「衛兵! その逆賊を捕らえろ!」
宮廷魔術師の金切り声が、地下大空洞に反響した。
近衛兵たちは、誰一人として瓦礫に足を取られなかった。
砕けた石を踏む音が、ひとつの拍子に揃う。
盾の縁が隣の盾を噛み、半円が、音もなくハルスフォートの背後まで閉じていった。
前列の兵が盾を構え、後列の兵がその隙間から槍を突き出す。
切っ先は喉、胸、脇腹、太腿。
ただ殺到するのではない。動けば刺さる位置に、あらかじめ死を置いている。
「武器を捨てろ! 貴様に逃げ場はない!」
兵の一人が怒鳴る。
その声に、ハルスフォートは血に濡れた剣をだらりと下げた。
「逃げるつもりでここにいると思ったか?」
薄く笑う。
次の瞬間、槍の壁が迫った。
ガギィンッ!
甲高い金属音が反響する。
ハルスフォートは半身を沈め、首元へ伸びた槍を剣の腹で弾いた。
軌道を
生まれた一瞬の隙に、ハルスフォートは滑りこんだ。
「なっ──」
近すぎる。
槍が最も力を発揮する間合いの、さらに内側。
盾も、槍も、味方同士の鎧さえ邪魔になる距離。
「不覚さえ取らなきゃ、おれは捕まらないんだ」
短く吐き捨て、剣が走る。
ザシュッ!
甲冑の隙間──肘の内側を裂かれた兵が、槍を取り落とした。
返す刃が膝裏を叩き、別の兵が悲鳴と共に崩れる。
「ぐあぁっ!」
「隊列を崩すな! 囲め!」
怒号が飛ぶ。
倒れた兵を踏み越え、左右から新たな槍が迫る。
ハルスフォートは踏み込まない。
むしろ一歩、後ろへ退いた。
追って伸びた2本の槍が、彼の胸元を貫く寸前──。
「
タンッ。
見えない足場を蹴り、ハルスフォートの身体がふわりと宙へ浮く。
槍は空を突き、兵士たちの目が上を向いた。
その頭上を、影が越える。
「上だ!」
叫びが間に合うより早く、ハルスフォートは兵の背後に落ちた。
ドンッ!
着地と同時に、
一人が前のめりに倒れ、その背中を足場にしてハルスフォートはさらに踏み込む。
剣筋は派手ではない。
だが、残酷なほど正確だった。
剣は必ず鎧の薄い箇所を見つけ、関節を裂き、腱を断ち、握った武器を床へ落とさせる。
争いに噴く赤い霧が、ハルスフォートの顔に飛ぶ。
「ハルスフォートさん、やめてっ!」
横手から飛んできた声は、声帯の傷に構わず絞り出した息だった。
振り返ると、リスティが震える両手で一つの
「わたしはこれでいいんです!
わたし……殺すよりも、殺された方がいいんです」
涙が、頬を伝う。
「わたしには、魔王の血筋と、魔王に匹敵する魔力があります。
いつか魔王になってしまうこの身なら、ここで生け贄になっていい!
わたしの為を思うなら、どこかに逃げてください……これがわたしの救いなんです!」
女神の指輪が、リスティの手の中でかすかに鳴った。
濡れそぼった
ハルスフォートは短く息を吐いた。
肩が落ちる。血のついた剣先が石床をかすり、赤い線を引き──。
ダッ!
一瞬で宮廷魔術師の死角に回りこみ、首筋に冷たい刃を当てた。
「ひぃっ……!?」
「動くなよ、お偉いさん」
宮廷魔術師の首筋が刃に押され、薄い悲鳴が漏れた。
ハルスフォートはその身体を片腕で引き寄せたまま、血の色を残した瞳をリスティへ睨み返す。
──
そんなにワガママを言うのなら、おれのワガママも聞いてくれ。
「おれは、おまえの為を思って動いていない!」
──全てはおれが、おまえを犠牲に魔王になるためだ!
「殺されるよりも、生きている方が良いに決まってるだろうが!」
──生きていないと、おまえの魔力を食えなくなる!
「魔王の血筋!? 膨大な魔力!? 大層で結構だ!」
──魔王の要因に2つも恵まれやがって、代われるものなら代えさせろ!
「この国もおまえさんが必要なようだがな……!
このおれも! おまえが──」
──エサとして!
「──必要なんだ!」
ハルスフォートの
近衛兵の呻きも、宮廷魔術師の荒い息も、その声に押し潰される。
それは、
欲望に由来する真に迫った熱意は、その真意を糖衣に隠してリスティの胸を貫いた。
魔王の血筋も、呪われた魔力も、すべてひっくるめて「大層で結構だ」と肯定してくれた。
そして何より、世界や国家の平和のためなどではなく、「おれにはおまえが必要だ」と、たった一人の人間として、リスティという存在そのものを強烈に求めてくれたのだ。
「ハルスフォート……さん……」
女神の指輪を構えていた手が、力なく下がる。
けれど、リスティの震えまでは止まらなかった。
指輪を握る腕が、胸の高さからゆっくり落ちた。
肩が丸まり、
勇者の名で立っていた背筋が、年相応の細さを取り戻していた。
人質はもう不要だ。
ハルスフォートは宮廷魔術師を突き飛ばすと、剣を下げたまま、リスティへ歩み寄る。
反射的に、リスティの足が半歩だけ後ろへ下がった。
「……っ」
その怯えを見て、ハルスフォートは足を止める。
血に濡れていない方の手の平を、ゆっくりと差し出した。
「来い」
短い一言だった。
慰めでも、説得でもない。命令に近い、ぶっきらぼうな声。
「お前を生かす。護衛の任務だからな」
リスティは、差し出された手を見る。
大きく、無骨で、剣を握ってきた手の平。
それは今、殺すためではなく、殺さないために伸ばされていた。
「……はい」
リスティは涙を
震える指先を、そっとハルスフォートの手に重ねる。
握り返す力は、まだ弱い。
それでも、振り払うことはしなかった。
ハルスフォートはそれ以上、何も言わない。
か細い握りを引いて、
リスティは、恐る恐るその背中について行った。
──その瞬間だった。
ズゴォォォォォンッ!
立っていられないほどの激しい地響きが、王城の地下を揺るがした。
足元の岩盤に亀裂が走り、その下から強烈なプレッシャーを感じる。
「……魔王の……ガーノスヴァイエの、復活だ……!」
宮廷魔術師が絶望の叫びを上げる。
「き、奇跡を──せめて私の手で奇跡を……!」
宮廷魔術師は、よろよろと
しかし。
ハルスフォートは
ガキンッ! ガズンッ!
「な、何をする!?」
「燃えないゴミの日に出しやすくしてやってんだ!」
歯車めいた部品が飛び散り、銀色の粉を吐いて床へ転がる。
そして──宝剣の刃ですら斬れない「ガギン」という硬い感触と共に、砲身の奥から一つの弓が転がり落ちた。
弦のない、白い弓──
「こいつか……!」
ハルスフォートが無造作にその弓を掴み上げると、弓に光の弦が生成される。
同時に。
ジュゥッ!
「があっ!?」
肉の焼けるような──いや、溶けるような異音が響いた。
慌てて手を放すと、触れた手の溶解は止まったが、光の弦も消失する。
「ハルスフォートさん!? その手……!」
「気にするな! 逃げるぞ!」
ハルスフォートは歯を食いしばり、溶けかけた手でマントを外すと、聖弓をぐるぐると包み込んで肩に担いだ。
痛む手をマントごと握り込んだまま、ハルスフォートは空いた腕でリスティの腰をさらった。
「
割れた天井を蹴り抜け、煤けた廊下へ飛び出す。
どこか遠くで、非常鐘がけたたましく鳴り始めていた。
リスティは揺れる視界の中で、マントに包まれた白い弓を見つめる。
「どうして、
王城から脱出し、ハルスフォートは悪びれた笑みを浮かべた。
「おまえの死にたがりを無くしてやるためだ」
青年と少女の姿が、王城の闇の向こうへ消えていく。
残された宮廷魔術師は、その場にへたり込んだまま、呆然と目を見開く。
「ああ……
奇跡は砕かれた。
王国の切り札たる
何もかもが、指の間からこぼれ落ちていく。
その時だった。
ギッ……ジュッ……。
地下大空洞の底から、不吉な音が迫り上がる。
宮廷魔術師が視線を落とすと、岩盤の上を蛇がのたうちながら走っていた。
「っ……!」
異物が這い上がる亀裂は一本ではない。
地下大空洞の底を覆うように広がり、その奥から、重圧が噴き上がってくる。
その正体を知る宮廷魔術師の顔から、血の気が引いた。
半狂乱で、宮廷魔術師は腕を振り上げる。
「
背に光の翼が展開される。
数名の近衛兵たちもまた、宮廷魔術師の魔術により、ふわりと身体を浮かせた。
「脱出するぞ! ここはもう駄目だ!」
崩落しかけた石材を避けながら、彼らは地下大空洞の上方へと飛翔する。
舞い上がる土煙。割れる岩盤。足元に纏わりつく死の気配。
上昇の最中、宮廷魔術師は息を荒げながら兵の一人を怒鳴りつけた。
「避難勧告は!? 城内と、民に知らせたのか!?」
「はっ! すでに非常事態の鐘を鳴らしております!
城下へも、外壁門へも、伝令を走らせました!」
「そうか……そうか……」
答えを聞いたところで、宮廷魔術師の表情は晴れなかった。
むしろ、その絶望は深まるばかりだった。
「だが、遅い……もう遅いのだ……。
奇跡は失われ、適合者も消えた。
このレイワズ王国は……ここから滅亡の道を辿るだろう……」
悲嘆にくれる宮廷魔術師の声を、脊髄をなぞり上げる異音が呑み込んだ。
誰もいなくなった地下の、
何もなかったはずの空間には、存在が満ちていた。
黒い
底より溢れ出たそれは、煙のようでいて煙ではない。
液体のようでいて液体でもない。
意思を持つ闇の
その中心で、何かが
無数の硬質な甲殻が、互いの体を這い合う。
ヤスデの多脚が、前から後ろへ波打つ。
クモが糸を吐き、隣の蟲を絡め取る。
ムカデが外骨格に
異様に細長い脚を持つウデムシが、その上を悠然と闊歩する。
疫病の魔王「ガーノスヴァイエ」は、そうやって存在していた。
おぞましき蟲という虫が、数え切れぬほどに寄り集まり、絡み合い、積み上がり、ようやく人型めいた輪郭を形作っているだけの、冒涜的な巨影。
頭部に見える場所では、幾百もの虫の眼が赤黒く瞬き、
腕に見える部位では、細い脚の束が波打ち、
胴に見える箇所では、びっしりと重なった甲殻が呼吸するように脈動していた。
それは巨人でありながら、同時に巨大な蟲の巣でもあった。
闇の
ジュッ──。
石に、
壁面のあちこちに、脈打つ筋が走る。
ブチュッ!
壁面が裂け、赤い血が噴き出した。
石壁は悲鳴のような軋みを上げながら、内側から崩れ始める。
血を噴き、肉めいた泡を吹き、巨城の地下構造そのものが、魔王の瘴気に触れた瞬間、生命と腐敗の中間の何かへ変じて自壊していく。
ボゴンッ!
ズガガガガッ!
崩壊は一気に連鎖した。
石の地下空間はもはや城ではなく、災厄の口腔と化している。
無数の虫が擦れ合うざわめきをまといながら、黒き魔王ガーノスヴァイエが、完全にその姿を現した。
当初この第一部は全24話の予定でしたが、改稿にあたって文量が増えた為、全25話となります。