王城の地下2階。
陽の光など一切届かない、冷たく湿った石造りの牢獄。
王城の地下牢は普段ほどの静けさを保ってはいなかった。
石壁の向こう側から、時折、甲冑の
誰かが小走りで階段を下り、また誰かが重い荷を運び上げていく。
「観測班から報告は?」
「封印の揺らぎは継続。ただし、解放時期の予測は依然として不明です」
「今日かもしれんし、1ヵ月後かもしれん、か。まったく、胃に悪い話だ」
そんな会話が、分厚い壁越しにかすかに届いた。
魔王の封印は、確実に弱まりつつある。
だが、それが今日破られるのか。明日なのか。あるいは1ヵ月後まで保つのか。
誰も断言できない。
だから、誰も休めない。
地下大空洞へ木箱が運ばれ、伝令が走り、予備兵の名札が何度も並べ替えられる。
壁の奥で増えていく足音は、封印の
その影響で、地下牢の見張りも通常より手薄になっている。
鉄格子の前に残された衛兵は一人。
その一人でさえ、牢の中の囚人より、遠くの台車の音に顔を向けている。
彼らにとってハルスフォートは、剣を取り上げ、口を
「ンーッ! ンーンッ!」
ハルスフォートはくぐもった声を上げながら、縛られた両腕を振り回して牢の中を暴れ回っていた。
恐怖から来る
壁を蹴りつける音が、地下牢に響き渡る。
「おいキサマ、静かにしろ!」
牢の前で見張りをしていた衛兵が、苛立たしげに
しかしハルスフォートは止まらない。目を血走らせ、
そして、次の瞬間だった。
ガンッ!
ひときわ大きな
「──ッ!」
ハルスフォートは額から血を流しながら、糸の切れた操り人形のようにガクンと床に倒れ伏した。
そのまま、ピクリとも動かなくなる。
「チッ、自ら壁に頭をぶつけて気絶したか。バカめ」
衛兵は呆れて鼻を鳴らすと、倒れたハルスフォートからそっぽを向いた。
冷たい石の床の上で、ハルスフォートは呼吸すら止まったかのように微動だにしない。
十数分が経過し、ハルスフォートの額から流れた血が、床に赤黒い水たまりを作り始めた頃。
静まり返った牢屋の中に、ブゥン……という、不快な音が響き始めた。
1匹の黒いハエが、ハルスフォートの血の匂いに誘われ、その傷口にピタリと止まった。
やがて2匹、3匹と暗闇からハエが現れ、次第に数を増していく。
黒い羽虫の震えが重なる。
気がつけば十数匹のハエが、彼の頭部に群がり、表皮を這い回っていた。
「……おい。ウソだろ、さっきの自滅で死んだのか?」
異様な羽音に気づいた衛兵が、
「めんどくせぇ。オレの持ち場じゃねえ時に死にやがれ」
衛兵は腰の剣を抜き、鉄格子の隙間からハルスフォートの
反応はない。
続いて
それでも、
衛兵は肩の力を抜いた。
生きている人間に向ける警戒が、そこでぷつりと切れた。
「死体処理班を呼ばねえと。全く、祭りだってのに貧乏クジだぜ……」
悪態をつき、牢の鍵を開け、衛兵が不用意にハルスフォートの「死体」へ寄る。
屈みこんで顔を近づけた、その時だった。
死んだはずのハルスフォートの目が、カッと見開かれた。
「な──!?」
「ンゥヴッ!」
猿ぐつわ越しの
ハルスフォートは両腕の縄を、衛兵の首へ引っかけた。
身体を反転させ、背中に貼りつく。
麻縄が革の
衛兵の手が宙を掻いた。
剣を抜こうとした指は、
「ぐっ、がっ……!?」
気道が詰まる音。衛兵は白目を
ハルスフォートは荒い息を吐きながら、倒れた衛兵を見下ろす。
ハルスフォートは床に落ちた衛兵の剣を、靴の底でしっかりと踏みつけて固定する。
縛られた両腕の縄を、その刃に強く押し当てた。
ギリ、ギリリッ、と体重をかけて擦りつける。
ブツンッ! と丈夫な麻縄が数本まとめて断ち切れ、ようやく両腕が自由になった。
「ぷはっ! ……頭が石で殴られたように痛いな」
解放された腕で猿ぐつわを引き剥がし、額の血を乱暴に
朱色に濡れた指の先に、ハエが止まる。そのハエは見る間にハルスフォートの指先の肉と溶け合い、消える。
ハルスフォートは、気絶した衛兵の腰に手を伸ばした。
先ほど、衛兵が使っていた鍵の形は知っている。
カチリ、と錠が外れる。
扉を押し開け、ハルスフォートは牢の外へ出た。
ハルスフォートは廊下へ出るなり、左右へ目を走らせた。
ランタンが三つ。曲がり角が一つ。詰め所の扉が半開き。
見張りの気配はない。
ハルスフォートは、廊下の脇にある小さな詰め所へ足を踏み入れた。
机。椅子。巡回記録らしき羊皮紙。
そして壁際には、囚人から取り上げた品を納めるための棚があった。
棚の前には、粗末な鉄格子の戸が取り付けられている。
ハルスフォートは鍵束を鳴らし、合う鍵を探した。
ガッ……ギチッ……ガチャリ。
数本目で、鉄格子の戸が開く。
中には、短剣や杖、硬貨の入った革袋、魔術用の触媒が雑多に並べられていた。
その中に、見慣れた長剣があった。
ハルスフォートは迷わず、その柄を掴んだ。
指の
「待たせたな、相棒」
返事はない。
ただ、
詰め所の外へ出る。
その瞬間、階段の奥から、武装した足音が近づいてきた。
「なっ……! キサマ、どうやって脱獄した!?」
駆けつけてきた衛兵は三人。
槍と剣を構え、狭い廊下を塞いで立ちはだかる。
ハルスフォートは、
「丁度良い。ちょうどコイツの喉が渇いていた所だ」
言い終えるなり、ハルスフォートは床を蹴った。
ザンッ!
一人目の赤が、刃に触れた。
飢えた獣が鼻先を上げるように、刀身が次の獲物を求めた。
二人目。
三人目。
ハルスフォートが振るうたび、赤い
「うぐっ……!」
倒れた衛兵たちの
ザクッ。
血の魔力を吸い上げた
──リスティの話だと、魔王も、
ハルスフォートの目的は、世界を救うことでも、リスティの心を救うことでもない。
彼を突き動かしているのは、ただ一点。
いつか、リスティを食う為に。
「だったら……兵器そのものをメチャクチャにぶっ壊して、あいつが生け贄になる存在意義ごと無くしてやればいい……!」
さらなる兵が駆けつける前に、ハルスフォートは足元の石床を斬り裂いた。
彼の身が、封印の眠る地下空間へと躍らせる。
王城の最深部、地下大空洞。
首都の住民たちも知らない都市の底には、空と見紛うほど高い闇が広がっていた。
その闇の中央に、それは鎮座している。
見上げるほど巨大な砲身が、暗い天井へ向かって沈黙している。
周囲の魔導鉱物は、鉱石というより骨のように組み上げられていた。
その心臓部には、勇者の伝説、
巨大な
「本来の起動予定は3日後です。
しかし、魔王の封印は今日破られても、1ヵ月後まで保っても不思議ではない。
だからこそ、急速起動用の準備も合わせて行われています」
「きょ、今日かも、しれないんですか……?」
「大丈夫です──という保証もできませんが、近々に封印が破られても対策できるよう、詠唱を練習しましょう」
「詠唱を……?
宮廷魔術師は答える前に、一拍置いた。
その一拍が、リスティの肩を小さく縮めさせる。
怒鳴られたわけでもないのに、彼女は自分の質問を撤回したくなった。
「確かに、詠唱なしで起動できるものが多いです。
しかし、魔術の詠唱を伴わせて起動する事で、その効果を上乗せできる。……相手が強大な魔王故に、詠唱なしでは足りないのです」
リスティは青ざめた顔で、渡された分厚い羊皮紙を震える両手で握りしめた。
そこには、
「それでは、詠唱の予行練習を行います。
魔術が発動しないよう、一語ごとに練習しましょう」
「は、はい……っ」
「……本番で失敗すれば、あなた一人では済みません」
感情の薄い声だった。
だが、その冷たさは怒りではなく、恐怖を押し殺したものにも聞こえた。
魔王討伐という、国家の命運が自分の肩に乗っている。
その重圧が、リスティの喉を石のように硬くした。
「……オイツンルス・ディフェイト・ユースケウト……」
舌がもつれ、唇が乾く。
紙面の文字を追う目だけが先へ進み、口が置いていかれる。
一音ずれるたび、宮廷魔術師の視線が冷たく落ちた。
「
宮廷魔術師は、間違いだけを拾った。
怒鳴りもしない。無機質に「もう一度」と繰り返す。
これが、普通の魔術師の指導。
「す、すみません……オイツンルス・ディフェイト・ユースケウト……」
また噛んでしまった。
焦れば焦るほど、頭の中が真っ白になっていく。
「もう一度」
静かな命令が響く。
リスティの視界が、じわりと涙で
びっしり並んだ文字が、黒い虫の群れとして詰まっている。
読み上げようと息を吸うたび、喉の奥で何かが引っかかった。
脳裏に蘇ったのは、ハルスフォートの声。
「謝るな。いくらでも失敗していい」
「ムリでいい。今日がムリなら明日も、その次もある」
「おれのノドに手を置け。一緒に唱えてやる。発音を参考にしろ」
──帰りたい。
でも、もう……わたしは、あの人を拒絶してしまった。
ハルスフォートに頼る資格など、自分にはないのだ。
だというのに、「来てほしい」と願ってしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。
ぎゅっ、と紙を握るリスティ。
失敗が許されない重圧。
寄り添ってくれる人のいない孤独。
死──。
「もう一度──」
宮廷魔術師が「再度」と告げかけた、その瞬間だった。
ガゴンッ!
頭上で石が割れ、天井が鳴る。
瓦礫が雨となって降り、土煙がもうもうと膨れ上がる。
「なっ──」
リスティは息を呑み、宮廷魔術師は反射的に天を
割られた空洞から、銀色の影が一直線に落下してきた。
「何事だッ!?」
宮廷魔術師が血相を変えて後ずさる。
灰色の幕が、下から裂けた。
額から血を流し、剣を肩に
「ハルスフォート……さん……?」
リスティは、その名を
瓦礫の中から現れたハルスフォートを、宮廷魔術師は唾を飛ばして
「侵入者だと!?
王城を破壊するとは、大罪人め!」
「お優しいな。人間扱いしてくれるなんて」
情念に