犬は
昨夜の
ただ──昨夜のゴブリンの
柵の一部はへし折られ、麦畑は踏み荒らされている。
そんな村の門を抜け、ハルスフォートとリスティは並んで歩いていた。
ハルスフォートは、昨日の泥汚れを落とした旅人装束に身を包んでいる。
対してリスティは、歩きながら一枚の羊皮紙を両手で握りしめていた。
目を近づけすぎて、鼻先が紙に触れそうなほどだ。
「……
喉の奥で音を転がすように、リスティがぶつぶつと発音を繰り返す。
その横顔を見下ろし、ハルスフォートが短く指摘した。
「
舌の付け根を上げ、泥を吐き出すように空気を震わせろ」
「え……ええと、ク、ク、
リスティは口の中で何度も音をこねた。
だが、出てくるのは不出来な乾いた音ばかり。
喉まで上がったため息を、ハルスフォートは奥歯で噛み殺した。
火力だけなら、彼女は大人顔負けの魔術師だ。
しかし、何度も発音をとちる様子を見ると、嫌でも思い知らされる。
リスティは、まだ子供だ。
多すぎる魔力を持っているだけの、未熟な子供。
教えるべきことは、山ほどある。
忍耐深く向き合うことを覚悟し、ハルスフォートは
「……すみません。やっぱり、わたしでは足手まといでしょうか」
目線は紙に落ちたまま、まつ毛だけが小さく震えている。
一昨日の夜、彼女はゴブリンに敗れた。
その事実はまだ、小さな肩にのしかかっているようだ。
「足手まといなら連れて来ない」
ハルスフォートは即答する。
「だが、失敗はするだろうな」
「……そう、でしょうね」
「初めての魔術を、初めての実戦で、
だから、おれはおまえが失敗する前提で動く」
ハルスフォートは背を向けたまま、
「おまえは詠唱だけ考えろ。失敗は、おれの計算に入っている」
「……何度も失敗したら?」
「何度でもやり直せ。成功するまで、おれが時間を稼ぐ」
当然のように言われ、リスティは言葉を失った。
責められた痛みではない。温かな熱が心臓に灯る。
「それと、作戦中はおれの背に乗れ」
「せ、背に……?」
「空から撃つ。落ちる心配はするな。おれが支える」
リスティはしばらく迷った。
視線がハルスフォートの背と、羊皮紙と、自分の靴先を行き来する。
やがて、首を小さく縦に振った。
「……はい。お願いします」
「返事より発音だ。さっきの
リスティは息を吸う。
胸がわずかに膨らみ、細い喉がこくりと上下した。
「
自信なさげに、わずかに音が沈んだ。
ハルスフォートの口から、訂正は飛ばない。正しい発音だったのだ。
「今のを忘れるな」
「……ありがとうございます」
リスティは
やがて、二人の足元から道が消えた。
足音は枯れ葉の下へ沈み、
森の奥から、獣とも虫ともつかない気配が流れてきた。
ゴブリンの生息地は、もう近い。
「ここらだな」
金髪の男から貰った地図を懐にしまい、ハルスフォートがリスティに呼びかける。
「は、はい」
リスティもまた、発音表をマントの裏へ隠す。
夜行性のゴブリンたちは、本来なら木の根元や洞穴で眠っているはずだった。
昼の森は静かで、葉擦れの音ばかりが耳につく。
しかし、ハルスフォートが深い茂みに一歩を踏み出した瞬間。
ギイッ!
葉の隙間から、濁った黄色の目が開いた。
見張りのゴブリンと、視線がぶつかる。
ゴブリンの知能は人間より低いが、並の動物よりも高い。
学習能力を持つ彼らは、昨日の「襲撃者」への警戒を
ギィィィヤアアアッ!
見張りの声が、静かな森を叩き起こす。
茂みが揺れる。
木の影が割れる。
同じ顔をしたゴブリンたちが次々と姿を現し、棍棒を握って立ち上がった。
「チッ!」
舌打ちし、ハルスフォートはリスティに顔を向けた。
「……
言って、ハルスフォートは彼女に背を向けて屈んだ。
「あの……おんぶ、ですよね?」
「その通りだ。早くしろ」
リスティがおずおずと首に腕を回す。
ためらいがちな体重が背中に乗ると、ハルスフォートは彼女の膝をしっかりと固定した。
「……小さいころ、お父さんに負ぶられて以来です」
「今も充分小さいだろ」
軽口を叩きながら、ハルスフォートは地を蹴る。
「
足元に見えない
ハルスフォートは
2人の作戦は、こうだ。
地上からでは、ゴブリンの肉壁に阻まれ、天然
ならば──ハルスフォートがリスティを背負って空を跳び、上空からリスティの魔術を叩きこめば良い。
ただし、この作戦には
森の木々よりわずかに高い位置で、ハルスフォートは足場のない空に立つ。
ギャヒィッ!
地上から、
直後。
ヒュッ!
木々の隙間から、石が飛ぶ。
一つではない。黒い
これが、この作戦の1つ目の穴。
金髪の男からも指摘された、地上からの攻撃である。
ハルスフォートは
リスティは攻撃魔術に専念しなければならない。
つまり、魔術で防御する手は使えないのだ。
ならば。
ギキンッ!
ハルスフォートの剣が抜かれた。迫る石を
魔術で防御できなければ、剣術で応戦すれば良い。
ゴブリンの手先は、狙いを定めて投げられるほど器用ではない。
動体視力と反射神経を
「リスティ! 実戦だ!」
「は、はい! ……ナク・フント・ギゥ……」
出だしから、音が崩れた。
響く言葉が意味をなさないならば、それは詠唱の失敗を意味する。
「
魔術の詠唱に使用される、あらゆる全てに訴えかける声。
それは発音するならば「
そして、
「……原始の槍! ウェティプクサ・オーアス・オィク!」
リスティの詠唱が前進する。
「原始の槍」に相当する
「……あ、ごめんなさい……!」
「謝らなくていい。1回や2回の失敗を
石なら、おれが全て
剣が舞う。
空の足場を踏み替えながら、ハルスフォートは石を斬る。
ギンッ、ギギンッ!
火花が散る。
「原始の槍……
同じ場所で、また舌が転ぶ。
リスティの腕が震える。
首に回された小さな手が、
「1日じゃ……ムリかもしれません……」
「ムリでいい。今日がムリなら明日も、その次もある。
もう一度!」
「はい! ──原始の槍、
リスティが唱えているのは、
彼女にとって、初めて扱う魔術である。
リスティの魔術のバリエーションは、
攻撃魔術は、炎の一手に偏っていた。
これが、作戦の2つ目の穴。
ハルスフォートが先日見た通り、リスティの
森を舐め、木々を呑み、風に乗れば村にまで届きかねない。
ゴブリンを倒した後に焼け野原だけが残るのでは、守ったとは言えない。
燃やさず、広げず、ただ敵だけを
そのために、ハルスフォートはリスティへ
だが──。
「
また失敗する。
何度も、何度も。
声は途中で欠け、意味は世界に届く前に崩れる。
リスティを背負う肩に、熱いものが落ちた。
一滴、また一滴。耳元で、息を殺したすすり泣きが聞こえる。
ハルスフォートは剣を振るいながら、短く言った。
「おれのノドに手を置け」
「え……?」
「一緒に唱えてやる。発音を参考にしろ」
リスティの指が、恐る恐るハルスフォートの喉に添えられる。
小さな指先は、少し冷えていた。
振り返らず、ハルスフォートは喉を鳴らす。
「いくぞ?」
「……はい……!」
すすり泣きは止まり、リスティの声とハルスフォートの声が共鳴する。
──原始の槍、
失敗するたび、最初からやり直す。
音が欠ければ、息を整える。
喉が
石は飛び続けた。
剣は鳴り続けた。
ゴブリンの叫びは、森の底から尽きることなく
それでも、リスティの声は少しずつ形を得ていく。
何十度目かの詠唱。
太陽がわずかに
──
我が敵の魂を
何度も途切れた言葉が、初めて最後の一節まで辿り着いた。
「──
一つ、二つ。
数えきれない光の輪が空に咲く。
光輝く、128の紋様。
目の前に広がる
刃というにはあまりに巨大で、美しく、残酷な「冬」そのものだった。
ギギギギギギキキキキキキキキィィィィンッ!
空から、極低温の
千のゴブリンがひしめいていた森が、
振り上げられた棍棒も、開ききった口も、投げかけられた石も、そのすべてが氷の中に閉じ込められる。
叫び声が途切れた。
投石の音が消えた。
葉の一枚が揺れる音さえ、凍りついて止まる。
一瞬前まで熱狂していた森は、
「……よくやったな」
首に回された腕に、ほんの少しだけ力がこもる。
「大変ありがとうございました!
全部、ハルスフォートさんのお陰です!」
ハルスフォートは、自分の首にしがみつくリスティの体温を感じながら、凍てついた森の「中心部」へと、ゆっくりと降下していった。