桜「中東のライダー?」   作:ヤシの木の里

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バーサーカーとの接敵の数時間前。ライダーの拠点。雑居ビルの三階。

 

午後の光がカーテン越しに差し込んでいる。中東風のテキスタイルが壁を覆い、床にはラグが敷かれ、クッションが並んでいる。卓の上にはティーポットと、食べ終えた昼食の皿。今日の昼はライダーが作った焼きうどんだった。聖杯の知識で覚えた日本料理のレパートリーが、日に日に増えている。

 

桜は卓の前に座っていた。

 

膝の上で、手を握っている。開いて、握って、また開いて。何かを掴もうとするように。何かを押し出そうとするように。

 

「ライダー」

 

「何だ」

 

ライダーは流し台で皿を洗っていた。振り返らずに答えた。

 

「あの……私」

 

桜の唇が動いた。言葉が——喉の手前まで来ている。あと少し。あと少しで口から出る。間桐の屋敷のこと。蟲蔵のこと。お爺様がしたこと。慎二がしたこと。体のこと。汚れた——。

 

「——」

 

出なかった。

 

喉が閉じた。声帯が動かない。息は通っているのに、音にならない。言葉が喉の奥で固まって、石になって、飲み込むことも吐き出すこともできない。

 

ライダーが振り返った。

 

桜を見た。

 

桜は俯いていた。膝の上の手が白くなるほど握りしめられている。唇が微かに震えている。何かを言おうとして、言えないでいる。

 

ライダーはしばらく見ていた。

 

五秒。十秒。

 

桜の口が開いた。閉じた。また開いた。音がない。唇だけが動いている。

 

ライダーは皿を置いた。手を拭いた。

 

「食料品を買いに行く。夕飯の材料が足りん」

 

桜が顔を上げた。

 

「三十分ほどで戻る。戸締まりをしておきなさい」

 

ライダーは上着を取り、玄関に向かった。

 

桜は卓の前に座ったまま、ライダーの背中を見ていた。大きな背中。あの背中におぶってもらった日から、まだ数日しか経っていない。あの温もりを知っている。この人が味方だと知っている。この人なら——。

 

声が出てこない。

 

ライダーが玄関の扉に手をかけた。

 

桜は手を振り上げた。

 

しゃにむに。まるで溺れている人間が水面に手を伸ばすように。背を向けたライダーに向かって、右手を振り上げた。声を——喉から押し出そうとした。体ごと。腹に力を入れて、胸を絞って、喉を開いて。

 

何も出てこなかった。

 

手が空を掴んだ。

 

バタン。

 

扉が閉まった。

 

桜は喉を押さえてうずくまった。卓の脇で。膝を抱えて。喉が痛い。声を出そうとして出せなかった喉が、内側から引き裂かれたように痛い。

 

言いたかった。

 

苦しみを。これまでの苦しみを。十一年分の。蟲蔵の暗闇を。肌を這う蟲の感触を。お爺様の笑い声を。慎二の足音を。汚れた体のことを。

 

全部——言いたかった。

 

この人になら言えると思った。モクモクさんの話ができたのだから。カーテンに隠れたい、膝にいたい、おんぶされたい——そういうことは言えたのだから。

 

なのに。

 

「自分の話」は、一文字も出てこない。

 

---

 

気づいたら、桜は拠点の外に出ていた。

 

どうやって扉を開けたのか覚えていない。階段を降りた記憶もない。ただ——喉を押さえて、涙を流して、雑居ビルの裏手の路地に立っていた。

 

二月の冷たい空気が顔に当たった。涙が冷えて頬に張りつく。

 

路地の電柱の陰に——見えた。

 

モクモクさん。

 

薄紫の、小さなもこもこした塊が、電柱の根元にはいつくばっていた。苦しそうだった。いつもの丸い形が潰れて、地面に張りついて、震えている。赤くも青くもない。灰色。くすんだ灰色に変わっている。

 

桜はモクモクさんの傍にしゃがんだ。しゃがんだというより、膝が折れた。

 

話してどうなる。

 

頭の中で声がした。自分の声。自分の声のはずなのに、少し違う。

 

話したところで、何が変わる。気持ち悪いと言われたら。蟲に犯された体のことを知って、目を逸らされたら。「だからなんだ」と、興味なさそうに言われたら。

 

そんなこと言うはずない。

 

桜は首を振った。ライダーはそんなことを言わない。モクモクさんの話を聞いてくれた。おんぶしてくれた。ホットミルクを淹れてくれた。あの人は良い人。あの人は味方。あの人は——。

 

**「心臓を射抜くような目で、私を蔑むに違いないわ」**

 

耳元で、誰かが囁いた。

 

桜の体が凍りついた。

 

誰の声だった。自分の声ではない。お爺様の声でもない。慎二の声でもない。もっと深い場所から——桜の中の、桜自身が触れたことのない場所から、染み出してきた声。

 

不思議だった。

 

そんなわけないと思う。理性が言っている。ライダーは蔑まない。あの人の目は優しい。琥珀色の、温かい目。あの目が自分を蔑むことなどあり得ない。

 

なのに——そうに違いないと思う。

 

体が言っている。十一年かけて刻み込まれた体が。蟲蔵で学んだ体が。大人の男の前で強張ることを覚えた体が。どんなに優しい人でも、この体を知れば——変わる。目が変わる。声が変わる。そうやって壊れてきた。何度も。

 

魂が、相反する方向に千切れそうだった。

 

信じたい自分と、信じられない自分。理性と本能。モクモクさんの話をするときは、こんなことはなかった。モクモクさんは桜の感情だ。形のない、言葉にならないもの。それを見て、聞いて、抱きしめるだけでよかった。説明しなくてよかった。何があったかを語らなくてよかった。

 

でも「自分の話」は違う。

 

蟲蔵で何をされたか。体に何が起きたか。それを言葉にするということは——相手の目に、自分の汚れを映すということだ。

 

モクモクさんには形がなかった。だから怖くなかった。

 

自分の話には形がある。蟲の形。暗闘の形。肌に残る痕の形。それを相手に見せることが——怖い。

 

なんで。

 

なんで、「自分の話」はできないんだろう。

 

桜の呼吸が速くなった。

 

浅い呼吸。吸えない。吐けない。胸が詰まる。視界が狭くなる。路地の壁と電柱と灰色のモクモクさんと、全部がぐるぐる回り始めた。

 

桜は路上に座り込んだ。

 

アスファルトの冷たさが、スカート越しに伝わった。喉を押さえている。呼吸ができない。過呼吸。頭がぼんやりする。意識が濁る。

 

遠くで車の音がする。犬の声がする。誰かの足音がする。全部が遠い。

 

混濁した意識の中に——声が聞こえた。

 

「——大丈夫か」

 

声。知っている声。温かい声。衛宮邸の台所で、毎日聞いていた声。

 

意識がゆっくりと浮上した。視界が戻ってきた。ぼやけた輪郭が少しずつはっきりしていく。

 

桜は——士郎に抱きかかえられていた。

 

士郎が桜の肩を支え、片膝をついて、桜の顔を覗き込んでいた。赤毛。茶色の目。見覚えのある顔。制服ではない。私服。学校に行っていないのだ。

 

「先輩……」

 

「桜! よかった、意識戻った——どうした? 何があったんだ? ライダーはいないのか?」

 

士郎の声が焦っていた。目が桜の顔を、体を、周囲を確認している。傷がないか。敵がいないか。

 

セイバーの声が飛んだ。士郎の傍に。

 

「ライダーの気配はありません。周囲にサーヴァントの反応もなし」

 

「いないって——あいつ、守るって言ってたのに」

 

士郎の声が低くなった。怒りではない。だがはっきりとした不満が滲んでいる。桜がこんな状態で路上に座り込んでいるのに、サーヴァントがいない。守ると言ったはずの男が。

 

「大丈夫か、桜。立てるか」

 

「なんで……先輩が……学校は……」

 

「翁のマスターを探してるんだ。凛や言峰から情報もらって、このあたりを」

 

士郎は苦笑した。

 

「はは、しばらく学校には行けそうにないな。それより——桜は自分の体の心配をしなくちゃ」

 

「大丈夫です。クラッとしただけ。疲れただけですから」

 

「大丈夫って——」

 

士郎の目が桜の顔を見た。泣いた跡。赤い目。蒼白な顔色。喉を押さえていた手。どこが大丈夫なのか。

 

「私が、勝手に出てきちゃったんです。ライダーは悪くないんです」

 

「そう……なのか」

 

「はい。ライダーは買い物に出てて。私が一人で勝手に外に出て、それで」

 

士郎は黙った。

 

「どうしてそんなことしたんだ?」

 

どうして。

 

桜は俯いた。喉の奥に、まだあの石がある。飲み込めない。吐き出せない。言いたかった。先輩にも。誰かに。でも——。

 

「伝えたいことが……でも、いいんです」

 

「何か、俺が聞けることなら聞くけど」

 

「いえ、いいんです。大したことじゃ……ないですから」

 

嘘だった。大したことだった。十一年分の大したこと。でもその重さを先輩に渡すことが——できなかった。モクモクさんの話すらライダーにしか言えなかったのに。先輩に言えるわけがない。先輩にだけは——知られたくない。

 

「そんなわけない」

 

士郎の声が静かだった。

 

「そんなわけないって、顔を見ればわかる。けど——無理には聞かない。いつでも言えそうなら言ってくれ」

 

桜は顔を上げた。

 

士郎の顔があった。怒っていない。責めていない。問い詰めていない。ただ——心配している顔。

 

「ありがとうございます」

 

士郎は桜に微笑んだ。あの笑顔。衛宮邸の台所で何度も見た笑顔。ただいま、おかえり、今日の夕飯なに作る? あの日常の笑顔。

 

士郎は桜を立ち上がらせ、拠点まで送った。雑居ビルの階段を上がり、三階の扉の前まで。

 

「本当にウチに来ないのか? なんなら料理作って帰ろうか」

 

「大丈夫です。ライダーがそろそろ帰ってくると思いますし」

 

「そっか……」

 

士郎は頭を掻いた。帰りたくなさそうだった。桜をここに残して行くのが心配だった。でも桜がそう言うなら。

 

「あの」

 

「うん?」

 

「姉さ——遠坂先輩には、内緒にしてください」

 

士郎の手が止まった。

 

「ライダーにも」

 

沈黙。

 

「……わかった」

 

「ありがとうございます」

 

士郎は階段を降りていった。一段一段、ゆっくりと。途中で一度振り返り、桜を見た。桜は扉の前に立って、小さく手を振った。

 

士郎は手を振り返して、雑居ビルを出た。

 

---

 

桜は部屋に戻り、クッションの上に座った。

 

膝を抱えた。

 

先輩に会えた。会えて——少しだけ、楽になった。先輩は聞いてくれた。聞いて、無理には踏み込まなかった。それが——ありがたかった。

 

でも結局、何も言えなかった。

 

先輩にも。ライダーにも。

 

喉の奥の石は、まだそこにある。

 

---

 

しばらくして。

 

鍵が回る音がした。扉が開いた。

 

「今帰った」

 

ライダーが買い物袋を提げて入ってきた。白身魚のパック。レモン。バター。小麦粉。パセリ。

 

「おかえりなさい、ライダー」

 

桜は顔を上げた。笑顔を作った。

 

ライダーは買い物袋を流し台に置き、桜を見た。

 

「顔色が悪いな。何かあったか」

 

「いえ、何も」

 

ライダーは桜を見つめた。三秒。

 

顔色が悪い。目が赤い。泣いた跡がある。玄関の鍵が——出るとき閉めたはずの鍵が、開いていた。桜が外に出て、戻ってきた。靴の裏に、外の砂がついている。

 

全部、見えていた。

 

「そうか」

 

ライダーは追及しなかった。

 

「いや、いいんだ」

 

買い物袋から食材を出し、流し台に並べた。白身魚。レモン。バター。今日はムニエルを作る。

 

桜は俯いた。膝の上の手を握りしめた。開いた。握った。

 

「……実は」

 

声が出た。

 

小さな声。掠れた声。でも——出た。

 

「ライダーに、言いたいことがあったんです。でも——言えなくて」

 

ライダーは流し台の前で手を止めた。振り返らなかった。

 

「それで、ライダーが出かけたあと——でも、やっぱり言えなくて」

 

桜の声が震えていた。

 

「言えなくて……それだけ、です」

 

ライダーは白身魚のパックを開けた。

 

「仕方ないだろう」

 

声は穏やかだった。責めていない。問い詰めていない。

 

「話すことは疲れるものだ。思っている以上にな。モクモクさんの話ができたから、何でも話せるようになるわけじゃない。モクモクさんはおまえの感情だ。感情を見つめることと、過去を語ることは違う」

 

桜の目が見開かれた。

 

ライダーは——わかっていた。桜が何を言おうとして言えなかったのか。過去の経験。蟲蔵のこと。体のこと。具体的な中身まではわからなくても、桜が「自分の話」をしようとして喉が詰まったことを——理解していた。

 

「だから、言えるときに言えばいい。首や口というのは、存外に細い。大きすぎるうちは通らんさ」

 

ライダーは白身魚に塩を振った。

 

「俺はそれまで待つ。いつまでも待つ」

 

桜は何も言えなかった。

 

また泣きそうになった。でも今は泣かなかった。泣く代わりに、膝の上の手をゆっくりと開いた。握りしめていた手を。

 

胸のあたりで、モクモクさんが——少しだけ、灰色から薄紫に戻った気がした。

 

「さて」

 

ライダーがフライパンを火にかけた。バターが溶ける音。

 

「今日は白身魚のムニエルだ」

 

「ムニエル」

 

「フランスの調理法だが、レモンとバターの組み合わせは中東でも使う。パセリを多めにかけるのが俺の流儀だ」

 

「……おいしそうです」

 

「おいしく作る」

 

バターの香りが部屋に広がった。白身魚がフライパンの上でじゅうと音を立てた。レモンの酸味が混じる。パセリの緑が白い身に散らされる。

 

桜はクッションの上から立ち上がり、卓に皿を並べた。二人分。箸とフォーク。先輩にもライダーにも言えなかったことが、まだ喉の奥にある。石のまま。

 

でも——いつか言える日が来るかもしれない。

 

いつまでも待つ、とこの人は言った。

 

それなら——もう少しだけ、この石を抱えていてもいい。

 

ムニエルが皿に盛られた。レモンの輪切りが添えられている。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

白身魚を一口。

 

おいしかった。バターの風味と、レモンの酸味と、パセリの苦みが、口の中で混ざり合う。塩加減は——ちょうどよかった。桜の好みの。

 

ライダーは桜の箸が止まらないのを見て、僅かに目を細めた。




次回は翌日19時投稿です
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