王城から一人締め出され、ハルスフォートは宿屋の225号室へと戻ってきた。
通路側にある、自分を主とする、冷たい空のベッド。
そこに腰を下ろし、
昼が過ぎ、夕暮れが訪れ、やがて夜の
──リスティは、一向に帰ってこなかった。
「…………」
ガチャリ、と
祭りの熱気を
彼らは、
彼らは部屋にハルスフォートだけがいる事に気づき、不思議そうに首を
「あれ、お兄さん一人? あの子はどうしたの?」
「……ちょっと、
「そっかぁ。これからも一緒に旅するって話じゃなかったの?」
無邪気な追撃が、ハルスフォートの胸の奥をチクリと刺す。
「あー……」
彼は適当に
ドオォン……。
昨夜と同じように、夜空に花火が打ち上がっている。
──これからも、わたしの護衛をしてくれませんか?
花火を見ながら、リスティはそう言ってくれた。
──これが終わった後、改めて、宿屋で会いましょうね。
扉の向こうに消える直前も、彼女は確かにそう言った。
リスティの意志は、確かにハルスフォートと寄り添おうとしていた。
心変わりして、どこかをほっつき歩いているという事はないだろう。
だが、あの
そして、国家の最重要機密。
一度、国の
* * *
深夜。
歩き疲れた恋人たちが寝静まり、のんびりとした寝息だけが響く部屋。
その中でハルスフォートだけが、何度も寝返りを打った。
力をこめて握るシーツに、シワばかりが増えていく。
──みすみす、獲物を逃がしていいのか?
頭の中で、欲望が問いかける。
リスティには、魔王に匹敵するほどの魔力がある。
国家が彼女を
しかし、自分がずっとリスティの護衛を
自分にとって彼女は、自分が魔王になるための都合の良い獲物。それを
──しかし、相手は国家。腐るほどいる近衛兵、それに聖騎士。宮廷魔術師もいるだろう。
反逆罪。
国家に
魔王になるどころの話ではない。
命の危険と天秤にかければ、ここで
命か、野望か。
ギリギリと奥歯を噛み締め、心の天秤が揺れ動く。
その時だった。
堂々巡りの思考の果てに、ハルスフォートの脳裏に「ある一つの事実」が
──いや、許せなくないか?
彼は、自分自身の足跡を振り返った。
ここまで、どれだけ世話を焼いてきた?
魔女に捕らえられた彼女を洞窟から助けてやり、彼女に
ここまで骨を折ってきたのは、最終的に「魔力を食うため」の下準備に繋がっている。
投資した時間。
擦り減らした神経。
押し殺してきた欲望。
これでリスティを
ハルスフォートの瞳に、暗い炎が灯った。
これまで費やした労力と時間が、すべてムダになる。
その事実に対する理不尽な怒りが、理屈をあっさりと凌駕した。
「……ふざけるな」
ただひたすらに利己的な、己の欲と執念。
ハルスフォートは衣擦れも立てずに立ち上がると、壁に立てかけていた剣をガシッ! と掴み取った。
「国だかギルドだか知らないが……どうしてもおれを魔王にさせたくないようだな!」
自分勝手な理屈で己を正当化し、私欲を爆発させる。
ハルスフォートは眠る恋人たちを起こさないよう、無音で宿屋を飛び出す。
漆黒の王城へ向けて、深夜の街道を駆け出した。
祭りの終わった街道は、昼間とはまるで別物だった。
あれほど人でごった返していた露店通りに、今は人影一つない。
「……へへ」
その静寂の中、下卑た笑いが一つ落ちる。
無人の出店の陰で、男が
棚の奥に隠された小さな木箱をこじ開け、中に入っていた売上金を自分のポケットへ流しこんでいる。
「祭りの夜ってのは、財布のヒモも店のカギも
チャリン、と硬貨が鳴った。
その音に重なるように、背後から声が投げかけられる。
「おい」
「──ッ!?」
男は弾かれたように振り返った。
通りの中央に、銀髪の青年が立っていた。
背にはマント。腰には長剣。月光を受けた青い瞳が、男を射抜いている。
「な、なんだテメェ……」
男は盗んだ硬貨を握りしめたまま、じり、と半歩下がった。
逃げ道を探る目つき。あるいは、相手を値踏みする目つき。
ハルスフォートは、そんな警戒など意に介さず問いかけた。
「おまえ、
「……は?」
男の顔が、間抜けに
金を盗んでいるところを見られた。
脅されるか、衛兵を呼ばれるか、あるいは分け前を要求されるか。
そう身構えていた男にとって、投げられた問いはあまりに前後が繋がっていなかった。
「何言ってんだ、テメェ。頭おかしいのか?」
「答えろ。
「知るかよ! テメェに関係ねぇだろうが!」
男の声が荒くなる。
「夜中にいきなり出てきて、ワケ分かんねぇコト聞きやがって……!
こっちは忙しいんだよ。邪魔すんなら──」
シャッ。
男の言葉は、そこで切れた。
いつ抜いたのか。
ハルスフォートの剣先が、男の喉元に突きつけられていた。
冷たい刃が、薄皮一枚の距離で命を撫でている。
「ヒッ……!」
男の喉が、ごくりと鳴った。
逆上の熱は一瞬で冷め、代わりに脂汗が額へ浮かぶ。
「もう一度だけ聞く」
ハルスフォートは、淡々と繰り返した。
「
「さ……3だ! 3つだよ!」
悲鳴のような返答。
それを聞いた瞬間、ハルスフォートは
「平均か。なら、足りるな」
「なにが──」
ザッ。
男の胸元を、刃が浅く走った。
「ぎゃあっ!?」
服が裂ける。
その下の皮膚も、薄く裂けた。
致命傷ではない。
だが、鋭い痛みと共に血が滲み、男の思考を真っ白に染め上げるには充分だった。
刀身を伝った血を、
刃は夜の闇の中で、ぬらりとした光を帯びた。
男には、何が何なのか分からなかった。
ただ一つ分かるのは、目の前の青年が金目当ての追い剥ぎでも、正義感に燃える通行人でもない。
ハルスフォートはこの場において、行動原理が不明な危険な狂人だった。
「ひ……ひぃぃぃっ!」
男は尻餅をつきかけながらも、どうにか足を動かした。
ポケットから、ドサリ、と売上金を詰めた革袋がこぼれ落ちる。
男はそれに目もくれず、悲鳴を引きずりながら夜の路地へ逃げていった。
「…………」
ハルスフォートは追わず、足元の革袋を見下ろす。
「まあ、目的は達した」
彼は革袋を拾い、棚の奥へ無造作に積んでおく。
ハルスフォートは、血を纏った
魔力を含んだ血を吸った刃が、夜気に紛れるように冴える。
彼は顔を上げる。
漆黒の王城が、夜空を切り裂くように
「さて、行くか」
ハルスフォートは、血を帯びた剣を携え、王城へと歩き出した。
王城は、深夜になっても眠る事は許されない。
等間隔で配置された松明の光、規則正しく巡回する完全武装の近衛兵。
その厳重な城壁の死角となる暗がりに、ハルスフォートは音もなく身を潜めていた。
彼の手には、自身の得物である剣が握られている。
闇の中でも銀色を保ち、しかし光すら飲みこむ刀身。
刀身には、先ほど斬りつけた男の血が薄く残っていた。
人間の血に含まれた魔力を吸い、刃はすでに充分な鋭さを帯びている。
ハルスフォートは血を帯びた刃を、分厚い城壁の石組みへ静かに突き立てた。
スッ……。
石鹸でも切るかのように、刃は一切の音を立てずに石壁をくり抜いた。
血に含まれた魔力を吸えば、
人が一人通れるだけの穴を開け、城内への侵入を果たす。
──言い逃れはできない。逆賊になってしまった。
背筋を這い上がる冷たい汗。
ハルスフォートは庭園の木々に隠れながら、王城の壁へと接近する。
壁伝いに、王城を回る。外と面する窓にちらりと目をやり、中の様子を見る。
「……ハズレか」
空室を確認し、次の窓へと移る。
次へ、次へ──。
やがて、カーテンを閉じた窓から、明かりと
ハルスフォートは息を殺し、窓のすぐ外、わずかな出窓の
「──ついに、
「ああ。我らがアリス・メガセリオンは、ついに悲願を果たしたのだ」
聞こえてきたのは、昼間に玉座の間でふんぞり返っていた、あの大臣の声だった。
その声には、権力者特有の傲慢さはなく、ひどく疲労したような響きが混じっていた。
「かの
「国のための生け贄にするには、あまりにも不憫だ。
我々は、後世の歴史書に血の色の名を残すことになるだろう」
「言うな。
このヨートゥルム、いやレイワズ王国を守るためには、もはやこの手段しか残されていないのだ……」
──生け贄、だと?
窓の外で、ハルスフォートの心拍数が跳ね上がった。
リスティは、戦力として手厚く保護されるわけではない。
何のために必要かは知らないが──あいつらは、彼女を「使い捨ての道具」として消費するつもりなのだ。
──冗談じゃない!
彼の感情に灯る火は、綺麗な名前をしていなかった。
少なくとも、義憤などという上等なものではない。
ハルスフォートは陰謀渦巻く窓から離れ、外壁の
やがて、客室らしき部屋の、カーテンが固く閉ざされた窓を見つけた。
空室は、いずれもカーテンが開かれている。ここに誰かいるのか──。
コン、コン。
ガラスを軽くノックし、死角に隠れる。
やがてカーテンが開かれ、窓が開けられた。
「な、何……? 鳥……?」
「……気のせい、でしたね……」
彼女が窓を閉じようとしている中。
ガッ!
「ひゃっ!?」
窓枠に
混乱するリスティの前に、ハルスフォートは自ら姿を現した。
「ハ、ハルスフォートさん!?」
「驚かせて悪いが、静かにしてろ!」
リスティは、侵入者の為に窓を大きく開ける。
ハルスフォートが部屋に滑りこむと、彼女は信じられないものを見るように目を丸くした。
「どうして……ここにいるんですか?」
「おまえがおれに『これからも護衛を頼む』って言ったんだろうが。
依頼人が誘拐されて、黙ってる護衛がいるか」
私欲を「プロの矜持」というオブラートで分厚く包みこみ、ハルスフォートはリスティの手首を
しかし、抵抗を受ける。
リスティの抵抗を解くため、ハルスフォートは宣告した。
「おまえさん、立場を分かっているのか?
このまま留まれば、この国がおまえを殺すんだぞ」
事実の脅迫に、しかしリスティは驚きの色も見せず、ゆっくりと首を縦に振った。
「はい。わたしは、命を落とすことになるでしょう」
その反応は、予想外に落ち着いていた。
「陛下と大臣さんたちから、説明を受けました。
わたしの命が、この国を守るために必要だと」
「……おまえの命が?」
ハルスフォートの眉が、不快そうに歪む。
「ガキの命一つで、何をやるっていうんだ」
窓の外で盗み聞きした「生け贄」という言葉。
それが、ようやく輪郭を持ち始める。
「魔王を倒すためです」
リスティの返答に、ハルスフォートは一瞬だけ黙った。
「イオーズ祭が何の祭りだと思ってる? もう魔王は倒されたんだろ。
それとも、新しい魔王でも出てくるっていうのか? これまで魔王出現の予知なんて、詐欺師しか言った事がない」
ハルスフォートの皮肉に、リスティは首を横へ振った。
「そもそも、
勇者イオーズ様は、魔王ガーノスヴァイエを討ったのではなく……このヨートゥルムの地下深くに封印しただけだったんです」
「……何?」
困惑するハルスフォートに、リスティが情報を提示する。
「首都の石畳に刻まれた紋様を、覚えていますか?
あれは、ただの装飾ではありません。あれは──」
「……封印の魔法陣か」
リスティの言葉を、ハルスフォートが先に奪った。
「街そのものを魔法陣にしている。
首都に集まる人間の魔力──
リスティは
「でも、その封印も、いずれ破られる定めにあります。
魔王の力の源は信仰です。
その名に連なる魔術が使われるたび、眷属である魔人が生きて動くたび、信仰は積まれていきます。」
旅の中で敵対した魔人たち。
リスティは、胸元に置いた手を握りしめた。
「封印が破られれば、ガーノスヴァイエが地上に出ます。
でも、ガーノスヴァイエは
まともに戦うことはできません。だから……だから……戦わずに魔王を討つための兵器が、造られました」
リスティは、少しだけ息を吸った。
「
「……おまえの馬鹿げた魔力を、魔王に撃ち込む弾丸にする気か」
リスティは否定しなかった。
ただ、視線を床へ落とす。
「はい。……そしてその核を作り出すには、瞬間的に、膨大な魔力を要します。
普通に魔力を注ぐのではなく──人間一人の全てを圧縮して、撃ち出す必要があるんです」
その瞬間、ハルスフォートの胃の底が冷える。
リスティの魔力は、彼が狙い続けてきた獲物だった。
自分が魔王になるために食らうはずの、都合の良い獲物。
それを、国が横から奪い、使い潰そうとしている。
──ふざけるな。
怒りの形は、そういう名をしていた。
「自殺行為を承諾したのか?」
ハルスフォートの問いに、リスティはすぐには答えなかった。
胸元に手を当て、服の上から、ネックレスに吊るされた指輪を押さえる。
「最初は、
怖かったですし……何を言われているのか、分からなくて」
リスティは、言葉を止める。
吸った息を、薄く、薄く吐き出してから、ようやく続ける。
「でも、魔王の封印のことも、
わたしほどの魔力でなければ起動できない。わたしが断れば、魔王の封印は近く破られる。
長い時間をかけて、ようやく分かったんです」
彼女は、無理に口元を緩めた。
「これは、わたしがやるしかないことなんだって」
リスティは笑おうとしたようだった。
けれど片方の頬だけが先に上がり、すぐに落ちる。
ハルスフォートは、その笑顔を見た瞬間、こめかみの奥が熱くなるのを感じた。
「つまり──おまえの師匠は、ガキ一人を生け贄にする為に旅してたって事なんだろ」
低く、ハルスフォートが問う。
リスティの指が、指輪をさらに強く握りしめた。
カーテンの隙間から入る夜風が、そこで止まる。
「師匠は……
そして……わたしを見つけた」
リスティの喉が、初めて少しだけ震えた。
「その師匠に裏切られたって知っても、なお信じるっていうのか?」
ハルスフォートの言葉は、刃のように落ちた。
リスティの顔から、血の気が引く。
ただ、信じていた人の影を、どう扱えばいいのか分からない迷子のような響きだけがあった。
リスティは、必死に言葉を整えようとしていた。
「……信じたいんです。
確かに、師匠はわたしをヨートゥルムに送り出しました。
でも、わたしに魔術を教えてくれたのも、抱きしめてくれたのも、全部まやかしなんかじゃないって……本当に、わたしのことを思ってくれていたんだって」
リスティが頭を抱える。
「……このままわたしが生きてると、いずれ魔王になってしまいます。
魔王にならなくても、この魔術で人を傷つけ──殺す事に利用される。
師匠も、この国の人もこれを望んで、そして魔王を倒すことができるんだったら──!」
リスティの叫びに、それを上回るハルスフォートの怒声が、部屋を打った。
「ガキ一人の命を利用する事に、とやかく言う権利はおれにはない!
だが、大人がガキを囲って『死ね』と言い続けて、『はい死にます』なんて言わせることが正義なのか!?」
リスティがびくりと肩を震わせる。
ハルスフォートが、リスティの
「おれはおまえの護衛契約を受けたんだ!
おまえがここで死ぬのは明白な契約違反だ、宿屋に帰るぞ!」
自分でも
「やめてっ、離してください!」
リスティの声が、大きく跳ねた。
その悲鳴は、客室の扉の奥にも響いた。
バンッ!
「曲者だ! リスティ様から離れろ!」
扉が蹴り破られ、廊下を警備していた聖騎士たちが雪崩れ込んできた。
抜剣する間もない。
「ぐっ……離せ……!」
「王城への不法侵入、ならびに客人への危害。地下牢へ連行しろ!」
廊下の闇へ引きずられながら、ハルスフォートはリスティを見た。
彼女は追ってこない。
ただ、何かを言いかけた唇だけが、小さく開いていた。