日が落ちて、衛宮邸の居間に四人が揃った。
士郎が夕食を作った。翁のマスターを探して冬木の街を半日歩き回った後でも、台所に立つ習慣は崩れない。今夜は豚汁と焼き魚と、炊きたての飯。セイバーの前には大盛りが二杯。
「——で、そっちはどうだったの」
凛が箸を置いて切り出した。
士郎は首を振った。
「駄目だった。新都と深山町の学校周辺を回って、公園も児童館も見たけど、それらしい人物は見つからなかった。令呪が手の甲に出るなら手袋で隠してる可能性もあるし、そもそも外に出てないかもしれない」
「セイバーは?」
「霊体化して広域を探りましたが、翁の魔力残滓は一切感じられませんでした。あの存在は——気配の隠蔽が隠蔽として機能していないのです。隠しているのではなく、感知させるべきものがそもそも存在しない」
「死の概念が実体化したようなものだからね。魔力で探れる道理がないか」
凛はため息をついた。
「こっちの話をするわ」
凛は昼間の出来事を順に話した。商店街でライダーが接触してきたこと。拠点に案内されたこと。同盟の条文を詰めたこと。臓硯排除を最優先とし、民の安全保障を第二条件とし、庇護の回数制限と消滅条件を明文化したこと。
そして——桜のこと。
「桜は、無事だった。こたつに入って本を読んでた」
士郎の箸が止まった。
「……本を」
「文庫本。何の本かは見なかったけど。ライダーがエプロンつけて紅茶淹れてた。二人で焼いたクッキーまで出てきたわ」
士郎は黙った。黙って、味噌汁の椀を見つめた。
桜がこたつに入って本を読んでいる。それだけの光景を想像して、士郎の胸の奥が詰まった。間桐の屋敷で桜がそうしている姿を、一度も見たことがなかった。毎朝うちに来て、台所に立って、先輩先輩と笑って——帰っていく先が、あの屋敷だった。
「桜、笑ってたか」
「笑ってた」
「——そうか」
それ以上は聞かなかった。聞けば声が揺れると、自分でわかっていた。
「同盟の中身に戻るわ。市民の安全保障について。ライダーは戦闘区域の限定と事後処理の取り決めを求めてきた。サーヴァント同士の戦闘はどうしても街に被害が出る。その被害を最小化し、出たら速やかに収拾する枠組みを作ろうと」
「それは——」士郎が顔を上げた。「すごく、まっとうだな」
「まっとうよ。まっとうすぎるくらい。聖杯戦争でそんなことを言い出したサーヴァントは前例がないと思う」
「当然のことだと思うけど」
「当然のことが当然にならないのが聖杯戦争なのよ、衛宮くん」
セイバーが箸を置いた。二杯目の飯は空になっている。
「凛。ライダーはその条件を、交渉材料として持ち出したのですか。それとも——」
「それとも、本気で民を守りたくて言ったのか?」
「はい」
凛は少し間を置いた。
「本気だと思う。というか、交渉材料として使う発想がそもそもないと思う。あの男にとって民の安全は前提なの。前提だから条文にする。息を吸うのと同じで、やるかやらないかの議論にならない。ただ、結果的にライダーにとって都合のいい戦場を作れることは事実ね」
セイバーは目を閉じた。
「——そうですか」
静かな声だった。だがその静けさの中に、凛は何かを聞き取った。敬意だ。騎士としての、というより、王としての敬意。セイバーはかつてブリテンを治めた王だ。民を守ることの重さを知っている。そしてそれが、理想だけでは実現しないことも。
条文にする。民の安全を条文にする。それは理想家の言葉ではない。理想を現実に変えた者の言葉だ。セイバーはそれを——自分にできなかったことの反射として、聞いているのかもしれなかった。
「あの方は——まことの王なのですね」
セイバーはそれだけ言った。
縁側で、アーチャーが茶を啜った。
「結構なことだ。で、その聖人君子は今夜もこちらには来ないわけだ」
「ライダーは自陣が最良だと言ってた。桜を置いて動きたくない、拠点の結界を自分の目の届く範囲で維持したいと。合理的な判断よ」
「ふん。マスターの安全を第一にする。結構。だが——」アーチャーは茶を卓に置いた。「あの男、この同盟の中でただ一人、自分の拠点を明かしていないぞ。案内されたのは凛だけだ。こちらの拠点は衛宮邸だと知られているのに、向こうの情報は凛の記憶頼みだ」
「隠してるわけじゃないわ。私は行ったし、場所も覚えてる」
「そうだな。そしてライダーはそれを許容した。つまりあの男は、最悪こちらが拠点の位置を知っていても問題ないと判断している。裏を返せば——いつでも拠点を移せるということだ」
凛は箸を取り直した。
「否定はしない。警戒するなとは言わないわ、アーチャー。ただ、裏切りの動機がない。あの男の目的は桜の安全と臓硯排除。私たちと利害が一致してる」
「利害の一致は同盟の理由にはなるが、信頼の理由にはならない」
「……それもそうね」
凛は焼き魚をほぐしながら、言葉を選んだ。
「保留よ。私の判断は保留。あの男を信じたい理由はいくつもあるけど、信じたいから信じるのは遠坂の当主のやることじゃない。条文を結んだ。条文の範囲では信用する。それ以上は——行動を見て判断する」
「妥当だな」
アーチャーは頷いた。そこで一拍置いて。
「……しかし」
「何よ」
「エプロンか」
「何の話」
「十二世紀の中東の大王がエプロンをつけてクッキーを焼いている。歴史書に載せたら中世の学者が卒倒するな」
士郎が思わず吹き出した。
「いや——想像したら」
「しないで。しないでよ衛宮くん。私も昼間必死で笑いをこらえてたんだから」
「笑いをこらえていた、と。つまり面白かったわけだ」
「アーチャー黙りなさい」
「あの男、レシピ本を見ながら湯の温度を測っていたんだろう。エルサレムを奪還した手で計量スプーンを握る。いい絵だ」
「だから黙りなさいって——」
セイバーが静かに口を開いた。
「私は——良いことだと思います」
三人が、セイバーを見た。
「王が自ら茶を淹れ、菓子を焼き、マスターに笑ってもらえたことを喜ぶ。それは——王の徳です。民のために手を動かすことを恥じない。恥じないどころか、喜んでいる。私には——」
セイバーは言葉を切った。切って、飯の椀を見た。
「私には、できなかったことです」
居間が静かになった。
アーチャーの軽口が止まった。士郎は箸を持ったまま、セイバーの横顔を見ていた。凛も黙った。
セイバーがブリテンの王だった頃——完璧な王であろうとした頃——民と笑い合う時間があったかどうか。その答えを、この場の全員がなんとなく察していた。
「セイバー」
士郎が言った。
「明日は俺も桜に会いに行く。ライダーに挨拶もしたい」
「あんた今日も行きたがってたでしょう」
「明日は譲らない」
「……そうはいかないわ。翁のマスターの捜索は最優先。全員でやる」
「…遠坂」
「気持ちはわかるわ。でも、今は駄目」
凛は味噌汁の最後の一口を飲み干した。
「さて。印象の話、もう少し聞かせて。セイバー、あんたは門前でライダーと一合交わしたわよね。剣士として、どうだった」
セイバーの目が少しだけ鋭くなった。
「強い、という言葉では足りません。あの方は——抜刀すらしなかった。技術が上だったのかと聞かれれば、そうではないと思います。そうではなく——判断が、上だった」
「判断?」
「抜けば斬り合いになる。斬り合いにしたくないから、抜かなかった。そして、抜かなくても大丈夫だという判断もした」
「侮られたとは思わなかった?」
「思いませんでした。あの方が剣を抜かなかったのは——私を傷つけたくなかったからです。同盟を打診しに来た場で血を流させることを、王として良しとしなかった。それは侮りの対極にあるものです」
凛は頷いた。
「士郎は? 印象」
士郎は腕を組んだ。
「俺は——正直、戦闘とか戦略とかは遠坂やセイバーほどわからない。でも、あの人が門前で桜の名前を出したとき——桜は無事だって即答したとき——嘘じゃないってわかった。なんでかって言われると困るけど。あの人の声には、取り繕ったところがなかった」
「あんたの人を見る目は——まあ、信じてあげるわ」
「何だよその言い方」
「褒めてるのよ。たぶん」
「アーチャーは?」凛が振り向いた。「軽口以外の感想は」
アーチャーは腕を組んだまま、天井を見上げた。
「あの男は——隙がない」
「褒めてるの?」
「警戒している。善人であることと、手強いことは矛盾しない。むしろ善意で動く人間が有能であるほうが、打算で動く人間より厄介だ。打算なら読める。善意は——読めない」
「善意が読めないって、あんたの人生観が心配になるわね」
「私の人生観はさておき。あの男が嘘をついていないことは認める。だが嘘をつかない人間が、常に正しい判断をするとは限らない。特に——自分の信じる正義のためなら、味方にも犠牲を強いる可能性がある。歴史上の名君とはそういうものだ」
「それは……」士郎が口を開きかけた。
「衛宮士郎。おまえにも言えることだ」
士郎は黙った。
アーチャーは茶を飲み干した。
「ま、エプロンの似合う大王というのは悪くない。少なくとも金ぴかの暴君や、蟲の化け物よりはよほど付き合いやすかろう」
「それは同感だわ」凛が苦笑した。「比較対象が最悪だけど」
「この聖杯戦争で比較対象がまともなことのほうが珍しい。贅沢は言うな」
「言ってないわよ」
士郎がふと思い出したように言った。
「そういえば、ライダーの拠点ってどんな感じだった? 桜は——快適そうだったか?」
「普通のアパートよ。清潔にしてあった。こたつがあって、台所が使えて、桜の着替えも揃ってた。やけに中東っぽかったけど。それに、どこから調達したのか知らないけど」
「着替えまで。あの人がか」
「あの人がよ。聖杯の知識で日本の衣料品店の仕組みを把握して、おそらく実体化したまま買い物に行ったんでしょうね。カジュアルな服着こなしてたし」
「……サーヴァントが衣料品店」
「想像するな衛宮くん。ライダーにも色々あるでしょう」
「いや想像する。した。めちゃくちゃ似合ってそうだけど、店員さんは大変だったろうな。あの身長であの目で入ってきたら……」
セイバーが小さく首を傾げた。
「シロウ。桜のことが、心配ですか」
「心配、というか——安心した。遠坂の話を聞いて。桜があったかいところにいて、笑ってるなら。それだけで——今はいい」
凛はそれを聞いて、少しだけ目を伏せた。
明日、士郎が桜に会いに行く。そのとき桜がどんな顔をするか。先輩、と呼ぶのか。それとも——。
それは明日の話だ。
「片づけるわよ。洗い物は私がやる」
「いや、俺が——」
「あんたは明日に備えて寝なさい。顔色悪いわよ。昨夜翁に殺されてるんだから、当たり前だけど」
「遠坂もだろ」
「私は遠坂よ。体力の桁が違うの」
「嘘つけ。昼間本の山に突っ伏してたくせに」
「——誰から聞いたのそれ」
「アーチャーから」
凛がアーチャーを睨んだ。アーチャーは霊体化して消えた。
「逃げた……!」
「逃げたな」
士郎が笑った。凛も——少しだけ笑った。
居間にぬくもりが残っている。豚汁の匂いと、焼き魚の匂いと、茶の匂い。四人と二騎が生きている夜。昨夜死にかけた体で、飯を食い、茶を飲み、軽口を叩いている夜。
明日からまた、戦争が動く。翁のマスターを探さなければならない。臓硯を排除しなければならない。ギルガメッシュがどこかで息を潜めている。言峰が何を考えているかわからない。
だが今夜は——今夜だけは、これでいい。
士郎は食器を流しに運びながら、ふと思った。
ライダーも今頃、あの小さな拠点で桜と向き合っているのだろうか。茶の温度をメモして、明日のレシピを考えて、結界の点検をして。
王の夜は——きっと、静かだ。