朝、目が覚めたとき、士郎は自分の胸に手を当てた。
心臓が動いている。
一昨夜、翁の刃が触れた場所だ。傷はない。痕もない。だが体が覚えている。生きているという前提そのものに「止まれ」と書き込まれた感覚。あれは夢ではなかった。
居間に降りると、セイバーがすでに正座していた。目を開けたまま、庭を見ていた。
「——おはようございます、シロウ」
「ああ。おはよう、セイバー」
「昨夜は、眠れましたか」
「正直に言うと——途中で三回起きた。起きるたびに、息をしてるか確かめた」
「私もです」
セイバーが笑った。笑ったというには硬い表情だったが、目元だけが少しゆるんでいた。
台所で朝食を作っていると、凛が降りてきた。寝癖がついている。いつもなら見せない姿だ。アーチャーが霊体のまま「髪」と一言だけ言い、凛が無言で洗面所に消えた。
朝食の席で、凛が切り出した。
「今日は四人で翁のマスターを探す。士郎、いい?」
「……桜に」
「会いたいのはわかってる。でも翁の問題が先よ。ライダーの庇護があると言っても回数制限がある。翁のマスターを見つけて、アサシンを戦争の構図から外せれば、夜の脅威そのものが消える。桜の安全にも直結する」
士郎は箸を握ったまま、三秒黙った。
「……わかった」
「ありがとう。桜にはライダーがついてる。今日一日くらいは大丈夫」
「わかってる。わかってるけど——」
「うん。だから今日中に見つけましょう。そうしたら明日、一緒に行けばいい」
士郎は頷いた。
「それと、本当は四人一組で動きたいけど——」
「効率を考えれば二手に分かれるべきだな」アーチャーが実体化して言った。「翁のマスターは市街地にいる。探索範囲が広い。一組では日が暮れる」
「そういうこと。士郎とセイバーで深山町側、私とアーチャーで新都側。翁の活動時間は夜の短時間だから、日没前には合流して衛宮邸に戻る。いい?」
「日没前、か」
士郎は窓の外を見た。二月の冬木。日没は五時半頃。あまり猶予はない。
「絶対に日没前に帰る。約束して、衛宮くん」
「約束する」
「セイバーも」
「はい。必ず」
四人は衛宮邸を出た。門の前で二手に分かれる。凛とアーチャーは橋を渡って新都へ。士郎とセイバーは深山町の住宅街へ。
別れ際、凛が振り返った。
「衛宮くん」
「何だ」
「生きて帰りなさい」
軽い口調だった。だがその裏にあるものを、士郎は聞き取った。一昨夜、四人とも一度死んでいる。生きて帰るという言葉の重さが、二日前とはまるで違う。
「おまえもな、遠坂」
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深山町の捜索は難航した。
令呪を持つ人。魔力があるが制御できていない人。手がかりはそれだけだ。セイバーが霊体化して広域を探り、士郎は地上を歩いて学校の周辺、公園、通学路、駄菓子屋を回った。
何もなかった。
令呪の魔力反応はない。それらしい子供も見当たらない。手袋の季節だから、手の甲を確認することもできない。
午後三時。士郎は公園のベンチに座り、缶のコーヒーを開けた。セイバーが実体化して隣に座る。
「シロウ。新都側も成果がないようです。先ほど凛から念話がありました」
「そうか。——遠坂も見つけられてないか」
「翁のマスターが外出していない可能性があります。もし子供であれば、保護者が外に出さないことも——」
「ああ。この状況で子供が出歩いてたら、そっちのほうが問題だ」
士郎は空を見上げた。冬の日差しが傾き始めている。午後三時。日没まであと二時間半。
「帰ろう、セイバー。今日はここまでだ。遠坂との約束もある」
「はい」
二人は立ち上がり、衛宮邸に向けて歩き始めた。深山町の住宅街を抜け、坂を下り、橋へ向かう道。夕日が建物の間から差し込み、アスファルトを橙色に染めている。
長い影が、二つ並んで伸びていた。
「——止まってください、シロウ」
声の質が変わっていた。朝の食卓の声ではない。戦場の声だ。
前方。坂の上。夕日を背にして、小さな影が立っていた。
白い髪。赤い瞳。紫のコートに白いブーツ。少女だった。身長は士郎の胸ほどしかない。だがその背後に——影、ではなかった。山のような巨躯が、夕日の中に立っていた。
岩を削り出したような筋肉。灰色の肌。盲いた目。手には巨大な斧剣。
バーサーカー。
「——やっと見つけた」
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが、にっこりと笑った。
「お兄ちゃん。探したんだよ? 最近夜が怖いから、昼間のうちに終わらせちゃおうと思って」
士郎の背筋が凍った。
夜が怖い。イリヤの口から出たその言葉は、翁の存在を知っていることを意味していた。キャスターの消滅、この数日で起きた異変を、アインツベルンも察知している。
「イリヤ。俺たちは今、戦うつもりはない」
「うん、知ってる。でも関係ないよ。バーサーカーがいれば何とでもなるもの」
イリヤの声は無邪気だった。子供が当然のことを言うときの、あの揺るぎのない確信。十二の試練。ゴッドハンドによる十一回の蘇生。それだけの回数を削り切れる存在など——通常の聖杯戦争にはいない。
「セイバー」
「わかっています。シロウは下がって——」
セイバーが剣を構えた瞬間。
空気が、変わった。
二日前の夜と、同じだった。
同じ——だが、今度は屋内ではない。開けた坂道の上。夕日が差している。光があるのに、暗い。光の上に闇が塗り重ねられていく。夕焼けの橙が、灰色に褪せていく。
セイバーの構えが崩れかけた。崩れかけて、歯を食いしばって立て直した。
「——また」
バーサーカーが動いた。
動いたのは、前方に向かってではなかった。イリヤの前に立ち、斧剣を構え、防御姿勢を取った。狂化しているはずの巨人が、防御を選んだ。本能が告げているのだ。来る、と。
坂の頂上。
夕日の最後の光が沈む瞬間。
その光の隙間から——黒が、滲み出した。
髑髏の面。
黒い外套。
大剣。
翁は夕日と夜の境界に立っていた。影のように。境目そのものであるかのように。
セイバーが動いた。一昨夜と同じ結果になるとわかっていた。わかっていて、動いた。士郎の前に立ち、剣を振るう以外の選択肢が騎士にはない。
不可視の剣が翁の胴を薙いだ。
手応えは——なかった。
一昨夜と同じだった。刃は通過し、肉を断たず、何も損なわない。そして返しの一刀が来た。
見えなかった。
気づいたときには、セイバーの膝が折れていた。腹から赤いものが噴き出す。剣が手から滑り落ちる。膝から崩れ、アスファルトに倒れる。
「セイバー——!」
士郎が駆け寄ろうとした。体が動かなかった。一昨夜と同じ。翁の刃は士郎に触れてすらいないのに、体の中の何かが「止まれ」と命令されている。死の気配が、空気そのものに満ちているのだ。
翁は倒れたセイバーを一瞥し——バーサーカーに向き直った。
バーサーカーが吼えた。
声ではなかった。大気を裂く衝撃波。狂化した英霊の咆哮が坂道を震わせ、街路樹が軋み、窓硝子が砕けた。
斧剣が振り下ろされた。上段から。全力の一撃。ヘラクレスの筋力で振るわれた一撃は、地面を叩けば坂道ごと抉り取る。
翁は——受けなかった。
大剣が弧を描いた。斧剣の軌道の内側に入り込み、刃が触れるより先に、バーサーカーの胸を撫でた。撫でた、としか言いようがなかった。斬撃の音がしない。血飛沫も上がらない。ただ、大剣がバーサーカーの胸を通過した。
バーサーカーの体が、一瞬——痙攣した。
灰色の肌に変化はない。傷は見えない。だが巨人の動きが止まった。斧剣を振り上げたまま、氷漬けにされたように。
一秒。
バーサーカーが再び動いた。斧剣を振り、翁に叩きつける。翁はそれを紙一重で避け——二度目の一閃。今度はバーサーカーの首筋を。
三度目。肩。
四度目は——なかった。
バーサーカーが、斧剣を下ろした。下ろして、振り返った。イリヤを見た。盲いた目で、マスターを。
そしてイリヤを片腕で抱え上げた。
「——バーサーカー!?」
イリヤが叫んだ。驚愕と怒りが混じった声。
バーサーカーは答えなかった。狂化しているのだから言葉はない。だが行動が答えだった。イリヤを抱えたまま、翁に背を向け——跳んだ。
一跳びで、坂の向こうに消えた。
「ちょっと——バーサーカー! 戻って! まだ戦えるでしょう!? バーサーカー——!」
イリヤの声が遠ざかっていく。
翁は追わなかった。
坂道に立ったまま、二つの影が去る方角を見ていた。
士郎は地面に膝をついていた。体が動かない。セイバーが横に倒れている。息はある。呼吸はしている。生きている。庇護がまた——効いたのか。
翁の髑髏の面が、わずかに傾いた。
士郎を見た——のか。セイバーを見たのか。あるいはどちらでもないのか。
そして翁は、来たときと同じように、夕闇の中に溶けて消えた。
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坂道に、士郎とセイバーだけが残された。
夕日は沈みきっていた。街灯が一つ、ちかちかと点滅して灯る。
「——セイバー」
士郎は這うようにセイバーに近づいた。体が重い。だが動く。死の命令が薄れていく。庇護で留保された死が、ゆっくりと体から抜けていく。
セイバーは仰向けに倒れていた。目は閉じている。だが胸が上下している。鎧に傷はない。血も——出ていたはずの血が、消えている。
一昨夜と同じだ。斬られて、死んで、生きている。
「セイバー。起きろ。起きてくれ」
「…………シロウ」
かすかな声。セイバーの目が薄く開いた。
「生きて……いますか」
「生きてる。二人とも」
「……そうですか」
セイバーは目を閉じた。もう一度開けた。
「二度目、ですね」
「ああ。二度目だ」
庇護の回数は二度まで。凛が条文化した。つまり——次はない。
士郎はセイバーの手を取り、立ち上がらせた。二人とも足元がおぼつかなかったが、互いの肩を支えに、坂を下り始めた。
「帰ろう。遠坂が待ってる」
「はい」
衛宮邸まで、二十分の道のりだった。
二人は一度も振り返らなかった。
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アインツベルンの屋敷に戻ったイリヤは、バーサーカーを怒鳴りつけた。
「何で逃げたの! あんなの——バーサーカーなら倒せたでしょう!? ゴッドハンドがあるのに——」
バーサーカーは中庭に立ったまま、答えない。答えられない。狂化した英霊に言葉はない。
イリヤは息を荒くしながら、バーサーカーの体を見た。傷はない。鎖状の装甲にも損傷はない。三度斬られたはずなのに、何の痕跡もない。
だから——確認した。
魔術回路を通じて、バーサーカーのステータスを読む。マスターだけが見れる、サーヴァントの内部情報。ゴッドハンドの残数。十二の試練。蘇生回数は本来、あと十一回のはず。
数字を見た瞬間、イリヤの指先から血の気が引いた。
八。
残り、八回。
「——三つ、減ってる」
声が震えた。
三度斬られた。傷はなかった。痛みもなかったはずだ。バーサーカーは一度も倒れなかった。立ったまま、斧剣を振るい続けていた。
なのに——命が三つ消えている。
バーサーカーは「死んでいない」のに、「死んだ」ことにされている。
ゴッドハンドは「死んだら蘇生する」宝具だ。死ななければ発動しない。つまりバーサーカーは三度、死んだのだ。傷もなく、痛みもなく、倒れることもなく——立ったまま死に、立ったまま蘇った。
それを、体が感知できなかった。
事後的にしか知ることができない死。
「バーサーカー……」
イリヤは巨人の脚にしがみついた。
バーサーカーは動かなかった。ただ立っていた。主を守るために逃げた巨人は、屋敷の中庭で、残り八つの命を抱えて、夜空を見上げていた。
その目は——盲いた目は——何も映していないはずだった。
だがイリヤには、巨人が夜を恐れているように見えた。