり、セイバーに肩を叩かれて渋々出ていった。アーチャーは霊体化して凛の傍に控えている。
午後二時。
凛は最後の頁を閉じ——ゆっくりと、机に突っ伏した。
どさり、と額が本の山に当たった。湯呑みが揺れた。
「——遠坂!」
台所から声がした。士郎はいない。声の主はアーチャーだった。実体化して駆け寄り、凛の肩に手を置く。
「おい、どうした。毒か、呪いの残滓か」
「…………違う」
凛は突っ伏したまま、くぐもった声で言った。
「気が、抜けた」
「は?」
「気が抜けたのよ」
凛はのろのろと顔を上げた。目の下に隈ができている。六時間の調べ物のせいだけではない。昨夜、翁に殺されて生き返ったのだ。体は回復していても精神の消耗は別物だった。
「アーチャー、聞いて。聞いたら多分あんたも脱力するから」
「……聞こう」
凛は机の上の本を指で叩いた。
「サラディン。1137年ごろ生まれ、1193年没。アイユーブ朝の初代スルターン。エジプト、シリア、イエメン、ヒジャーズを統べた王。十字軍国家からエルサレムを奪還した、イスラム史上最大級の英雄」
「それは今朝の時点でわかっていたことだろう」
「経歴じゃないの。逸話よ、逸話」
凛は指を折り始めた。
「一つ。エルサレム奪還時、キリスト教徒の住民に対して虐殺を行わなかった。十字軍が百年前にエルサレムを落としたときはムスリムとユダヤ教徒を大量虐殺したのに、サラディンはそれをしなかった。身代金を払えない貧民には弟と部下が自腹を切って、サラディン本人も私財から支払いを肩代わりした」
「……ほう」
「二つ。第三回十字軍でリチャード獅子心王と戦っていたとき、リチャードが熱病で倒れたという報せを聞いて、自分の侍医を送り、氷と果物を届けた。戦争の真っ最中に、敵将に見舞いを送ったの」
アーチャーの眉が動いた。
「三つ。捕虜の扱いが一貫して人道的だった。当時の戦争の常識からすれば異常なくらいに。捕虜を身代金で返すのは当然として、金がない者は解放した例が複数記録されてる」
「四つ」凛の声がだんだん平坦になっていく。「死んだとき、国庫にほとんど金が残っていなかった。葬儀の費用すら借りなければならなかったという記録がある。征服者が、だよ? エジプトからシリアまで支配した王が、私財をほぼ全部施しと軍費に使い切って死んだ」
「……」
「五つ。ハサン教団——暗殺教団との関係。二度の暗殺未遂を受けた後、教団と停戦協定を結んでいる。殲滅できる兵力があったのに、しなかった。落とし所を作って共存を選んだ」
凛は机に頬をつけたまま、アーチャーを見上げた。
「信じる? これ全部」
「史書の記録をそのまま信じるかと聞いているなら——」
「英霊は生前の行いと伝説の両方で座に記録される。仮にこの逸話の半分が誇張だとしても、残りの半分が本物なら——あの男は敵の病人に医者を送るタイプの王なのよ。同盟を結んだ相手を裏切る理由がない。というか裏切るという選択肢がそもそも頭にないタイプ」
凛は深くため息をついた。
「わかる? 同盟相手として、これ以上ないのよ。性格的に。能力的にもだけど、それ以上に性格が。昨夜あの男が言ったこと全部思い返してみなさい。言えないことは言えないと言った。できないことをできるとは言わなかった。条件は全部こちらに利があった。そして——桜を、あの屋敷から連れ出した」
最後の一文で、凛の声が少しだけ揺れた。
「私が十年間やらなかったことを、あの男は一分でやったのよ」
アーチャーは黙っていた。腕を組み、壁にもたれて、凛の言葉を受け止めていた。
やがて。
「……それで、気が抜けたと」
「そうよ。だって——警戒する理由がないの。同盟相手の腹を探って、裏切りの可能性を計算して、保険をかけて——って考えてたのに、調べれば調べるほど保険の必要がなくなっていくの。こんなの初めてよ。とはいえ」
「両手を挙げて安心しきるのはどうかと思うがな」
「そう。さすがに気を許しはしないけど、とにかく過剰に恐れる必要はなさそう」
凛は顔を上げ、髪をかき上げた。
「行くわよ、アーチャー。ライダーに会いに行く。同盟の中身を詰める。臓硯の排除と、市民の安全保障と、庇護の範囲と。条文にできるものは全部条文にする。あいつが本当にサラディンなら、取り決めがなにより意味を持つはず。本物の同盟にするのよ」
「拠点の場所がわからんだろう」
「街を歩く。向こうから来るわよ」
「根拠は」
「勘。——じゃなくて、あの男の行動原理。同盟を結んだ以上、こちらの動向は把握してるはず。私が出歩けば接触してくる。統治者ってそういう生き物でしょう」
アーチャーは肩をすくめたが、反論はしなかった。
---
冬木の商店街を歩いて、二十分。
凛は冬のコートのポケットに手を突っ込み、何気ない顔で歩道を歩いていた。買い物に来た女子高生。それ以上でも以下でもない外見。ただし右手の令呪は手袋で隠し、アーチャーは霊体化して頭上にいる。
声は、横断歩道の前でかかった。
「——やあ」
凛は足を止めた。
横断歩道の向こう側に、男が立っていた。
昨夜の鎖帷子はない。ダークグレーのタートルネックに、カーキのジャケット。黒いスラックスに革靴。どこから調達したのか知らないが、日本の冬の街並みに違和感のない服装だった。髭は短く整えられたまま。髪は後ろに撫でつけている。
信号が変わった。
男が歩いてきた。歩幅は大きいが急いでいない。周囲の通行人は誰も彼を見ていなかった。背は高いが、存在感を意図的に抑えているのだろう。冬木市の中年男性。それ以上の印象を持つ者はいないはずだった。
ただし——凛の目には、鎖帷子が透けて見えるようだった。服を替えても消せないものがある。姿勢。視線の配り方。人混みの中で全方位を把握している者の目線移動。
「来ると思っていた」
男は凛の隣に並び、歩き始めた。
「向こうから来たじゃない」
「先に動いたのはおまえだろう」
「……ライダー。あんた、いつから見てたの」
「おまえがあの家を出た時点で。商店街に入る前に声をかけるつもりだったが、人通りの少ないところまで待った」
凛は脱力しそうになるのをこらえた。やはりライダーは監視していた。同盟相手の行動を把握し、接触のタイミングを計り、周囲への影響を最小化する位置を選んだ。軍事指揮官の行動パターンそのものだ。
「同盟の詳細を詰めたい。桜にも会いたい。拠点に案内してもらえる?」
「そのつもりで来た」
ライダーは商店街を抜け、住宅街へ。そこから川沿いの道を南に歩き、坂を一つ越えた先の——何の変哲もない二階建ての一軒家の前で立ち止まった。空き家だったのだろう。表札はない。だが窓は清潔で、庭の落ち葉は掃かれていた。
「結界は?」
「最低限のものを張ってある。探知阻害と侵入警報。派手な防御結界は逆に位置を知らせる」
「堅実ね」
「城を守るのに壁だけに頼る者はいない」
ライダーは鍵を開け、凛を中に通した。
玄関で靴を脱ぐ。ライダーは昨夜の衛宮邸と同じように、几帳面に靴を揃えた。それから——棚の上に畳んであったエプロンを手に取った。
紺色の、無地のエプロン。
凛は目を瞬いた。
「……何してるの」
「茶を出す」
ライダーは当然のようにエプロンを被り、首の後ろで紐を結んだ。鎖帷子の上に布を重ねるのと同じ手つきだった。そしてキッチンに向かい——流し台の横に立てかけてあった一冊の本を開いた。
『はじめてのおもてなし——やさしい紅茶とお菓子のレシピ』
凛は声を失った。
「サーヴァントは聖杯から基礎知識を与えられるが、茶の淹れ方は含まれていなかった。桜に教わり、この本で補った。湯の温度と蒸らし時間が重要らしい」
ライダーはやかんに水を入れ、火にかけた。それから戸棚を開け、ティーポットと——焼き菓子の皿を取り出した。素朴なクッキーだった。形が少しいびつで、焼き色にむらがある。
「それ、あんたが焼いたの」
「桜と一緒に焼いた。昨日の午後だ。最初の一回は炭になったが、二回目で形になった」
凛は居間に通された。
そこに——桜がいた。
こたつに入っていた。膝の上に毛布をかけ、文庫本を読んでいた。凛が入ってきたのに気づいて顔を上げ——一瞬、固まった。
「——遠坂先輩」
「…………桜」
凛は桜の顔を見た。ライダーは桜に言ってないのだろうか。凛が姉であることを。
三日ぶりの顔だった。痩せてはいない。目の下の隈は——前からあった。間桐の屋敷にいた頃と同じだ。だが、何かが違う。何が違うのか、凛にはすぐにはわからなかった。
桜は文庫本を閉じ、こたつから出ようとした。
「あ、あの、お茶——」
「座っていなさい」
キッチンから声が飛んだ。
「客に茶を出すのは主の務めだ。おまえは客ではないが、今日は私が出す」
桜は中腰のまま止まり、微笑んだように見えた。
小さな笑いだった。声というより息に近い。だがその笑いには、凛が知っている桜の笑いにはなかった響きがあった。間桐の屋敷での桜の笑顔は、いつも薄い膜を一枚挟んでいた。笑っているのに、笑いの手前で止まっているような。そうしなければ壊れるから、そうしていたのだと——凛は今、初めて理解した。
今の笑いは、膜が薄かった。
ライダーが盆を持って居間に入ってきた。ティーポット、カップ二つ、クッキーの皿。エプロンをしたまま、片膝をついて盆を卓に置く。所作は丁寧だが、どこか不慣れな角張りがあった。戦場で地図を広げる手つきと、茶を注ぐ手つきの中間のような動き。
「砂糖は」
「いらないわ」
「桜」
「私もいりません。ライダーは入れるんですよね」
「甘い方がいい。茶は甘くあるべきだ。なにより、砂糖があんなに安いのだからな」
ライダーは自分のカップにだけ砂糖を二杯入れ、スプーンで丁寧にかき混ぜた。それから立ったままひと口飲み——満足そうに頷いた。
「前回より良い。温度を五度下げたのが正解だったな」
桜がまた笑った。今度はさっきより少しだけ大きな笑いだった。
「ライダー、毎回メモしてるんですよ。温度と時間と、お湯の量まで」
「戦場で兵站の記録を取らない将は負ける。茶も同じだ」
凛はカップを受け取り、一口飲んだ。
悪くなかった。むしろ良かった。香りの立て方が繊細で、渋みが抑えられている。レシピ本と試行錯誤でここまで淹れるのは、几帳面を通り越して執念に近い。
クッキーをひとつ取った。形はいびつだが、バターの香りがしっかりしている。噛むとほろりと崩れた。甘さは控えめ。
「……おいしいわね」
「桜の配合だ。私は焼き加減を見ただけだ」
「ライダーが見てくれなかったら、全部焦げてました」
「最初の一回は私が火加減を間違えた。功績は半々だ」
桜が、三度目の笑いを漏らした。
凛はカップを置いた。
この光景を——見ている。
間桐桜が、こたつに入って、文庫本を読んで、サーヴァントと一緒にクッキーを焼いて、笑っている。それだけの光景。それだけのことが——間桐の屋敷では、一度も起きなかったのだ。十一年間。
ライダーがエプロンの紐を解きながら、凛を見た。
琥珀色の瞳に——昨夜の交渉者の鋭さはなかった。穏やかだった。目尻の皺が見えた。笑ったときにできる皺。桜の笑いを見て、ライダーも笑っていたのだ。凛が気づかないほどさりげなく。
「笑ってもらえたなら、やった甲斐はあった」
ライダーはそれだけ言って、エプロンを畳んだ。
凛は息を吐いた。長く、深く。
史書に書いてあった通りだ。敵の病人に医者を送り、捕虜を解放し、私財を民に配った王。その王が今、異国の空き家でエプロンをつけて茶菓子を出し、マスターの少女が笑ったことを喜んでいる。
警戒する理由がない、と午前中に結論を出した。
それは正しかった。正しかったが——正しいという言葉では足りなかった。しかしその分だけ、信頼することを怖くも思った。
「——ライダー。同盟の条文を詰めたい。いい?」
「そのために来たんだろう」
ライダーはエプロンを棚に戻し、卓の向かいに座った。姿勢が変わった。茶を淹れていた柔らかさが消え、交渉者の目に戻る。切り替えが一瞬だった。
「まず臓硯の排除について。あんたの最優先はこれね」
「そうだ。あれが生きている限り、桜の安全は確保できない。聖杯戦争の勝敗以前の問題だ」
「同意するわ。間桐臓硯は蟲を媒介にした延命存在。本体は蟲の集合体に近い。物理的に潰しても核になる蟲が残れば再生する。完全排除には——」
「核の位置特定と、同時殲滅。桜から聞いた。間桐邸の地下に主な蟲蔵がある」
「聞いたの。桜から」
「聞かなければ戦えない。桜は——話してくれた」
凛は桜を見た。桜は俯いていたが、頷いた。小さく。
恐らく全てではないだろう。しかし、少しでもライダーになら言えるということが、凛には意外に思え、そして同時に淋しくもあった。
凛は視線をライダーに戻した。
「次。民の安全保障。具体的には何を想定してる?」
「戦闘区域の限定と、被害発生時の収拾。聖杯戦争は秘匿が前提だが、現実には街が壊れる。壊れた後の処理を誰がやるかを決めておかなければ、勝っても街が残らない」
「あんた本当にサーヴァントの発想じゃないわね。それ完全に行政の発想よ」
「王は行政をやるものだ」
凛はクッキーをもう一枚取った。
「最後に庇護の範囲。昨夜、翁に殺されて全員生きてた。あれはあんたの能力ね」
「同盟者に対する庇護。確殺を留保する。ただし——」
「ただし?」
「おそらく回数制限がある。桜は不可侵だが、それ以外の同盟者は二,三度程度か。四度目はないだろう。そして庇護は私と翁の間の縁に依存している。私が消えれば庇護も消える」
「あんたが消えれば、ね。——それは脅しではなく事実の共有?」
「事実の共有だ。脅しで同盟を繋ぐ王は、砂の城を建てているのと同じだ」
凛はカップの紅茶を飲み干した。
同盟の骨格が見えた。臓硯の排除、民間人の安全保障、庇護の運用と限界。条文化するには十分な材料だった。あとは細部を詰めればいい。細部こそが条約の命だが、ライダーは細部をおろそかにしない。兵站の記録をつけ、茶の温度をメモする男だ。条文の穴を突くような真似はしない。
「ライダー」
「何だ」
「あんたの真名、朝にはわかったわ。翁の呟きと、あんたの逸話で」
男は表情を変えなかった。
「言わないわ。ここでは。桜の前で確認する必要もない。ただ——」
凛は立ち上がり、男に向き直った。
「あんたが本に書いてある通りの人なら。あんたと同盟を結べたことは、この聖杯戦争で起きた一番の幸運よ」
男は少しだけ目を細めた。
「本に書かれた私がどんな男かは知らんが——桜を守ると決めた。おまえたちと組むと決めた。決めたことは守る。それだけだ」
おだててみたが、ライダーには見抜かれているようだった。
桜が、こたつの中から二人を見ていた。
遠坂先輩と、1週間前に現れた王が、条約を結んでいる。その光景が現実であることを、桜はまだ半分しか信じられていなかった。
だが——紅茶はあたたかかった。
クッキーは、おいしかった。
それだけは、本当だった。