カンッ! カンッ! カンッ! カンッ!
深夜のヨートゥルムに、けたたましい警鐘が反響する。
さっきまで笛と笑い声を跳ね返していた石畳に、割れた
甘い果実酒の匂いを、割れたランタンの
屋台の幕が火を噛み、誰かの肩が誰かを突き飛ばし、門へ向かう人波が夜の通りを押し潰した。
その狂乱の波に揉まれ、10歳ほどの少年が転倒した。
「わぁっ!」
「ノリン!」
パニックに陥った大人たちの足が、容赦なく少年に降り注ごうとする。
それを未然にせんと、少年の父親が身を
「ぅっ……!」
父親の喉から、悲鳴を殺した息が漏れる。
人々が通り過ぎたあと、彼の片足だけが不自然な角度で石畳に投げ出されていた。
「父さん……?」
ノリンが肩を揺すっても、父親は起き上がらなかった。
笑おうとした口元だけが引きつり、
「……俺はもう、足が折れて動けない。
いいかノリン。俺のことは置いて、お前だけでも門の外へ走るんだ。早く!」
「いやだよ! 父さんが死んじゃうなんていやだ!」
泣きじゃくる我が子。突き放そうとする父親。
親子の悲痛な嘆きは、自己防衛に精一杯の、大多数の人間には届かない。
冷血なのではない。ただ皆、自分を守るだけの腕しかないのだ。
やがて周囲から人影がまばらになり始めた頃。
「──おーい! 早く逃げた方がええぞー!」
鐘の音に負けないよう張り上げているのに、その声だけは妙に丸い。
御者台の老人は、揺れる馬車の上で左腕を大きく振っていた。
馬車の荷台には、山のような干し柿に混じって、逃げ遅れた老人やケガ人がすし詰めに乗っている。
「で、でも……! パパが……立てないみたいで……!」
「なら、乗ればいいじゃろ。ホレ、手を貸してくれ!」
老人は干し柿をボロボロと道端へ落とし、空いたスペースに父親と息子を引っ張り上げた。
「あ、ありがとうございます……! 大切な売り物を……!」
「いいんじゃ、いいんじゃ。
わしも、それくらいの年頃の子に助けられたからのう。
命あっての物種、子供は未来の宝じゃ」
言って、老人は御者台に戻って馬を走らせようとする。その時。
ズンッ!
またしても、鐘の音すら呑む地鳴りが首都を揺らす。
ヒヒィン……!
震動と、立ち昇る土煙にパニックを起こした馬が、いななきを上げて暴れ出した。
「あああ、どう、どう! 落ち着かんか!」
老人は必死に
あわや馬車が横転しかけた刹那──馬の
馬に蹴られる可能性も恐れず、近くに寄った彼は、一定のリズムの低い声を聞かせてやる。
「大丈夫だ、恐くない。もう大丈夫だぞ」
金髪の旅人は馬の首元にスッと寄り添い、優しく撫でる。
すると、魔法のように馬の興奮がスッと治まり、大人しく四つ足を地につけた。
「ウマがパニックを起こした時は、力で抑えこもうとせず、こうして首筋の動脈の鼓動に合わせて優しく撫でてやるといい」
「おお、ありがとうなお兄ちゃん! あんたも乗るかの?」
「いや、まだあちこちに進めない馬車がある。
ウマたちが興奮したままでは、馬車での避難路が
「そうか……死なないように頑張るんじゃぞ!」
老人の言葉を背に受け、金髪の旅人は走り去る。
馬車が外壁に向かって無事に走り去った直後、さらに大きな地揺れが起きた。
「くっ……!」
ゴゴゴゴ……!
金髪の旅人の頭上に、石造りの時計塔が倒壊してくる。
避ける間もない。
巻き込まれる寸前──空中から飛来した影が、金髪の旅人の足元をすくい、強引に宙へと引き揚げた。
「あっぶなー! めっちゃスリリングだったね!」
「……ありがとう。助かった」
「いいって、いいって、こっちこそありがと!」
「さすがに死ぬのはヤだからさ、できるかぎりで、やれることをやっていこ!」
「ああ。それは同意見だ」
必死の避難活動と助け合いが続く中。
ヨートゥルムの夜空を、王城から一直線に飛翔する、二つの影が走り抜けていった。
高くそびえる首都の外壁の
「……はぁ……はぁ……!」
ハルスフォートが、肩で息をする。
一流の剣士たるハルスフォートとはいえ、子供を一人抱えたまま、直線距離3キロメートルもの長距離走はかなり
外壁の上で大の字に転がるハルスフォート。
その腕から離れ、自分の足で立つリスティは、城下に目を
「ハルスフォートさん……街の人たちが……」
「ああ……このままじゃ、魔王が全部ぺしゃんこにするだろう」
ハルスフォートは立ち上がると、肩に
中から現れたのは、弦のない白い弓、
「どうするんですか……それ」
「昼間の演劇を思い出せ」
ハルスフォートは、王城の方角──プレッシャー渦巻く中心を、真っ直ぐに見据えた。
「役者のセリフにあったろ。『我ら二人が引く
あれはただの演出じゃない。恐らく、光の弦を張る持ち手と、矢を放つ引き手が必要なんだ。
……弦は、おれの魔力でも張れる。矢を生成する引き手に強い魔力があれば、より威力が上がるだろう」
「それじゃあ……」
「ああ。おまえが引け。
……ここで逃げれば、おまえは街の連中を見捨てたって、一生それを苦にして死ぬような
だから、ここで勇者になればいい」
軽口を叩くハルスフォートに、リスティが一歩だけ後ずさる。
「もし……勇者になれなかったら?」
弱気のリスティに、ハルスフォートがきっぱりと宣言した。
「逃げる。
罪の背負い方なら、おれが教えてやるよ」
「……はい」
ハルスフォートのその言葉に、リスティは
「よし、やるか──」
ハルスフォートは、
ジュウッ!
「ぐっ……!」
彼の
肉が溶け、骨が曲がる激痛に、ハルスフォートの顔が醜く
「さっさとやれよ! 手がアイスクリームになっちまう!」
「ハルスフォートさん……!」
「おれの手を見るな! 街を見ろ!」
ハルスフォートは、歯を食いしばったまま笑った。
祭りの灯で輝いていた大通りが、今は悲鳴と炎に塗り替えられている。
逃げ惑う人々。
転んだ子供を抱き起こす母親。
崩れた家の前で、名前を呼び続ける声。
外壁に立つリスティには、手を伸ばしても届かない。
しかし、視線は届く。届かないはずの距離に、手だけが先に伸びていた。
「助けてやりたいだろ?」
ハルスフォートの言葉に、リスティが震える。
──助けたい。
その気持ちに比べれば、自分の恐怖は小さいものだ。
伸ばした両手を、ハルスフォートが握る弓から生成された
「──いきます!」
リスティが弦を引いた直後、外壁の石目に青白い輝きが走った。
小さな指先に集まった白光は、やがて伝説の弓よりも、彼女の背丈よりも大きな矢へ膨れ上がった。
「行け!」
ハルスフォートの号令に、リスティの五指から、弦が離れる。
ビシュウッ!
人の手に余る
ドゴオォォォォンッ!
凄まじい爆発。
数瞬の後、光が収まる。
二人は息を呑んで、眼下の光景を追った。
──王城の「上半分」が、綺麗に吹き飛んでいた。
地下に続く岩盤は無事であり、最深部にいるガーノスヴァイエにまで達していない。
「逃げるぞ」
「ええっ!?」
ハルスフォートは、
失敗したら、さっさと逃げる。これ以上の未練はない。
「こ、このままだと……魔王は、ヨートゥルムを滅ぼしちゃいますよね……?」
「そうだ。魔王討伐なんざ、たった一人のガキに背負える責任でもないし、背負わせるものでもないのさ」
「わたし……勇者には、なれなかったんですね……」
リスティの指が、まだ弦を引く形のまま固まっていた。
けれどそこには、もう魔力の糸はない。
開いた手の平が、夜風の中で縮こまる。
しかし。
「……ん?」
外壁の向こう側の空。
空中から飛来するのは、結晶に
「──逃がさないわよ、ハルスフォート!」
タラスクの背に乗る彼女が、